ブリヂストン美術館で9月4日まで、青木繁展が開催されていて、行ってみたいなあ。なんて思っておりました。じつは、そんなことも忘れていたのです(笑)。
今日8月8日の「編集手帳」は、その青木繁のことからはじまっておりました。
「明治の洋画家、青木繁は東京美術学校を卒業した1904年の夏、房総半島・布良の海岸に滞在した。ここで描き上げたのが代表作『海の幸』だった。裸の男たちが、サメを背負って砂浜を2列で行軍する謎めいた絵だ。地元、安房神社の夏の例祭の神輿に着想を得たのではないか。青木没後100年の今年、そんな新説も注目を集めている。青木は息子を幸彦と名付けるほど、古事記の海幸彦・山幸彦の物語に深い関心を寄せていた。人間と海との関わりを描いた『海の幸』には、祝祭的エネルギーが満ちあふれている。東北の太平洋岸でも、大漁などを祝う夏祭りのシーズンを迎えている。だが、今年は津波で漁船や漁具が流され、養殖場や水産加工場も大きな被害を受けた。中止となった祭りもある。『これだけ海に蹂躙されながら、海に怨みをもつ人はいない』。宮城県気仙沼市で養殖を営むエッセイストの畠山重篤さんは、本紙への寄稿の中でこう述べている。・・・がれきで汚れた海も早く甦り、海の幸で満たされることを祈る。」
うん。芸術新潮7月号は特集「青木繁」。そのp68には、
布良崎神社の大神輿が写真入りで紹介されており、
布良漁協組合長の島田吉廣さんの説を、とりあげておりました。
「『海の幸』の構図は、神輿を担いでいる男衆そのものですよ。ほら、前の男は前傾姿勢、後ろは直立しているでしょ。しかも明治の頃だと、神輿を担ぐ男衆はふんどし姿だったはず。ちょうど青木が滞在した小谷家のすぐ隣には、布良崎神社がある。夏祭りは8月1日だったから、まず間違いなく見ているはずだね。小谷喜録は地元の世話役だから、若い青木らに神輿を担がせたんじゃないかな。・・・・」(p69)
東北に満ちる祝祭的エネルギーを、思い描きながら。
今日8月8日の「編集手帳」は、その青木繁のことからはじまっておりました。
「明治の洋画家、青木繁は東京美術学校を卒業した1904年の夏、房総半島・布良の海岸に滞在した。ここで描き上げたのが代表作『海の幸』だった。裸の男たちが、サメを背負って砂浜を2列で行軍する謎めいた絵だ。地元、安房神社の夏の例祭の神輿に着想を得たのではないか。青木没後100年の今年、そんな新説も注目を集めている。青木は息子を幸彦と名付けるほど、古事記の海幸彦・山幸彦の物語に深い関心を寄せていた。人間と海との関わりを描いた『海の幸』には、祝祭的エネルギーが満ちあふれている。東北の太平洋岸でも、大漁などを祝う夏祭りのシーズンを迎えている。だが、今年は津波で漁船や漁具が流され、養殖場や水産加工場も大きな被害を受けた。中止となった祭りもある。『これだけ海に蹂躙されながら、海に怨みをもつ人はいない』。宮城県気仙沼市で養殖を営むエッセイストの畠山重篤さんは、本紙への寄稿の中でこう述べている。・・・がれきで汚れた海も早く甦り、海の幸で満たされることを祈る。」
うん。芸術新潮7月号は特集「青木繁」。そのp68には、
布良崎神社の大神輿が写真入りで紹介されており、
布良漁協組合長の島田吉廣さんの説を、とりあげておりました。
「『海の幸』の構図は、神輿を担いでいる男衆そのものですよ。ほら、前の男は前傾姿勢、後ろは直立しているでしょ。しかも明治の頃だと、神輿を担ぐ男衆はふんどし姿だったはず。ちょうど青木が滞在した小谷家のすぐ隣には、布良崎神社がある。夏祭りは8月1日だったから、まず間違いなく見ているはずだね。小谷喜録は地元の世話役だから、若い青木らに神輿を担がせたんじゃないかな。・・・・」(p69)
東北に満ちる祝祭的エネルギーを、思い描きながら。