すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

夢破れし者へ歌を届ける

2018年03月21日 | 雑記帳
 開演前の案内で「皆様もどうぞをお買いください」という声に、会場から笑いが漏れる。まあ「宝くじ文化公演」なので当然か。すると、この会場に集う者は皆「夢破れし者」かと気づく。その痛手を癒すために、せめて夏川りみの歌声と京都フィルハーモニーの調べに耳を傾けてくださいと…そんな訳はないか。



 久しぶりの生演奏鑑賞、楽しみにしていた。京都フィルは室内合奏団なので十数名だったが、それなりの手慣れた演奏だったと思う。「カノン」や「風と共に去りぬ」等、弦楽器の良さが十分堪能できた。反面、少人数で「ロッキーのテーマ」を奏でられても、なんとなくフライ級という気がしたことも正直なところだ。


 夏川りみの歌は、アンコール2曲を入れて全9曲。まあ妥当なところか。沖縄愛にあふれた選曲だった。特に最後の『』は、最初にマイクなしで手話つきの部分が効果的で、物語のある構成だった。5年ぶりの新曲『あしたの子守唄もいい歌だ。Youtubeで出だしだけ聴くことができる。サビの部分がいいのにねえ(笑)


 『童神~ヤマトグチ~』は懐かしかった。この曲の本家、古謝美佐子が我が町に来てから、もう15年ぐらいになるか。あの折にシングルCDを数枚買い求め、もうすぐ赤ちゃんが生まれる知人たちにプレゼントした気がする。自分にとっても、孫を授かった現在かなり沁みてくる曲。本家の「ウチナーグチ」もいいなあ。


 前に耳にしたことはあったが、『黄金の花』という歌も名曲だ。岡本おさみが書いたその詞は「黄金でその目を汚さないで/黄金の花はいつか散る」「黄金で心を捨てないで/本当の花を咲かせてね」と世の人の金銭欲、物欲を嘆く。ああ実に「宝くじ文化公演」にふさわしい(笑)。夢破れし者たちに、その夢の質を問う。

「極み」の道は遠いけれど

2018年03月20日 | 読書
 フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュは、いわゆる「脱成長」の急先鋒と言われている。そのエッセンスは一言「減らす」で表されるという。過剰生産、過剰消費そしてゴミや諸々の痕跡を減らす、それは社会全体を指すとともに、個人にとっても当てはまる。同じフランス人の女性作家が書いた本を読んだ。

2018読了29
 『シンプルを極める』(ドミニック・ローホー 幻冬舎)




 日本在住30年というこの著者は「余分なモノを捨て、心に何も無い空間を作る」ことを提案する。となれば、当然のごとく「禅」「茶の湯」「俳句」などの考え方が頻出している。もちろん洋の東西を問わず偉人たちの言葉、さらにはネット上の一般人のブログからも、テーマに沿った様々な言葉が網羅されていて面白い。


 「モノを排除するための妙薬」つまり考え方を第一章とし、二章、三章で整理の観点や実践の留意事項が提起される。それほど目新しくはないが、一章で引用された考えは、勉強になった。例えば良寛の良寛らしい俳句「盗人に取り残されて窓の月」…ここには、この部屋で何を味わうべきかの「極み」が確かにある。


 ガンジーは、心の向くままが一番大事と強調する。本の処理に困った人の問いかけに「後悔が残る形でモノを処分するのは望ましくない」と寄り添って答えたという。ただ、それはこう続く。「ただし、持ち物の悩みから解放されることは簡単なこと、持ち物を手放すだけだ」。選択は、常に自分。これも「極み」である。


 今冬は雪が多かったので、除雪道具について用途にあうものの便利さを痛感した。結果少しモノが増えた。これはこれで技術の有意性があると思う反面、一つでいろいろと使い回す工夫ができるのも、人間ゆえだ。嗜好品などは決意さえあれば見直せるはずだ。「極み」の道は遠いが、持たない格好よさには憧れる。

