日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)

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・フジノ会・探検団・かめの会(俳句)
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葛飾探検団の活動再開について

2023年05月18日 | 紀  郷土博物館 葛探団


葛飾探検団の活動開始と記念講演

於:葛飾区郷土と天文博物館

 

コロナ禍の影響から、3年余活動を中止していましたが、ようやく再開の
運びとなりました。

此れに伴う「今年度の活動進め方」と「記念講演」が行われました。

  ① 幹事選任について

    ② 街歩きの計画について

    ③ 展示会の方法について

④ 講演会について
           (葛飾区内を流れる中川について)

 


葛飾郷土天文館前のオブジェ


博物館前の球体オブジェ

 

記念講演のスライド要旨 👇


記念講演をする講師、(スライド投写による講演)


  昔の中川における漁法

 

 

会場に展示された関係冊子 👇


  博物館で発行された冊子(会場に展示)

 

 

 

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帝釈天への、むかし道

2023年05月13日 | 紀  郷土博物館 葛探団

柴又帝釈天題経寺、庚申日
参拝道のむかし道しらべ、帝釈天人車鉄道

 

 

題経寺(柴又帝釈天)|東京都 | ユニークベニュー | TOKYO ...
  帝釈天本堂。

江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という
2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。

18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、
「柴又帝釈天」として知られるようになった。

画像11 / 15>庚申の日!柴又帝釈天に猿が参上|ウォーカープラス
帝釈天二天門

 



(注)庚申とは

  庚申とは干支(えと) 即ち、庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、
この夜に人間の体の中にいる三尸の虫が、寝ている間に体から脱け出して、
天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。
  
天帝は寿命を司る神であるから、悪いことをした人に罰として寿命を縮める。
ところが、三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができ
ないので、庚申日は、徹夜をする、これを庚申待ちという。

 


   東京府時代の地図「明治13年(1880年)~明治22年(1889)」頃の地図

帝釈天に通じる道

 △1、岩槻街道、
 △2、佐倉街道 
            △3、帝釈道(古代東街道)  (実査しました)
△4、國分道 
  △5、帝釈人車鉄道

  京成・金町線と旧帝釈人車鉄道 -  (昔が偲ばれる)

 

 

 

 

 

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葛飾立石・喜多向観音と立石

2021年09月08日 | 紀  郷土博物館 葛探団

かって葛飾・立石に「縁日」があった!


平成31年調査による、葛飾探検団
調査員、木村・星谷・常木(筆者)3名

 

 

筆者が「立石・縁日」にかかわった動機 
(半村良さん「葛飾物語」から・・神楽坂への想い)

 

 

東京神楽坂に勤務したことがあります。最近はメディアでも取り上げられることも多く、
江戸の面影を残す街として、大人の街として多く賑わっています。

その神楽坂で毎年7月下旬に行われるのが、神楽坂まつり「縁日」があります。

そんなこんなについて見分していると、かって葛飾・立石にも
「縁日」ありこれを念入りに調べたことを思い出した。。 
都内で最初の縁日 神楽坂
東京新宿区「神楽坂」ですが、毎月5日・15日・25日は善国寺(毘沙門天)の縁日で、都内で最初の縁日といわれています。この善国寺は1595年に徳川家康によって創建され当初は麹町にありましたが、1792年この地に移転されたそうです。夏目漱石の『坊ちゃん』でもこの縁日のエピソードが出てきます。この他にも神楽坂界隈は漱石ゆかりの場所がいくつかあります。漱石が愛用していた「相馬屋」の原稿用紙、創業1659年の老舗この店は今でも営業中です。

    クリック拡大
善国寺(毘沙門天)

 

 

「縁日」については、過去調べたことがあり
冊子にして保管してあります。

 


   の地図説明
 かって奥戸街道バス通りに賑やかな縁日が月3回、7の付く日に黒線部分歩道で
盛大に行われていました。

 

 

以下6回に分けて「立石縁日」について折に触れ、
振り返ることにします。

 

 

 

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2月号・ラジオ深夜便の記事

2021年01月29日 | 紀  郷土博物館 葛探団

銭湯の壁面に背景画を描き続けた絵師
今では3人その内の一人

                                 

                     

    

                

 葛飾郷土と天文台探検隊

  絵師の実演を楽しむ 

 


雑誌ラジオ深夜便


ラジオ深夜便の巻頭絵図を飾る

 


銭湯壁画

 

 

失礼しました。
=2014/7/29=「銭湯絵師富士を描く」DB、
相当意気込んで作図しましたが、

サービス期間が終わってZUISO動画に代わっていました。

 

youtuveをご覧ください。

銭湯絵師中嶋盛夫  

 

