アーチ門を潜りて
チョイト盛りを過ぎたのか・・・・ナ。
トマト、ナスの手入れ(支柱の補強)しようと思って潜ると、バラの一片がヒラヒラと・・・。
・ 一片の花びら落ちて朝早く
露に濡れてる ばらのアーチよ
blog友の画を借用 ・ 親の働く姿を連想
秩父地方の中山間地農家は、ほとんどの家で養蚕に励んだ。
昭和40年ころを境として、急速に衰えた。化学繊維の発達と、中国の台頭だと言われた。
群馬県富岡市の富岡製糸場が世界遺産に登録される予定です。
蚕を飼育した者にとって、うれしい事です。
桑⇒蚕⇒繭⇒生糸⇒銘仙
⇒輸出(横浜から)
BLOG友達のどんこさんが、
≪桑の切り株と武甲山≫の画像をupされた。
胸にジーンと来た。
歌を添えて、額に納めたので部屋に飾ろうと思っています。
桑の拳(切り株)がとても気にいりました。
秩父では、武甲山を母なる山、両神山を父なる山として、親しまれています。
どんこさん、事後承託でごめんなさい。
7~8年前の年賀状に、同窓生からも、こんな歌を添えて届いた。
☆ 冬枯れて 秩父事件や 桑拳し
稚蚕共同飼育所
当時各市町村に稚蚕飼育所があった。
蚕は小さい時が肝心で、1齢幼虫~3齢幼虫(=稚蚕)まで稚蚕飼育で行われた。
その後、各農家に分配され飼育して繭にされた。
それほどまでに大事に育てられた≪蚕≫。
潮止堰⇒塩水逆流防止堰
塩害防止と多目的水の利用
災害教訓バスツアー・飯岡の帰り、利根川河口堰を見学した。
まず一つは、塩害の防止である。
上流から流れてくる真水の量が減ると、塩水が溯上することもあった。その塩分の混じった水を、
上水道や農業用水、工業用水として利用すると塩害が発生してしまう。
特に1958年(昭和33年)には渇水によって大利根用水地域や、部分的に完成していた両総用水地域も含め、
被害面積約30,000町歩に及ぶ大規模な塩害が発生、千葉県だけで4億円を越える被害額を出した。
その二は、水の有効利用。
東京都をはじめとする首都圏に対して水を供給する事を目的としている。
利根川河口堰により利根川をせき止めることによって蓄えられた水は、千葉県や、
埼玉県や東京都へ水を供給することができるといわれます。
また同時に、霞ヶ浦の水を利根川を経由して江戸川方面に送る事も可能になったとされる。
利根川管理事務所の建物
スライドの一部
利根川河口堰
模擬の利根川河口堰の調整機器
街を愉しむ
主催・・・・・・・・葛飾区教育委員会生涯スポーツ課
計画・実施・・葛飾ハイキング連盟
蔵の街を描く人そして売るお方
むかしの屋敷は、間口が峡く奥行きが深い
デジブック
『小江戸「川越」を歩く』
Q,川越の街は、どうして蔵造りを形成したのか・・・?