妄想鑑賞文…その弐

2018年03月19日 | 読書
 『石の器』という書名は、この句からとっていると思われる。「石の器あるから腹を満たそうか」…これは解釈が難しい。「石の器」が何を表わすのか。感じられるのは、重さ、冷たさ、固さといったものだ。「腹を満た」すことと重ねて、否定的にとらえていいものか、はたまた頑丈さに目をつければ、楽観的とも取れる。



2018読了28
 『石の器』(田口恭雄  編集工房円)



 足裏を齧る風雪注意報

 昨日から降り続く雪。強い寒気が入り込み、明日はもっと風が強まると天気予報が告げている。素足のまま用足しに向かうと、あまりにもひんやりとした床にびっくりし、思わず早足になった。毎年、人間の無防備さに呆れている。窓の隙間からは、吹きすさぶ風の音。白一色に覆われてこの村全体が息を潜めている。


 峠から降りて狸のいる酒場

 バスは曲がりくねった峠道を降りる。溜まった疲れと週末のほっとした安堵感が混じる夕刻である。何をあくせく急いでいるのかと、野に棲む生き物たちはこの乗り物に目を送っているだろう。その嘲りは自分の心の中にも時々顔を出す。バスから降りたら、馴染みの居酒屋へ向かい、人間様相手に心の重みを解くか。


 ちびた鉛筆母がこの世に生きたころ

 文机の筆立ての底にへばりつくように、短い鉛筆が一本あった。深緑色したこの鉛筆を、昔よく母が使っていたことを思い出す。あまり筆まめではなかったが、買い物のメモや連絡帳の返事などパッパッと書く姿が目に浮かんだ。埃がつき、尻も真っ黒。でも、捨てられないなあ。白い紙に包みそっと机の中へ仕舞う。

妄想鑑賞文…その壱

2018年03月18日 | 読書


 俳句を「風景画」とすると、川柳は「人物画」。対象人物は本人か他者か、いずれにしても「自分」が入り込むことは確かだろう。そんな気持ちでここ数日読んでいた川柳集から、お気に入りの句をかつて教室で子どもに書かせた形で短文化しようと思い立つ。句の世界には及ばないと知りつつ、妄想に任せて鑑賞する。

2018読了28
 『石の器』(田口恭雄  編集工房円)



 敵を見る老眼鏡で敵を見る

 何っ!TVから聞こえてきた不正問題の行方は30秒で終わってしまった。どれどれ、新聞をめくれば記事はあるか…と、大きな見出しは読めるが、眼鏡がないとこりゃ駄目だ。おいっ眼鏡、眼鏡はどこに置いたっけ?ほらいつもの所でしょ、本当に駄目ね…と嫌味を投げつけられた人を、眼鏡をかけてまざまざと見る。


 岬まで生命線が伸びている

 久しぶりに鉄道を乗り継ぎ、路線バスを使って旅をする。行先は雑誌写真では見て惹きつけられた、南の岬。窓からその切っ先が見え始めた。初夏の陽を浴び、水面もきらきらと輝いている。「ほら、あそこ」と指さし教えようとすると、隣の君は、うとうとと舟をこぐ。この曲がりくねった海沿いの道は、まだまだ続く。


 新しい墓にまあるい月が出る

 いい男だった。親しい間柄の宴のときも傍らで物静かに笑い、時々発する一言は、みんなを妙に納得させた。働き者で、いつも人のやりたがらない仕事を引き受けてくれる奴だった。突然の病に倒れ、年老いた父母を残し逝ってしまう。七週間後、新しい場所に移された夜。雲から抜け出た月がそこらを照らし始めた。

志ある現場主義の人

2018年03月17日 | 読書
 いわゆる「スーパー公務員」と称される人物としては、TBSドラマ「ナポレオンの村」のモデルとなった高野誠鮮氏や、NHKプロフェッショナル仕事の流儀で取り上げられた寺本英仁氏が挙がるだろう。この著者の名は知らなかったが、若さと行動力は抜群だ。それゆえにこうした単著を出すことに踏み出せたのだろう。



