和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

フオト五七五。

2011-08-10 | 短文紹介
鶏頭の花をもらいました。
さっそく花瓶にさしてみます。
葉もあわく、全体に色が薄い感じなのですが、
もらったくせに、難癖などつけるものではありません。

そういえば、正岡子規著「仰臥漫録」に

「去年の誕生日には御馳走の食ひをさめをやるつもりで碧四虚鼠(へきしきょそ)四人を招いた。この時は余はいふにいはれぬ感慨に打たれて胸の中は実にやすまることがなかつた。余はこの日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ庭の松の木から松の木へ白木綿を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の鶏頭の色が圧するからこの白幕で鶏頭を隠したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日がかつとさしたので右の白幕へ五、六本の鶏頭の影が高低に映つたのは実に妙であつた。」(岩波文庫・p127)



え~と。
NHKBSの3チャンで、「フオト575」という番組があります。
写真に俳句をつけ、それを4人で審査して一枚を選ぶ番組。
ここでは、写真と俳句という取り合わせなのでした。
さて、井上泰至著「子規の内なる江戸」(角川学芸出版)に

 イメージを切り取る  絵画と俳句

という箇所があります。
そのはじまりを、すこし引用。


「  朝顔や我に写生の心あり  子規
子規は明治35年(1902)9月19日十七夜に亡くなるが、体力のなくなっていく病床の中でも、絵を描くことはやめなかった。『仰臥漫録』には、この句の後に『草花を画(えが)く日課や秋に入る』という句も並ぶ。晩年の日誌・随筆を読めば、モルヒネを飲んで激痛を散らしながら、絵の具の色にあれこれ工夫して美を我が物としていくことは、俳句とともに子規の生そのものであったことがすぐに知れる。一方で、苦しさのあまり自殺しようとして果たさず、なおその凶器となるはずだった小刀と錐までスケッチする件(くだり)を読めば、書く行為の切実さも伝わってくる。俳句は、短歌にくらべ、客観性の芸術である。日記・スケッチ・俳句が、死と向き合う子規の日常だったことは、この夭折の大俳人の核心を如実に示すものだったと言えば、大げさに過ぎるだろうか。
画家である蕪村は言うまでもないが、芭蕉も絵はたしなんだ。俳句と絵は実に縁が深い。その類縁関係はさまざまに論じることができるだろうが、ここでは、イメージを切り取る方法を学ぶ点に絞って・・・」(p119~120)


蕪村が芭蕉が、そして子規が写真にであっていたならば、
その俳句は、どう変化していったのでしょうねえ。
音楽が映画音楽となるようなものなのでしょうか。
なんて考えるのも楽しいなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする