柴又の良観寺さま
東京都葛飾区柴又の良観寺さまです。
創建年代は不詳ですが、室町時代末期から江戸時代初期にかけての
間に念仏堂として建立された。
その後両観寺・了観寺として一寺となっていたといいます。
柴又七福神のうちの宝袋尊、江戸川七福神の布袋尊、また南葛八十八ヶ所霊場の52番、
西新井組中川通四箇領八十八箇所29番です。
お腹に両手を願掛けを祈る宝袋尊があります。
ふくよかな笑顔に腹だし宝袋尊 (縄)
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柴又の良観寺さま
東京都葛飾区柴又の良観寺さまです。
創建年代は不詳ですが、室町時代末期から江戸時代初期にかけての
間に念仏堂として建立された。
その後両観寺・了観寺として一寺となっていたといいます。
柴又七福神のうちの宝袋尊、江戸川七福神の布袋尊、また南葛八十八ヶ所霊場の52番、
西新井組中川通四箇領八十八箇所29番です。
お腹に両手を願掛けを祈る宝袋尊があります。
ふくよかな笑顔に腹だし宝袋尊 (縄)
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一昨年寿陵(お墓を買求めた)
『お墓を生前購入するのは縁起が悪い』などと言う人がいますが、
それはまったくの間違いとのことです。
お墓を生前購入すると逆に長生きするとも言われていますし、
生前のお墓を「寿陵(じゅりょう)」ともいい、
仏教の「輪廻転生」の考えに従えば、逆に縁起が良いといわれています
山門横の法話
『法句経(ほっくきょう)』に
人の生を うくるはかたく
やがて 死すべきものの
いま いのちあるは
ありがたし
という聖語があります。
再び生まれてくることのない私、1回きりのいのちを
「どう生きるのが本当か」がわからなくては、永劫(ようごう)に
迷っていかねばなりませんと、親鸞(しんらん)聖人は
お念仏の教えを生涯説いていかれました。
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墓参り
天気良好にて多くの人が見えていた。
彼岸に入り、昨日予定していましたが雨で繰り延べた。
朝から天気も連日の暑さと違い、半ズボンから長ズボン、半そでシャツでは
やや肌寒しか・・・との陽気でした。
天気良好、都内の家内の墓参をした。駐車場は満杯でごった返していた。
昨年・1昨年と4人の兄姉、義兄姉を亡くしい寂しい限り・・・・・。
親戚で最高齢になった。
新仏のこと丹念に告ぐ墓参
墓誌白字かなススキの波よ (縄)
都にて遠き故郷想いつつ
線香の香や花をたむけし (縄)
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奥戸・宝蔵院境内をそぞろ歩く
「宝蔵院)」は、葛飾区・奥戸にある真言宗の寺院です。
応永2年(1395年)に創建されたといわれており、境内の薬師堂には区の
有形文化財である本尊の「式部薬師」が安置されています。
秋には1000本以上の彼岸花が咲き、石仏群を背景に神秘的な美しさをたたえる。
散歩の途上ときどき立ち寄ります。
薬師堂
奥に入ると雑木林
羊歯類が一面に生えていた。
本堂を見る
情熱の歌人柳原白蓮の歌碑が建立。
「衆生あり祈願成就のよろこびを代々に伝えし御仏ぞこれ」
本堂の建物
水汲み場所
水仙が見事に咲いていた。
昭和38年には東方に中川放水路が完成し、その記念に堤上に、
「和光の鐘」を吊った鐘楼を建てた。
▲ 此のところ和光の鐘を聞かねども
どこへ行ったか朝のお勤め (縄)
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招魂碑&石灯篭
奥戸・八剱神社境内の石造物。
戦死者の慰霊碑。
日露戦争前には記念碑,招魂碑と呼ばれるものが建てられたが,忠魂碑として日本全国に普及した。
日露戦争以後のことで,大正・今上天皇の即位記念事業として,市町村の在郷軍人分会が献金を
募集し,小学校の一角に建立したものが多い。