2018読了27
 『県庁そろそろクビですか? 「はみだし公務員」の挑戦』(円城寺雄介  小学館新書)


 初めから高い志があったわけではなかった。しかしこの苗字が意味する歴史的な血脈があるのかもしれない。そう妄想させるほど、着火剤的な動きは激しく一途である。ただ周りへの気配りも相当あることが、本文中の記述にも溢れている。だからこそTV取材が許されこの出版も叶ったのだろう。渾身の一冊である。


 「現場主義」を貫き仕事に慣れた3年目、先輩に叱責された一言が彼を成長させる。「お前、行政官やろうが。行政官っていうのはな、法律と規則に基づいて仕事をしとるって、それを知らんとか!」…「天狗の鼻をへし折られた」著者は、そこから学び直すが、その方向は単なる法律遵守に留まらない。再び、現場だ。


 法律に則って行うことが公務員の使命である。先日傍聴した議会である質問事項があった。要領に沿って住民対応した行政側に対して、質問を投げかけた議員はそれでは駄目と異を唱えた。その話が空中戦でも地上戦でも、肝心なのは何を目的としているかその下地を認識するべきである。根拠はきっと「法」にある。


 今報道を騒がせている、文科省の前事務次官を招いた授業について調査した件も同様だろう。「法律上は」とは言うが、それはどこを指しているのか。小手先の議論や言い訳を続けることが、いかに教育的でないか。「できない理由」探しに翻弄している中央官庁の姿を思う時、地方で踏ん張る著者のような存在が眩しい。


 志ある仕事の仕方が実感を伴って語られる。「『あるべき姿』や『価値前提』で物事に取り組む」「人が本当に動くときは“共感”が働いたときだ」。また「1年間の給料を貯めよ(辞める覚悟を持て)」「やりたいことはアフターファイブ」という現実的でしたたかな提案もしている。多くの若い人に刺激を与え続けてほしい。

自分をいじめ、開き直る

2018年03月16日 | 読書


 久しぶりに出向いた町の図書館、地元出版物の書架で、たくさんの詩集を出版しているT先生の著作の中に、川柳集を見つけた。沁みる一冊だった。先週あった会議後の雑談で、隣席から「川柳は始めたときは良かったけど、だんだん難しく感じて…」という声。経過としてはありがちだが、どんな点か気になった。


 二つのことが重なり、頭の中がいつしか川柳モードに。自分で意識して創ったことはほとんどないが、時実新子という作者について興味を持ったことがある。整理した後の書棚に残っていた川柳の本はわずか。その中からちょっと新たな気分で再読してみようとこの本を手に取る。改めてこの文芸の持つ魅力を知った。

2018読了26
 『時実新子 川柳の学校』(杉山昌善・渡辺美輪  実業之日本社)


 某生命会社の『サラリーマン川柳』はいつも楽しい。しかし、時事的で流行語などを入れ込み、ワハハ感を持たせることは、本道ではないだろうと思っていた。世の中を皮肉ったり、権力者を嘲笑ったりすることは出来るけれど、一番見つめたいのは「自分」ではないのかな。T先生の川柳は、まさしくそうだった。


 この本では、川柳を次のようにとらえている。「川柳は人の世のよろこびもかなしみも、深いところで捉える力が備わった『おとな』と出合うことを望んでいる文芸なのです。」以前は、俳句と比べて一段下のような印象を持っていたことは確かだった。それを覆したのは、時実新子との出合いの一句だ。衝撃をうけた。

 ほんとうに刺すからそこに立たないで(新子)

 これがフィクションであったとしても、こういう現実をくぐり抜けた人にしか吐き出せない言葉だろうと強く思わせられた。川柳は季語もなく、制約もすくないので、その気になれば書けそうだが、その辺りが落とし穴である。「心を吐くという川柳のテンション」と書いてある。テンションの維持は容易ではないことだ。


