猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」(中公文庫)を、とりあえず読もうと、流し読み。
たとえば、こんな箇所。
「現在、どの歴史年表をひもといてみてもアメリカの対日石油禁輸措置は8月1日と書かれている。しかし、実質的な禁輸は『石油製品輸出許可制』が完全実施された6月21日で、その後は、一滴の石油も入手できなくなっていた。」(p161)
「アメリカの対日石油禁輸が最終的に発令されたのは昭和16年8月1日であった。・・・高橋中尉が陸軍省整備局資源課に放り込まれたのは15年7月10日。東條陸相に『もはやアメリカから一滴の石油も輸入される見通しがない』ことを報告したのは一年後の6月23日である。その間、持たざる国日本と、持てる国アメリカとの石油政策は対照的であった。アメリカの対日輸出政策は、完全に日本の窮地を知り尽くしたうえで計画的に実施されていた。これに対して、日本の輸入政策は、その日暮らしの場あたり的なものでしかなかった。そして南方進出・蘭印占領(インドネシアに石油を獲りにいくこと)も、結果的にはその場あたり的な選択の延長線上にあった。・・・・高橋は『南進南進と騒いではいても、実際にそれでは石油を獲りにいくにはどうするか、という調査なり計画なりは昭和15年まではなにひとつなかった。実際に私たちがそれに取り組み始めたのは買い付け騒ぎが一段落した昭和16年2~3月頃であったと思う』と証言している。具体的な作業にとりかかったのは上司の上田菊治少佐の命令によってだった。・・・」(p173~175)
「ドイツも国内産石油は微々たるもので、持たざる国だった。・・・独ソ不可侵条約を締結する。そして、ルーマニアを電撃戦で占領し、ルーマニア油田を確保した。しかし、中東を狙った独伊軍は北アフリカで敗れ、頼みのソ連石油は、六万トンしか送ってこない。これに不満を抱いたヒットラーは、不可侵条約を破ってソ連に侵攻する。条約締結当時の平沼内閣は『欧州の天地は複雑怪奇』といって総辞職したが、ヒットラーは極めて明解な戦争の論理で動いていたのである。・・・この大戦における軍需輸送物質の40%は石油であったとさえいわれている。」(p160)
う~ん。
持たざる国。
その日暮らし。
場あたり的。
この3つのキーワードで、
震災対策についての、
古くてあたらしい、
3題噺を、どなたかにお願いしたいなあ。
たとえば、こんな箇所。
「現在、どの歴史年表をひもといてみてもアメリカの対日石油禁輸措置は8月1日と書かれている。しかし、実質的な禁輸は『石油製品輸出許可制』が完全実施された6月21日で、その後は、一滴の石油も入手できなくなっていた。」(p161)
「アメリカの対日石油禁輸が最終的に発令されたのは昭和16年8月1日であった。・・・高橋中尉が陸軍省整備局資源課に放り込まれたのは15年7月10日。東條陸相に『もはやアメリカから一滴の石油も輸入される見通しがない』ことを報告したのは一年後の6月23日である。その間、持たざる国日本と、持てる国アメリカとの石油政策は対照的であった。アメリカの対日輸出政策は、完全に日本の窮地を知り尽くしたうえで計画的に実施されていた。これに対して、日本の輸入政策は、その日暮らしの場あたり的なものでしかなかった。そして南方進出・蘭印占領(インドネシアに石油を獲りにいくこと)も、結果的にはその場あたり的な選択の延長線上にあった。・・・・高橋は『南進南進と騒いではいても、実際にそれでは石油を獲りにいくにはどうするか、という調査なり計画なりは昭和15年まではなにひとつなかった。実際に私たちがそれに取り組み始めたのは買い付け騒ぎが一段落した昭和16年2~3月頃であったと思う』と証言している。具体的な作業にとりかかったのは上司の上田菊治少佐の命令によってだった。・・・」(p173~175)
「ドイツも国内産石油は微々たるもので、持たざる国だった。・・・独ソ不可侵条約を締結する。そして、ルーマニアを電撃戦で占領し、ルーマニア油田を確保した。しかし、中東を狙った独伊軍は北アフリカで敗れ、頼みのソ連石油は、六万トンしか送ってこない。これに不満を抱いたヒットラーは、不可侵条約を破ってソ連に侵攻する。条約締結当時の平沼内閣は『欧州の天地は複雑怪奇』といって総辞職したが、ヒットラーは極めて明解な戦争の論理で動いていたのである。・・・この大戦における軍需輸送物質の40%は石油であったとさえいわれている。」(p160)
う~ん。
持たざる国。
その日暮らし。
場あたり的。
この3つのキーワードで、
震災対策についての、
古くてあたらしい、
3題噺を、どなたかにお願いしたいなあ。