すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

数学と自由と荷物と

2015年09月10日 | 雑記帳
 ロジカルに考えることは、必ずしも幸せに結びつかない?なんてことを考え始めていたときに、『理想の詩』という冊子に載っていた、ある数学者のインタビューを見つけた。数学者こそロジカルに考える典型的存在なんだろうと思う。だからといって、数学者はいつも疲れているとは限らないし、むしろ幸せそうだ。


 数学者新井紀子は、数学を学ぶ必要について次のように語る。「数学が、未来を予測するためのものだからです。」なるほど。「さまざまな事象に対して、関係性や関数を見つけること」は、未来を予測することにつながるだろう。それはそんなに難しいことばかりでなく、仕事や食事や対人関係にも当てはまることだ。


 つまりロジカルに考えることは、目的や目標に近づくためのデータ処理であるという当然のことを思い出してみる。だから、数学的なリテラシーを持つことが選択肢の幅を大きく拡げ、「人はより自由になれる」と書いてある。うーん、「自由」か。またやっかいな言葉が出てきた。自由とは、幸せに結び付くのか。


 アタリマエダのクラッカー、自由ほど幸せなことはない、と思いつつ辞書を引くと、面白い。「広辞苑②の(ウ)倫理的自由」に書かれてある部分に感動を覚えた。「サルトルにおいては、人間は存在構造上自由であり、したがって常に未来の選択へと強いられており、それ故自由は重荷となる。」そうかあ、自由は荷物か。


 とてもロジカルとは言えない文章となった。それにしても、「自由」ほどレベルの違う各層で使われている言葉はないと思う。社会的定義と別に、自分の背負っている自由をはっきり意識することは、年を重ねるほど必要な気がする。こんな自由、あんな自由…言っているだけではきわめて不自由に見える。

幸せを邪魔する「希望」

2015年09月09日 | 雑記帳
 また、予防医学研究者・石川善樹の言を取り上げる。
 例の糸井重里との対談の一回目が「疲れる感情・疲れない感情」というタイトルになっていて、こんなことが語られている。

 実は感情って「疲れる感情」と「疲れない感情」というものがあるんですよ。たとえば「幸せ」なときとかって、人は疲れないんです。
 ロジック機能がオフになるから、脳は疲れないんですね。


 そして、この次に登場するのが「希望」という言葉だ。


 「希望」という感情は、疲れるんです。「希望」は「幸せ」と同じタイプに見えるポジティブな感情ですけど、「希望」のときは「幸せ」と違って、目的意識があって、すごくロジカルに考え始めますから。


 つまり「希望」のなかみの問題だとは思う。

 しかし、ロジカルに考えなくてもいい「希望」があるか、と問われれば、やっぱり無理か、と思い直す。

 辞書をもとに「希望」を言い換えれば、「ある事の成就を願い望む」また「将来のよいことの期待」である。それは基本的にロジカルに考えていくことだ。

 それなくして「教育」もまたあり得ないのかもしれない。
 教育の核をなすのは、言うまでもなく「学力をつけること」。

 そしてある先達は「学力とは、幸せをつくる力」と言う。共感を覚える言葉だ。

 しかしある意味で、教育そのものに目的意識が強まると、幸せ感は弱まるという逆説めいた論理が成り立つ。

 「疲れない感情」だけで、学習や生活をしていけるとは思わないが、疲れる感情に溺れていくようでは困る。


 たぶん、希望の本質や考え方を見誤らない運用が必要なのだ。

 「目標を、達成しやすくするヒント」とは、結局プロセスをいかに楽しめるかである。

 「希望」が、それを邪魔するようでは「幸せ」になれない。

どこへ風穴をあけるか

2015年09月08日 | 読書
 【2015読了】88冊目 ★★
 『風穴をあける』(谷川俊太郎  角川文庫)

 この文庫はたしか以前に読んだはずと思いつつ、読み進めた。そして「教室を批評すること」という章で、そうだったと確信した。本ブログにその部分だけの感想を残していた。8年以上前であるが、今もその現実はあまり変わっていない。むしろ一部において「病の自覚」が希薄になった分だけ深刻とも受け取れる。


 その点について自分を棚上げするつもりはないが、今回の通読では結構様々な他の発見があり面白かった。以前は読み過ごしたのか、寺山修司との仲をこんなふうに書いている。「一時期、あいつらホモじゃねえかと陰口をたたかれるくらい親しかった」…双方が感じた魅力って一体何だったかと、不思議な気がした。