 どのような現実をどのように歩むか、それは人それぞれ。傍目から見ていただけでは、心の中は覗けない。唯一、自分自身だけしか知りえないとすれば、何が「川柳のテンション」に結びつくのか。この本から学び取ったキーワードは一つは「劣等感」。もう一つは「自己の他人視」。自分をいじめて、開き直ることなのか。

いつも今の話だよ

2018年03月15日 | 雑記帳
 ある会議で発言したら、主催者に「そこまで言いますか」と笑われた。子どもたちが外で遊ばなくなった、自然体験が少なくなった…というある面では定番の話題に、管理された日常、常に「責任」が問われる状況といったこれも定番の理由づけがされたので、つい口にしたのは「戦争でアメリカに負けたからだね



 まったくいつの話をしているんだと自嘲しながら、結局、モノだけが豊かにあふれ、心が置き去りにされていることは誰しも理解しながらもそこから一歩も進めずにいる。先日ある知り合いから聞いた、身内の離職話も結局、個人の責任もあるけれど、歪んだ政治体制、社会態勢が根本にあることは確かなはずだし…。



 「どこかで選択を間違えた」という常套句もある。日米戦争まで遡らずとも、安保法制や選挙制度など国の針路に影響を与えただろう箇所も思い浮かぶ。しかし、決定的な曲がり角がどこかという検討も無意味ではないが、後戻りできない今、肝心なのは相互の信頼度を強めること、次に来る選択を見誤らないことだ。


 連日、森友問題の文書書換について報道される。「民主主義に対する挑戦」と口にしたジャーナリストもいた。想うに「これを書き換えて民主主義を倒してやる」と力んだ人は一人もいないだろう。何故そうなったのか、それを振り返られない構造、恣意的な解釈の横行こそ、人の心に巣食う敵だと気づかねばならない。


 昔のドラマのように、不正があって自殺者が出たりして、犯人捜しのような展開が、トップエリート省庁を舞台にしているかと思うと、少し情けない。結局ありがちな、組織堅持の名を着た自己保身か。わかるのは、おそらく「戦時」だとしても使い物にならない人たちが上に居座る国。いったいいつとは、今の話だ。

どこまでも生命を尊重する

2018年03月14日 | 読書
 監察医や検視官などのドラマが取り上げられたのは、この方の影響が大きいだろう。
 何かのセリフにも使われたような気がする、次の文章はプロフェッショナルだけにしか語れない。

「私が扱う死体は、生きているのである。
 生きている人と違うことは、しゃべらないということだけだ。
 だが、生きている人が喋ることには嘘がある。しかし、喋らない死体は嘘をつかない」


2018読了25
 『監察医の涙』(上野正彦  ポプラ社)


 著者は二万もの死体に接してきた。取り上げられた例は様々だ。ドラマ等で登場する作り物とはまた異なる。例えばコインロッカーに捨てられた赤ちゃんが「死産児」か「生産児」か。母子心中がはたして「合意」なのか。自殺の「原因」を語らない家族の心情…死に方とは、一人一人違うものだと今さら納得する。


(20180314 春近しの川辺)

 「過労死」の章に、労災認定をめぐり、家族、監察医、労働基準局のやりとりが記されている。著者がその職にあった頃は過労死が認められない時期だった。著者は現場に立ち会い、意見書を何度も何度も書いた。その努力が今の法制化につながっているのだ。まさに、仕事を通して「生命尊重」の思いが貫かれている。


 地域医療に文字通り命を捧げた父に対する思いが、著者の仕事の核を作っている。また最終章が「妻の死」であり、伴侶が支えた仕事の質量は計り知れない。『監察医の涙』という書名は広い意味の名づけだろうが、一個の人間としては、紛れもなくこの二人に捧げられている。いい仕事を残す人の典型をみる思いがした。