 

 

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in流山にて・田圃クラブ

2020年09月14日 | 紀  郷土博物館 葛探団

かつしか田圃クラブに参加して (2010の画像)
(葛飾区郷土と天文博物館・田圃クラブ)

 

 

 

千葉県流山の一般農家の農地を借用し農家人を指導者に

田んぼや畑で農作業を楽しんだ。

その後、自分自身で里見公園近くに畑を借りたので2年ほどで流山は退会した。

その里見公園近くの菜園も病から返却した。


  中ほどに見える江戸川左岸の土手


 整地作業の始まりです。
背後の建物は流山南高校です。


 女性軍が頑張っています。


 枯れ草を刈って環境の整備です。


 中央のねじり鉢巻き姿、指導者です。


種の植え付けです。白い水仙が咲いています。


 お母さんに教えられながら種を植えています。

 

それぞれが楽しい思い出が残像として、こうして写真を見ると思いを新たにします。

 

 

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お越しくださって有難うございます

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葛探・講演会

2020年02月03日 | 紀  郷土博物館 葛探団

活動講習会『イタリア都市機構』

 

 

講師;関東学院大学建築・環境学部 黒田教授

  葛飾区郷土と天文博物館にて

                    〇 イタリア・フィレンツェの歴史的住まい。
                     〇 ルネサンス都市とフィレンツェ
                      〇 イタリアの建物について

 

 

 


専門的でチョイト難しかったです。

 

 

 

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文京区:七福神巡りの付録  =ムクノキ=

2020年01月26日 | 紀  郷土博物館 葛探団

善光寺坂&ムクノキと幸田露伴の家


 

歴史の積み重ねられた文京区、地図を見ていたら思わぬものを発見。

ムクノキを調べていたら、目の前が幸田露伴の元邸宅でした。

露伴はこのムクの木を眺めながら、作家活動を続けたという。

思わぬことで道草をしてしまった。

 

東京大空襲に耐えた推定樹齢300年の古木です。

 東京メトロ後楽園駅から文京区役所の先の富坂下交差点を渡る。
源覚寺の先を伝通院方面へ善光寺坂を上り善光寺と慈眼院の前にある善光寺坂を歩いて10分ぐらいで着きます。

 善光寺坂のムクむ木は東京大空襲にも耐えた推定樹齢300年の古木で木の高さは約13メートル、
幹の太さは約5メートルで見ごたえあります。

 
                                  


黄色い幟旗の横の塀が「幸田露伴の旧宅」です。

幸田露伴とは

慶応3年7月23日江戸下谷生まれ。
青年時代は北海道の電信技師を務めていたが、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』に心酔し、
小説家を志した露伴は仕事を放棄して上京した。

電信技師を首になり父が始めた紙店に勤めながら小説家修行に励み、明治30年代には
同世代の尾崎紅葉と並び称せられる「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。

『風流仏』『五重塔』『一国の首都』のような評論、『芭蕉七部集評釈』などの
古典研究、『滑稽御手製未来記』は多岐にわたる
                              (皆の百科事典から転載)

===『[五重の塔』雑感===
 棟梁として人を動かすには高度な技術力がものをいう、という単純なものではないのです。その人の人望とコミュ力。どんなに腕がよくても、十兵衛のように自分勝手で人望とコミュ力がなければ、只の腕のいい職人。

 


 露伴から4代続く作家一家ですが、この家のことを作品としているのは
青木玉の「小石川の家」です。

「二階の祖父の書斎に座れば、まるで木の枝の上に居るような感じで廊下のガラス戸を開ければ枝先が触れそうだ」
と書いています

この旧露伴鄭は、昭和2年に「小石川の家」から移り住み、
その後は娘の幸田文(亡)、その娘の青木玉、さらにその娘の奈緒が住んでいます。

≪露伴は昭和21年1月に千葉県市川市菅野へ移った≫ 
                    (善光寺坂のムクの木-小石川散歩から転載)


 

$ちょい散歩
旧露伴鄭裏口

GOO鳥瞰図
ムクノキ所在と善光寺坂付近の様子、図の右上に善光寺という
お寺があります、そこから来ている坂の名前でしょう。

 

幸田露伴は、向島の蝸牛庵から小石川の伝通院近くの小石川表町79番地に移り、昭和20年に疎開するまで長い間住んだ。戦災で焼けた後の昭和22年、再び同じ場所に新居を構えた。露伴の次女・文(あや)はこの家に残り、執筆活動を行った。現在もその子孫が住んでいる

