岡潔・小林秀雄「対話 人間の建設」に
一読忘れられない箇所があります。
小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。・・・物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。
岡】 問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。
小林】 ほんとうにうまい質問をすればですよ、それが答えだという簡単なことですが。
岡】 問題を出すときに、その答えがこうであると直観するところまではできます。できていなければよい問題でないかもしれません。その直観が事実であるという証明が、数学ではいるわけです。・・・・・
ところで、ここに、ひとつ問題。
「編集者齋藤十一」(冬花社)に
「齋藤と同じ鎌倉に住み・・・よく酒席を共にした小林秀雄は、生前、『君がもし僕より先に死んだら、僕は君のことを書くからね』と言っていたが、小林の方が先に亡くなったため、小林による齋藤十一論という夢のような企画は、結局、日の目を見ずに終わった。」(p22)
書かれなかった「齋藤十一論」は、
はたして、どのような
内容になるはずだったのか?
という問題(笑)。
この冬花社の、すこし前のページに
「1956年(昭和31年)2月、出版社系初の週刊誌『週刊新潮』が創刊された。編集長の佐藤亮一の片腕として同誌の創刊に関わった齋藤は、現役を退くまで、企画、編集の現場を全面的に取り仕切った。とりわけ週刊誌の生命線といわれるタイトルは齋藤の独壇場で、一切他人に口出しさせることはなかった。」(p20)
うん。やはり、
「タイトルという問題」が「齋藤十一論」に欠かせない、
と思えますよね。
p169に伊藤幸人氏が追悼文を書いているのですが、
そこに、こうあります。
「齋藤さんは『タイトルの天才』『タイトルの鬼』といわれた。『週刊新潮』のタイトルを創刊以来、何十年にもわたってつけ続けたという『伝説』もあった。・・・・雑誌記者にとってタイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し叩き込まれたという思いが強い。私の会議ノートには、こんな発言が残っている。
『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』
『むつかしい人、偉い人に原稿を頼む必要はない。問題は、自由のきく執筆者を揃えよ、ということ、要するに、題が重要になる。こちらでタイトルを持っていって、その通りに書いてもらうことだ。意外に、執筆者では商売にならない』
『羊頭狗肉が一番いけない。これだけはやらないでくれよ。週刊新潮でも、俺がつけたタイトルどおりにやってくれと言っているが、いつもそうとは限らない』」
書かれなかった「齋藤十一論」に、
この場面も欠かせないだろうなあ。
と思うのが冬花社の最後に載っている
妻・齋藤美和さん談話にあるエピソード。
「佐藤義亮さんは戦後、昭和20年(1945年)3月号から、半年ほど休刊していた月刊誌『新潮』を復刊させましたが、復刊して三ヵ月後、その編集長に齋藤を任命しました。・・・体調を崩された義亮さんは大戦の末期、長男の義夫さんに『戦後の編集担当は齋藤に任せろ』と言い残されたそうです。・・・齋藤は意気に感じて、編集顧問に和辻さんのようなジャーナリスティック感覚に長けた河盛好蔵さんを迎え入れ、戦後の『新潮』をスタートさせたそうです。その後、齋藤にとって大きかったのは、十歳年長の小林秀雄さんとの出会いです。・・・長い間にわたって『新潮』や『藝術新潮』に健筆を揮って頂きました。
編集者と作家の関係といえば普通、編集者が作家のお世話をするものです。それなのに齋藤が小林さんと二人で出張するときには、小林さんがお弁当のことまで面倒をみてくださり、齋藤はケロリとしていたという不思議な関係でした。・・・お酒を酌み交わしながら、その時々に出たばかりの『新潮』や『芸術新潮』『週刊新潮』の出来具合、ゴルフや音楽のこと・・・。言いたいことを言い合える関係にあったようです。