 作風や生き方の違いなどは語るべくもないが、個人的には早く逝っちまった人と生き永らえている人というイメージが強く浮かぶ。寺山ワールドを熟知していれば、谷川に影響を与えている点など分析は出来るのだろうが、そこまでの知識や洞察力もない。ただ、谷川の詩をまた一つ深く感じられるかもしれない。


 読みながらページの端を折った箇所の複数が、「解説」で触れられていたので少しびっくり。書いているのは、歌人穂村弘である。穂村の歌(というよりエッセイか)にシンパシ―を抱く自分の感性が、また重なってしまった。もちろん穂村はもっと深く入り込んでいる。リズムや波動を感じる力だ。正直、口惜しい。


 後半に「希望」という語が頻出する。友人の武満徹に関する文章に取り上げられている。また、寺山について書いた文章中に、引用で次の問いが載っている。「希望はなぜ二文字なのでしょう?」それらはどこか「光」と言い換えられそうに思うが、最近この「希望」という言葉に戸惑いを持っている自分だ。明日書く。

加工の発想、発酵の思想

2015年09月07日 | 雑記帳
 JR東日本の発行する小冊子に、狂言師の野村萬斎の記事があった。

 伝統芸能を継承する第一人者の一人と言ってもいい彼が、芸の本質を突き詰めたい思いを抱くのは当然であり、その先に「自分は何者なのか」という問いがあるのだという。

 結局、それは「日本のアイデンティティーとは何かを考えること」と語る。
 そして、考えつづけた結果を、こんなふうに表している。

 ひと言で言ってしまえば、この国の文化は「発酵」文化である、というのが今の僕の持論です。


 この文章を読み、ふと思い出したことは、唐突だが「加工貿易」という言葉だった。
 小・中学校の社会科の授業で、また参考書の記述に何度も何度も出てきた気がする。
 曰く「日本は、資源の少ない国です。そのために外国から原材料などを輸入し、それを加工して製品にして、他の国へ輸出するのです」と…。

 なるほどと頷いたものの、地方の農村に住んでいる若かりし頃の自分に、しっくりとその知識が根づくまでは時間が必要だったなあ、と越し方を思い出す。

 「加工貿易」と「発酵」は即時には結びつかないが、「加工」の「時間や質」と言い換えられないわけでもない。


 もう一つ思い出したのは、予防医学研究者・石川善樹の語ったこと。

 日本ってどうも、「半歩ずつの徹底的なイノベーション」がすごく得意な国だと思うんですね。

 日本人は自分で新しく枠組みを作るのは苦手だけど、なにかで枠組みができてしまえば、半歩ずつ徹底的に突き詰めていく。そういうのがすごく得意な国だと思うんです。


 よく言われるロボット産業やシャワー付きトイレのこと、ガラケーと呼ばれる携帯電話もそうだし、また料理や食品などにも多く当てはまりそうだし、いくつか思い浮かぶこともある。

 「発酵」となると、もう少し高級?になるだろうか。
 萬斎はこんな言い方もしている。

 入ってきたものを日本式につくり変え、別の何かを生み出す。日本独特のものに発酵させ、変質・変容させてしまう。

 
 そして、もっとも肝心なことは次だ。

 そういう自分たちが持っている独自性に、最も気付いていないのは日本人だと思います。


 加工の発想、発酵の思想みたいな学習を意識してみたいと思った。

目と耳と手のよい本に酔う

2015年09月06日 | 読書
 【2015読了】87冊目 ★★★★
 『人質の朗読会』(小川洋子  中公文庫)


 発想に酔う。中南米だろうか反政府ゲリラのテロがあり、その人質となった日本人8名。数か月後の強行突入により犯人グループは全員射殺されたが、人質全員が爆破によって死亡する。しかし秘かに取り付けられた盗聴器によって、人質たちがそれぞれに書いた話を朗読した声が残っていた。それを公開する設定だ。


 人質8名の話は、各自が胸にずっとしまい込んでいる記憶がもとになる。一見些細なことを発端に少し奇妙に思える出来事が展開する。個の中に埋め込まれた記憶とは、ある意味、他者からみると「不思議」な部分を抱えるかもしれない。それが物語の魅力…すうっと入っていく。兵士が話者となった9編目も秀逸だ。



 文体に酔う。「自分の中にしまいこまれている過去、未来がどうあろうと決してそこなわれない過去だ。それをそっと取り出し、掌で温め、言葉の舟にのせる。その舟が立てる水音に耳を澄ませる。」こんなふうに言葉を操れる作家とは凄い存在だ。表現力というより、観察力や傾聴力や造形力の深さのようなイメージだ。