A,疑問に答えられるか・・・。
新河岸川(水運)が、大きく貢献していた。
川越市(かわごえし)は、埼玉県南西部に位置する人口約35万人の市である。
長い歴史を経て、蔵造りの街として有名である。
マンホール
時の鐘・蔵作りをモチーフにした汚水枡、≪川越≫
ジックリ見つめないと、川越の良さが分かりません
時の鐘を見上げる、
現在の鐘楼は、
明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。
1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、蔵造りの町並みに
鐘の音を響かせています。
現在は自動にて撞木がを動きます。
蔵の街佇まい
新河岸川
現在は整備され市民の憩いの場所となっていますが、
その昔多くさんの、舟が往来していた。
近世/平野の開発と村・町の成立
・新河岸川舟運の盛衰
新河岸川舟運の始まりは、1638(寛永15)年、川越東照宮が焼失し、
再建資材を江戸から運んだことによる。
本格的に舟運開始されたのは、松平・川越藩主になってからである。
川越五河岸をはじめ、下流に多くの河岸場が開設された。
当時、川越藩の年貢米輸送を主要な任務としていたが、年貢米を輸送した帰り荷には、周辺畑作地帯への肥料供給のため肥灰(こえはい)・糠(ぬか)などを積むように
なり、しだいに農村部との結びつきを強めていった。
古市場河岸(川越市)と対岸の福岡河岸(上福岡市)からは三本の河岸道が開かれた。
そしてから川越街道を経て江戸へ通じる江戸道である。
これらの道を通って飯能方面から炭が運ばれたり、野方(のがた)と呼ばれる畑作地帯の
サツマイモなどの作物が河岸へと運ばれた。
一方、河岸からは日用雑貨や肥料が畑作地帯に運ばれた。
明治26年(1893年)の川越の大火により、
1300戸あまりが焼失しましたが、蔵造りは大火より免れた所が目立ち、商人たちは蔵造に勤しんだと言う歴史的な事実が有ります。次回、蔵の街を詳しく紹介します。
刑部岬に立つ
あいにくの雨、展望が利かず
刑部岬(ぎょうぶみさき)とは、千葉・飯岡にある岬である。
ここに飯岡灯台が設置されている。
高さは65mで、下には飯岡漁港から九十九里浜が弓状に連なり、
太東崎まで66キロの砂浜が続いている。
岬の周辺は上永井公園として整備され、飯岡灯台や飯岡刑部岬展望館〜光と風〜、
などがあり、冬場は天気が良ければ富士山が見える。
飯岡灯台
付近の様子
"夕陽がきれい”
駐車場とトイレがあります。夕日が沈むころには写真愛好家の方たちでにぎやかです。
と、説明員の方が言っていた。
見下ろすと飯岡漁港が眼下に・・・・・。
あめふりでモヤイで眺望は利かない。
前にもUPしましたが津波の押し寄せる状況を撮影した現場。↑の画像
一人の方が必死に逃げる状況をキャッチしている・・・・・。
目を凝らして観察してね!!
助かったであろうか・・・?
コメ欄は締めています。
旭市・飯岡の津波被害復興現場
旭市役所、『光と風実行委員会』の方々の案内で、避難タワー、
嵩上げ工事現場、仮設住宅をつぶさに見て歩きました。
千葉、茨城の被害に遭われた事を知らな訳では有りませんでした。
『がんばろう東北』 の陰に隠れ、改め被害に遇われた方々の一日も早い復興を祈念します。
◎ 津波避難タワー
←助成車両
津波避難タワーは、飯岡体育館駐車場(三川地区)と椎名内西町区民館わき(矢指地区)に
設置した。
約50平方メートルの避難スペースに最大100人の収容を想定。
地面からの高さは三川が8メートル、矢指が10メートルで、
予想浸水高から3メートルの余裕を持たせ、いずれも標高13メートルほどになる。
(旭市役所HPより)
旭市役所災害課係り員の避難タワーについての説明
避難タワーから太平洋上、海岸線方向を見る
太平洋から津波が襲ってきた方向を眺める
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◎ 海岸堤防の嵩上げ工事
『光と風』実行委員のSさん。
雨ふるなか傘もささずに肩から背中にかけてびっしょりのSさんが、震災の全体に
付いて被害状況につき説明された。
嵩上げ工事現場に立てられていた看板
嵩上げ工事のイメージ
現地の土地利用を踏まえながら、強固になるように工夫しながら堤防の嵩上げ工事を実施中。
(県土整備部河川管理課資料より)
黒い袋に番号が記してある所が堤防嵩上げ工事、右側が既設堤防
津波はテトラポットの奥から押し寄せた。
嵩上げ工事が急ヒッチで進められていた。
雨降りの中を熱心に聞き入るツアー参加者(葛飾区民)
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◎ 仮設住宅&災害復興公営住宅
旭市役所の脇のスポーツ公園に
仮設住宅、現在は復興公営住宅に移転し空家
黄色円が3階コンクリート建物が災害復興公営住宅
自宅へ帰れない人が災害復興公営住宅へ
最大7,6mの津波が押し寄せ、死者13人、行方不明者2人の被害が出た。