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石仏と彼岸花
前回は宝蔵院・鐘楼(その1)で紹介しました。
今回は「石仏と彼岸花」で紹介します。ここ宝蔵院は隠れた彼岸花の咲く場所として、
皆様に愛されています。
前回撮影に行った時は夕方でしたが5人居りましたが、盛りは過ぎたとは言いますが
十分に見られます。
日曜日なのでカメラマンが大勢見えるでしょう。
裏口通路
境内の彼岸花ポスター
正面通路を入ると、左に沢山の石仏群、その前に彼岸花。
石間を縫って咲くヒガンバナ
釈迦如来像と彼岸花
白、黄色、赤の彼岸花
柳原白蓮女史の歌碑
「衆生あり祈願成就のよろこびを代々に伝えし御仏ぞこれ」
ニラと彼岸花
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帝釈天境内の御神水(産湯)
▼ 赤躑躅 御神水湧く 帝釈天 (繩)
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、
人呼んでフーテンの寅と発します」
寅さんといえば昭和の国民的ヒーローである。
👆に続く➡「不思議な縁持ちまして、たったひとりの妹のために粉骨砕身、 売(ばい)に励もうと
思っております。
西に行きましても東に行きましても、とかく土地のおアニィさんにごやっかいかけがちな
若僧でございます。
以後、見苦しき面体、お見知りおかれまして恐惶万端引き立てて、 よろしく、お願(たの)
み申します。」
少し前に友人と飲んでいて寅さんの話になった。
友人は「こんなおっちゃん居ったらおもしろいなあとは思うけど、身近にほんまに居ったら
困るやろなあ」と語っていた。その通りだ。映画だからいいのだ。
しかし、常人が行うことをしたのではこれは大変、世の中メチャクチャ。
葛飾区柴又七丁目の柴又帝釈天境内に「御神水」がある。
これが寅さんの産湯にもなったのだろう!?。
この水量は、まさに神の水である。少し暑くなってきた頃には、流れ出す水が参拝者に
清涼感を与えていた。
御水神 (蔵出し画像)
ここ柴又は、東側100mほどの地点に、江戸川が流れています。
細川たかしの歌「矢切の渡し」の、渡船場が有ります。
そんなことで地下水が高く、寅さんの浸かった”産湯の水”が限りなく迸る。
▼ 寅さんの浸かった産湯御神水 (縄)
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参道から、境内の片隅から、柴又の土手から
寅さんの声が聞こえ~来るような・・・。
寅さんは、1996年に68歳の若さで亡くなった。死因は肺ガンだと言う。
参道にて、団子を買い求めたついでに、30分ほど、グルリと一回りした。
「柴又と言えば寅さん、寅さんと言えば柴又」駅前の寅さん像や、参道のポスターから
寅さんの声は聞こえ来た・・・・・。
「おれはいつまでも
1人前に・・・
故郷ってやつはよう・・・・・」
寅次郎
「燃えるような恋をしろ
大声を出して、のた打ち回るような、
恥ずかしくて、死んでしまいたいような、恋をするんだ」
「お前も・・しつこいネ
おい・・
ちょっと待ってコノヤロウ」
お店の入り口にて参道あるお店の入り口にて
寅さん会館にて・・
芝又駅前の寅さん像
寅さんサミットの時(蔵出し)
帝釈天の参道です。
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鐘に二つの思いがある
① 朝6時になると撞木の縄を握っていた居た、おばあさん…。
昭和は50年代、この脇の中川放水路土手を散歩がてら通ると、
70歳前後おばあさんが鐘を打つていた。
1回突き終ると、鐘の下を周回して次の打鐘した。
② 此処の鐘楼風景は、「私の心の故郷、絵になる風景の一つ」である。
此の鐘楼は、春の桜の時が最も美しい。
私の好む風景の一つ『心の故郷』です。ノスタルジャーを掻き立てる。
三段構えの高い鐘楼は、以前は東側にあったとのこと、中川放水路工事で、
現在の場所へ移築された。
此の鐘楼を別名「和光の鐘」という。
薫風の和光の鐘や放水路 (縄)
コメ欄は〆ています。