 「第三夜 B談話室」の中に、こんな一節がある。「とりあえず意味などというものは脇に置いて、彼女の言葉を鼓膜で受け止めていた。」…内容自体が聴きあうことを一つのテーマとしていて、『人質の朗読会』全体のコンセプトにも共通する点を持っている。試しに声に出して読んでみると、文章が一層響くのを感じた。



 感覚に酔う。「第二夜 やまびこバスケット」に、アルファベット形のビスケットを「ZO」と並べる場面がある。登場人物の好きな「象」のことで「そう、名は体を表すだ」と言わせたことに、少し感動してしまった。見聞きしているようで、結局何も反応できない者は、この本を読んで神経を研がなければならない。

修学旅行独り言つ・承前

2015年09月05日 | 雑記帳
 言うには易いが、調査と事前絞り込みが不可欠だ。しかし現実的か。だったら、施設見学をメインにせずに、繁華街等を時間かけて歩き、三つの体験をするといった形がより小学生向きではないか。かつてマクドナルドかモスバーガーかで悩んでから入店した女子グループを、つかず離れず引率?した思い出がある。


 正直にいえば、結局のところ小学生にふさわしいのは総花的共通体験型ではないかと、昭和の教師的発想もずいぶん残っている。同じものをみんなで見聞きするという体験のよさ。確かに個々の好みが多様化し、様々な留意点も多いのだが、活動形態や事後の表現方法さえ工夫すれば、まだまだ価値の高い活動ができる


 そんなふうにあれこれ吟味してみる余裕をなくしている現場と言える。もちろん旅行の位置づけはしっかりとしているし、教科学習との関連付け、卒業に向けての集約と絡ませながら進めてはいる。しかし言い方は悪いが、ノルマとしての行事という面を強く感じてしまうと、主体者である子どもの心にも陰を落とす。


 難義だけども楽しみだったのが修学旅行だった。現役なのでここでは記せない出来事(いや未熟さを痛感する行動だ)も結構あった。担任した子と語らえば、一つや二つは必ず話題に上ってくる。その意味では不滅な行事と言えよう。「一緒に行き、一緒に食べ、一緒に泊まる」という根本的な意義を説いた名校長がいた。


 修学旅行については、結構小ネタでこのブログでも書いている。最近はずっとビデオ編集を続けているので、絡んだことが多い。今年も二週間ぐらいかけてまとめていくだろうな。それも最後になる。自分は登場しないVTR&フォトではあるが心には残るものだ。綴った文章で思い出すのは、ああ、あの時の人だなあ。


修学旅行独り言つ

2015年09月04日 | 雑記帳
 ここしばらく6年生の修学旅行に続けて行かせてもらっている。他学年の宿泊学習の野外活動では戦力外(笑)なので、修学旅行の方がいいだろうと判断しての引率だ。それでも中身によっては、ずいぶん歩く距離が長いので、ついていく時がしんどいこともある。今回は歩数計によると、初日は10キロ超であった。


 つくづく、のんべんだらり生活を反省!それはさておき、今回に限らずよく取り入れられるグループ別活動について少し考えてしまった。もちろん事前準備、下調べ等を行ってはいるはずだが、現場に行くとバス利用さえ心もとない現実だ。だからこそ体験させるのだ、という見方もできる。しかし一体何が得られるか。


 失敗からの学びは大きい。しかし、たかだか3~4時間の見学地一ヶ所(往復の交通機関利用の時間が大きい)では、何を失敗してもあまりぴんとこないかもしれない。また失敗させないように取り囲む我々の責任もある。失敗させられない限定のある時間的な設定も大きい。つまり、グループ活動の優先順位は低い。


 活動の意義は確かにあるのだ。しかし、ねらった観点を達成させるためには、例えば一ヶ所ではなく複数箇所の見学、日程は半日ではなく1日、さらにリサーチを徹底させ、箇所内部における活動計画作成まで行くべきではないか。とはいえ、大胆な計画変更や事前学習確保は難しいという現実。では発想を変えよう。


 そうだ、例えば「めあて達成型」はどうか。実際にやっている学校はあるかもしれない。「○○に行き、○○をしてくる」を基本フレーズに、例えば「動物園に行って、象の絵を描く」「科学館に行って、磁石の玩具を作る」「周遊バスに乗って、全バス停の写真を撮る」といった、最終的に表現系を志向させていくとか…。