齋藤は、戦後しばらく論壇や文壇から追放されていた保田與重郎さんや、やはり執筆の場から遠ざかっていた河上徹太郎さんたちに、初めて『新潮』誌面に登場してもらいました。当時の左翼的な流れに反する、いささか勇気の要る決断だったと思います。・・・・
後年、河上さんの出版記念会で、河上さんが涙を流しながら喜んでいられた光景を覚えています。・・・」(p275~276)
坂本忠雄氏の追悼文には、
その河上徹太郎氏にむちゃな問題を押し付ける場面が書かれておりました。
「安保闘争で日本中が騒然となった昭和35年(1960年)の8月号に、私は齋藤さんから『安保反対にあらざれば人間にあらざるの記』と題して河上徹太郎さんに書いてもらうよう、突然命じられた。早速河上さんに依頼すると、少し考えさせてくれという返事だったが、翌朝七時頃眠りこんでいた私は齋藤さんに叩き起され、どうだったかと聞かれた。後年竹山道雄さんから私がもらった原稿に、『筋金入りの齋藤さんはいったんこういうものを書かせようと決心したら、それを実現するためのいかなる労も惜しまなかった』とあったが、即座にあの早朝を思い出したものである。」(p98~99)
「『週刊新潮』の特集のタイトルを齋藤さんがつけていたのも今や周知だが、実は『新潮』のタイトルにも注意深かった。或る日、たまたま菅原(國隆)さんと私が午前中から席に着いていると、齋藤さんが現われて、菅原さんに『井伏さんに【姪の結婚】ではもったいないから、【黒い雨】にかえてもらうよう頼んでくれ』と指示された。・・・」(p99)
こういう箇所を拾ってゆくと楽しいけれど、
このくらいにして
夢の「齋藤十一論」では
両手で捧げ持つように
本を読んでいる姿も、
ぜひとも入れたいなあ。
「編集者齋藤十一」(冬花社)に載っている、
草野守立氏の追悼文のこんな箇所。
ちなみに、草野氏は昭和39年に入社。
「小生が入社したとき、本館四階の『芸術新潮』編集部のフロア―には、『新潮』編集部と校閲部が同居していた。その一隅にひときわ大きな齋藤さんのデスクがあり、その上にはうずたかく積まれた様々な同人雑誌と携帯ラジオが置かれていた。・・・午前中に出社されると、デスクの背後のロッカーにコートと帽子をしまい、階下の『週刊新潮』編集部に降りてゆかれる。お昼近くに戻ってこられると、NHKのラジオ・ニュースを聞き、それから椅子の背に深々と身を委ねながら同人雑誌を捧げ持つように両手に持って読み耽(ふけ)る。普通の人がやるような、机の上に本を広げて読む姿は、まったく記憶に残っていない。」(p122)
一読忘れられない箇所があります。
小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。・・・物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。
岡】 問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。
小林】 ほんとうにうまい質問をすればですよ、それが答えだという簡単なことですが。
岡】 問題を出すときに、その答えがこうであると直観するところまではできます。できていなければよい問題でないかもしれません。その直観が事実であるという証明が、数学ではいるわけです。・・・・・
ところで、ここに、ひとつ問題。
「編集者齋藤十一」(冬花社)に
「齋藤と同じ鎌倉に住み・・・よく酒席を共にした小林秀雄は、生前、『君がもし僕より先に死んだら、僕は君のことを書くからね』と言っていたが、小林の方が先に亡くなったため、小林による齋藤十一論という夢のような企画は、結局、日の目を見ずに終わった。」(p22)
書かれなかった「齋藤十一論」は、
はたして、どのような
内容になるはずだったのか?