呟いて、うつ解消

2018年03月13日 | 読書
 「新選いろはカルタ」の「」に、所ジョージはこんな句を出した。

 「か」…柿食えば、食えば!? 食えば!? 食えばいいじゃん。

 このかなりスルーした感覚。所さんは先駆者だと思うのだが…



2018読了24
 『四字列語』(所ジョージ  新潮社)


 所さんの言葉ネタならそれなりに笑えるかと思って手にとった。しかしちょっとスベッている感じが…。四字熟語のパロデイに徹するわけでもなく、新しい突飛な感覚で作りだした列語も多いし、それが笑いのツボにピタッとハマりもせずにやや中途半端。ただパロディ風列語は、うつ対策に効果あり。

 「虚胸無情(きょきょうむじょう)」・・・パットを入れた見せかけだけの大きな胸は、正体がわかった時に思いやりがない。後の事を考えない無鉄砲な行いを指す。イメージする句は「諸行無常」か。意味に近さを感ずる。


 「孔雀体質(くじゃくたいしつ)」・・・かわいい娘を見つけると、髪を整えたりネクタイを締め直したりする、いつも発情期にあるような者。イメージする句は「虚弱体質」だな。一字で正反対にもなる。


 「起床豚骨(きしょうとんこつ)」・・・起きてすぐにクドイものを食べなければいけないという意から、心構えができていないのに無理やり参加させられてしまうことを指す。イメージできる句は「起承転結」。流れなど関係なくやれ、という反対の意になる。


 「判官鼾々(はんがんいびき)」・・・弱い立場にある者に対して、裁判官などの第三者が何の同情も示さず、よく寝ている。偉い人が解決できない様にも通ずる。議会中継も似ている。イメージする句は「判官贔屓(びいき)」か。そういえば「骨灰議員(こっかいぎいん)も秀逸だ。


 「油断大切(ゆだんたいせつ)」・・・出来過ぎていては面白くないので、融通とか油断といった、のりしろも大事にしようという意。イメージは「油断大敵」に違いない。が、こういうギャグで笑えることも、こんな世の中だから大事と思う。

旅する床屋が刺激する

2018年03月12日 | 読書
 「腰のベルトに鋏を一丁携えて旅する床屋」…想像しただけでも格好がいい。
 髪を切ることにことさらの意味はないだろうが、そんな人に髪を切られたら、もしかしたら何かが「晴れる」のではないか。



2018読了23
 『空ばかり見ていた』(吉田篤弘  文春文庫)


 「この変則的な――変則的すぎる――連作小説」と、著者自ら記している。ホクトと称する放浪の床屋(もしくはそれに関わるエピソード)は毎篇に登場するが、つながりがはっきりとわかるような形ではない。その意味では読みづらさも感じつつ、それでも文章の肌触りがとてもよく、ぐっと入り込む時間もあった。


 この創作のヒントは、著者が行っていた床屋にあり、それがかの萩原朔太郎との縁があって、そういう系統のファンは興味をそそられるだろう。学生時代に少し齧っただけの朔太郎の詩。言われてみれば、どことなく描く世界が似ている気もする。それはどこか陰のある、少し冷たい風も吹くような空間の広がりだ。


 「リトル・ファンファーレ」という最後の作品に、パントマイムのレッスンのことが少し記される。そこで「先生」が語る「日ごろの習得」には、稽古事の奥義がずばりと表現されていた。「何かになるのではなくて、その何かが自分の中に満ちてくるのを待てばいい」。問われるのは、どのような佇まいで待つのかだ。


 食べ物のことを随所に散りばめるのが、この著者の特徴かもしれない。物語に関わりを持つ「マアト」という菓子。黒くて驚くほど甘いケーキ。デニッシュ、塩味のパン…そして口にちょっと唾を溜めてしまったのは、ねぎま鍋。久しく家で食べていなかったのでリクエストした。髪の毛同様、舌も刺激する話だった。