予感がしてくる対談

2015年09月03日 | 雑記帳
 「ほぼ日」の連載対談を、ここ数日読み続けている。
 主宰の糸井重里と、予防医学研究者の石川善樹氏。
 予防医学とはどんなものかわからないが、とにかく面白い知見にあふれているし、糸井の接点の提示の仕方もいつもながらうまい。


 「脳がそこがゴールだと決めると、急に限界が見えてくる」

 目標設定にありがちな落とし穴がそこにある。

 ノルマ主義?に乗せられているだけ、と疑ってみること。

 自分が何をやろうとしているのか、まず根本を問いつめること。



 「本質は例外から見えてくる」

 これは効いたなあ。
 仕事にも、自分の日常にも。

 その観点で、子どもを見たらきっと見え方が違ってくる。
 その観点で言動を振り返ったら、自分自身が透けてみえる。

 そんな予感がする。

変わらなかった、という希望

2015年09月02日 | 雑記帳
 かつて愛読した雑誌『ダカーポ』。休刊となってしまったが、マガジンハウススピリットは残っているようで、「3時間でわかる戦後70年」と銘打って「戦後70年を考える」という特別編集号を発刊していた。内容は、いかにも本誌らしく、水木しげるの漫画に始まり、政治だけでなくスポーツ、芸能等々幅広い。


 「戦後はいつまで続くのか?」という問い立ては、ダカーポらしい。語義から考えれば当然「次の世界的な戦争が始まるまで」となる。しかしそれ以前に、論客萱野稔人は「戦後は一体いつから始まったのか」と問いかけ、それが1945.8.15という大方の捉えを否定する。厳密に考えることから見える意味は大きい。


 占領下は戦後だったのか…形式としての判断ではなく、どんな意識を国民が持っていたのか、それは正直想像できない。しかしおそらくサンフランシスコ講和条約までの6年で決まったこと、固まったことは大きいのだろうなと思える。諸問題の元をたどったときに、「戦後」でない戦後の持つ重みは、想像以上だろう。


 各分野の重鎮の文章も興味を惹く。演出家鴨下信一は、ドラマを「集団→個への流れ」と位置付けた。社会を典型的に反映する娯楽が、そう示されたのは当然であり、現在の社会状況も次の一文に尽きるだろう。「芸能人もメディアもどこか委縮している。この状態ではドラマをはじめ面白いものはなかなか作れません」


 委縮がありドキドキする面白さに欠けることは、若き社会学者古市憲寿が書くように「希望も絶望もない時代」と言える。生き抜く処方箋は見つからないが、古市がぽっと書いた「戦前から変らなかったものも多い」という現実は、70年という年月で磨かれ、さらに光り輝く可能性もある。それを見つけられるか、だ。

全員に、人生がある

2015年09月01日 | 読書
 【2015読了】86冊目 ★★
 『我が家の問題』(奥田英朗  集英社文庫)


 家族、家庭をテーマにした6つの短編小説集である。久しぶりの奥田本、相変わらず読みやすく、ゴロリと横になって読む、長風呂の友として読むには最適だ。いつぞや読んだ『家日和』と似ている「家庭小説」?というジャンルなのか。各々が抱えている深刻な、または傍からはそうは見えないような問題がテーマだ。


 冒頭の一行で問題が提示されるパターンが多い。第一話は『甘い生活?』は「新婚なのに、家に帰りたくなくなった。」第二話の『ハズバンド』は「どうやら夫は仕事ができないらしい。」第三話『絵里のエイプリル』は「どうやらうちの両親は離婚したがっているらしい。」…とこんな切り出しで、その家にするっと誘い込む。


 物語のパターンは同一ではないけれど、ほとんどに共通して登場する行為が「リサーチ」である。主人公とも言うべき視点人物は夫、妻、娘それぞれで違いがある。しかしそれぞれが問題解決のため、同僚や友達に問題について意見聴取をしていて、その返答の多くが、ある意味で「我が家の問題」とも読めるのである。


 人は誰しも「問題」を抱えて生きている、という当然のことに気づく。ただそれを「物語」に仕立てられるために、観察力や想像力や構想力などが必要になる。それらが発揮された文章の連なりに引き込まれるからこそ、第5作『里帰り』の中にあった実に平凡な言葉でも、うっと来てしまう。「全員に、人生がある。」



 『我が家の問題』の「問題」は、視点人物以外の家族の誰かの問題として提示される。しかし問題解決は、振りかかってきた自分の行動変化でなしとげられ、結局、心情や姿勢の変容に結びつくという、まさに物語の王道なのである。そして糸口は、これまた常道「小さな勇気」。まさに「小説」の一つの典型と言える。