 

 
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文京区七福神巡り・その3 の付録

2020年01月25日 | 紀  郷土博物館 葛探団

伝通院

傳通院は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。
正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。

徳川将軍家の菩提寺。
江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれる。 Wikipediaよ)

伝通院地図 

 


伝通院山門


 山門の佇まい


 山門を通して本殿を見る


鐘撞き堂



伝通院の案内書き

 



小石川あたりの七福神巡りを散策中、伝通院へ立ち寄った。
院内は広大で墓地のあちこちを見て歩きました。真珠院(布袋様)の至近距離です。

伝通院は徳川家にゆかりある人物のお墓が幾つかあることでも知られています。
於大の方は家康の生母で、伝通院はその菩提寺です。

 

 

於大の方

 


千姫さまのお墓は、小石川伝通院のお墓にお参りしてまいりました

 

千姫のお墓は、伝通院の本堂の西側に広がっている墓域の北側にあります。

千姫さまは慶長3(1597)年の本日、徳川秀忠と江姫の長女として誕生します。
何と2歳の時に大坂の秀頼さまとの婚約が成立し、7歳で嫁ぎます。


まだ20にも満たない19歳で大坂の陣が勃発し、夫の秀頼さま(23)は自害。
千姫さまは助け出され、今度は姫路の本多忠刻の許へ再嫁します。


忠刻との間に一男一女をもうけますが、長男・幸千代は幼くして亡くなり、
程なくして忠刻も後を追うようにこの世を去ってしまいます。


この時千姫さまもまだ30代。2人目の夫を亡くしたのちは江戸へ戻り、
髪を下して「天樹院」と号します。

法名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

                   (歴史と文化と和の心より転載)

 


 法 名


 探検団の皆さんと今ではちょいと考えられない
とてつもなく大きい!!墓ですと見て回る。

 


堺屋太一氏の墓

千姫の墓所に行く途中の左側に有りました。

堺屋 太一(さかいや たいち、1935年7月13日 - 2019年2月8日)は、日本の小説家・作家、評論家、元通産官僚、経済企画庁長官(第55〜57代)、元内閣特別顧問。株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長。内閣官房参与。様々な博覧会のプロデューサーとしても活動している。 
本名は池口 小太郎(いけぐち こたろう)であり、ペンネームの由来は、先祖の商人が安土桃山時代に堺から谷町に移住した際の名前である「堺屋太一」から採ったものである(堺屋は屋号にあたる)。Wikipediaよ)

 

 

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文京区七福神巡り・その3

2020年01月22日 | 紀  郷土博物館 葛探団

福聚院(大黒天)・
源覚寺、(毘沙門天)・東京ドーム(福禄寿)

 

 

文京区七福神巡りはおよそ2時間

幹事さんの手際よい案内、寺と寺が至近距離に有りゆったりと廻れた。

七福神は,これを護る人(寺守)と一体をなすものと思っていましたが、

極楽水(弁財天)・東京ドーム(福禄寿)のように単独で林や広場に建立されていたことにびっくりした

 

 

福聚院(小石川3-2-23)大黒天



 
真珠院を出て右手に歩くと、伝通院の

大きな本堂が見えます。道なりに行くと伝通院の正面にでます。

伝通院参道に出たら右手すぐが、福聚院です。幼稚園を横切るとお寺の本堂があります。
鎌倉時代の作といわれる御本尊の大黒天は文京区の有形文化財に指定されています。

この本堂の真向かい、やはり幼稚園の敷地に面した所にも大黒天が祭られています。台所,食物を司る神様です。



幼稚園経営と併立していた。
郊外の寺は、この形式が多くよく見かけますが、
都心は地価とのバランスで郊外とは、違うのでしょう。

併立の幼稚園を見て少し気持ちが安らいだ!

寺屋根に迫り来るビル右左
           圧迫感をしばし感じる (縄)





源覚寺(小石川2-23-14)毘沙門天



伝通院の前を通って淑徳学園の道を下ります。途中、沢蔵司稲荷や善光寺を通りすぎ、えんま通りにでます。
えんま通りを右折してしばらくいくと源覚寺に着きます。

ここはこんにゃく閻魔として知られています。由来は、ある老婆が眼病治癒の願を閻魔にかけたところです。
閻魔がその右目を犠牲にして老婆の眼病を治したと夢枕に立ち、

眼が治ったので、老婆の好物のこんにゃくを断って供えたというものです。
毘沙門堂に木造の立派な毘沙門天が祭られています。

 