という問題(笑)。
この冬花社の、すこし前のページに
「1956年(昭和31年)2月、出版社系初の週刊誌『週刊新潮』が創刊された。編集長の佐藤亮一の片腕として同誌の創刊に関わった齋藤は、現役を退くまで、企画、編集の現場を全面的に取り仕切った。とりわけ週刊誌の生命線といわれるタイトルは齋藤の独壇場で、一切他人に口出しさせることはなかった。」(p20)
うん。やはり、
「タイトルという問題」が「齋藤十一論」に欠かせない、
と思えますよね。
p169に伊藤幸人氏が追悼文を書いているのですが、
そこに、こうあります。
「齋藤さんは『タイトルの天才』『タイトルの鬼』といわれた。『週刊新潮』のタイトルを創刊以来、何十年にもわたってつけ続けたという『伝説』もあった。・・・・雑誌記者にとってタイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し叩き込まれたという思いが強い。私の会議ノートには、こんな発言が残っている。
『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』
『むつかしい人、偉い人に原稿を頼む必要はない。問題は、自由のきく執筆者を揃えよ、ということ、要するに、題が重要になる。こちらでタイトルを持っていって、その通りに書いてもらうことだ。意外に、執筆者では商売にならない』
『羊頭狗肉が一番いけない。これだけはやらないでくれよ。週刊新潮でも、俺がつけたタイトルどおりにやってくれと言っているが、いつもそうとは限らない』」
書かれなかった「齋藤十一論」に、
この場面も欠かせないだろうなあ。
と思うのが冬花社の最後に載っている
妻・齋藤美和さん談話にあるエピソード。
「佐藤義亮さんは戦後、昭和20年(1945年)3月号から、半年ほど休刊していた月刊誌『新潮』を復刊させましたが、復刊して三ヵ月後、その編集長に齋藤を任命しました。・・・体調を崩された義亮さんは大戦の末期、長男の義夫さんに『戦後の編集担当は齋藤に任せろ』と言い残されたそうです。・・・齋藤は意気に感じて、編集顧問に和辻さんのようなジャーナリスティック感覚に長けた河盛好蔵さんを迎え入れ、戦後の『新潮』をスタートさせたそうです。その後、齋藤にとって大きかったのは、十歳年長の小林秀雄さんとの出会いです。・・・長い間にわたって『新潮』や『藝術新潮』に健筆を揮って頂きました。
編集者と作家の関係といえば普通、編集者が作家のお世話をするものです。それなのに齋藤が小林さんと二人で出張するときには、小林さんがお弁当のことまで面倒をみてくださり、齋藤はケロリとしていたという不思議な関係でした。・・・お酒を酌み交わしながら、その時々に出たばかりの『新潮』や『芸術新潮』『週刊新潮』の出来具合、ゴルフや音楽のこと・・・。言いたいことを言い合える関係にあったようです。
齋藤は、戦後しばらく論壇や文壇から追放されていた保田與重郎さんや、やはり執筆の場から遠ざかっていた河上徹太郎さんたちに、初めて『新潮』誌面に登場してもらいました。当時の左翼的な流れに反する、いささか勇気の要る決断だったと思います。・・・・
後年、河上さんの出版記念会で、河上さんが涙を流しながら喜んでいられた光景を覚えています。・・・」(p275~276)
坂本忠雄氏の追悼文には、
その河上徹太郎氏にむちゃな問題を押し付ける場面が書かれておりました。
「安保闘争で日本中が騒然となった昭和35年(1960年)の8月号に、私は齋藤さんから『安保反対にあらざれば人間にあらざるの記』と題して河上徹太郎さんに書いてもらうよう、突然命じられた。早速河上さんに依頼すると、少し考えさせてくれという返事だったが、翌朝七時頃眠りこんでいた私は齋藤さんに叩き起され、どうだったかと聞かれた。後年竹山道雄さんから私がもらった原稿に、『筋金入りの齋藤さんはいったんこういうものを書かせようと決心したら、それを実現するためのいかなる労も惜しまなかった』とあったが、即座にあの早朝を思い出したものである。」(p98~99)
「『週刊新潮』の特集のタイトルを齋藤さんがつけていたのも今や周知だが、実は『新潮』のタイトルにも注意深かった。或る日、たまたま菅原(國隆)さんと私が午前中から席に着いていると、齋藤さんが現われて、菅原さんに『井伏さんに【姪の結婚】ではもったいないから、【黒い雨】にかえてもらうよう頼んでくれ』と指示された。・・・」(p99)
こういう箇所を拾ってゆくと楽しいけれど、
このくらいにして
夢の「齋藤十一論」では
両手で捧げ持つように
本を読んでいる姿も、
ぜひとも入れたいなあ。
「編集者齋藤十一」(冬花社)に載っている、
草野守立氏の追悼文のこんな箇所。
ちなみに、草野氏は昭和39年に入社。
「小生が入社したとき、本館四階の『芸術新潮』編集部のフロア―には、『新潮』編集部と校閲部が同居していた。その一隅にひときわ大きな齋藤さんのデスクがあり、その上にはうずたかく積まれた様々な同人雑誌と携帯ラジオが置かれていた。・・・午前中に出社されると、デスクの背後のロッカーにコートと帽子をしまい、階下の『週刊新潮』編集部に降りてゆかれる。お昼近くに戻ってこられると、NHKのラジオ・ニュースを聞き、それから椅子の背に深々と身を委ねながら同人雑誌を捧げ持つように両手に持って読み耽(ふけ)る。普通の人がやるような、机の上に本を広げて読む姿は、まったく記憶に残っていない。」(p122)