眼病が治れし嬉しこんにゃくを
          夢枕立ち好物供え (縄)

絵馬多し合格二文字手を洗う (縄)



願掛けや宇宙へ飛ぶやこの時代
        神に縋りて願いを晴らす (縄)



その名の通り塩に埋もれているお地蔵さんで、
自分の体の治してほしい部分と同じ場所にお地蔵さんいに塩を塗って
お祈りするとご利益があるとされるものが多い気がします



立体の仏墓地かと尋ねれば
            いやいや此処は生き人棲み処  (縄)

 

 



東京ドーム(後楽園1-3-61)福禄寿



水道橋方面に歩き、春日通りを渡って東京ドームのデッキに上ります。東京ドームに着いたら22番ゲートに行きましょう。
ゲートの前の総合案内所の中のカウンターにスタンプが置いてあります。

総合案内所の裏手の一段高くなったところに福禄寿が祭られています。
人望福徳の神様です。

赤いのぼりがたっていますが、場所がわかりにくければ、総合案内所で尋ねると教えてくれます。

この福禄寿は、昔は小石川後楽園に祭られていたのですが、お正月には後楽園が閉園してしまうことから、
東京ドームシティに祭られることになったそうです。

 


千川通りを東京ドーウに向けて歩いてます。

 


東京ドームのとてつもない大きさ、福禄寿こじんまり
何か?何か?物足りなさを感じたのは、我の偏見であろうか。
どでかいドーム、木陰にひっそりと袋緑壽。


 

 




七福神スタンプ巡り

      早春の香を綴じ入れて朱印帳  岩田潤

 

お疲れさんでした此処で終わりです。
参加者19名、全員完歩。


探検団員の皆さんお疲れさんでした。

「七福神巡り原稿」とのマッチングの関係から、
一気にまとめました。K・Tさんへ、よろしく。

 

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文京区7福神巡り・その2

2020年01月22日 | 紀  郷土博物館 葛探団

極楽水(弁財天)宗慶寺寿老人)真珠院布袋様)

 

 

 

都心の七福神巡りはチョイト勝手が違います。今まであちこち歩きましたが、
あれがこれから行く七福神と言うことが歩いていて遠くから分かった。

ここ文京区の七福神はさすが都心大きなビルに囲まれて隠れて、遠くからは判別できなかった。

ビルに隠れていたり、寺そのものがマンションを経営して居たり勝手が違っていた。

 

 

      極楽水(小石川4-16-13)の弁財天

 
 

吹上坂を左折すると、「七福神」という赤いのぼりがたっているマンションの庭への入り口が見えます。

ここを入ると、すぐに「極楽水(この下)」です。
大橋旧家に、集計時の極楽井に因み極楽井と呼ばれる泉水です。

水神を起源とする弁財天は水に深い場所に祀られています。
普段は奥にお休みですが、正月松の内は扉が開きその姿を拝見できます。

朱印宗慶寺に置いて有ります。


広い通りからマンション脇の林の中へ入ります。


この小さい祠が七福神!?
あまりにも小さくびっくりしました。大きなビルの建設で
このように縮小されたのか!?


林の中の散歩道、その一角下段に七福神がありました。

極楽水この下  の看板


林内の石垣下を往く会員参加者。



宗慶寺(小石川4-15-17)、寿老人



極楽水のあるマンションの隣が、宗慶寺(小石川4-15-17)です。

中に入ると、寿老人が祭られています。延命長寿の神様です。

元和7年(1621)松平忠輝の母(家康の側室)の墓所となり、法名にちなみ
吉水山朝覚院宗慶寺と称するようになった。

七福神のスタンプは、極楽水の分もこちらに一緒にあります。


極楽水から流れ出た水であろうか?。
建物の下を、作道されて流れていた。


辺りは皆高い建物で、宗慶寺が小さく見えた。


正面からの宗慶寺

 

 

真珠院(小石川3-7-4)布袋様




初代松本藩主 水野忠清(家康の生母於大の甥)を開基として貞享元年(1684)年に創建。
小石川七福神のひとつで、布袋尊が祀られている。

本堂右手の階段を上ったところのお堂に、小さな木彫の布袋様が祭られています。
さらに本堂下の通路を抜けると裏手が墓地になっていて、大きな布袋様の石像がありました。

 


境内に入る前に雪吊りが目に入った。


正面入り口を入ると本殿左右に通路があります。


入り口の松の植え込み


裏に回ると、池の周りに松を配し雪吊りで整備されていた。


六地蔵


お参りすると
七福神前部ぶ回わったことになるそうです。

 

 

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