グレン・グールドの演奏を、たまに聴きます。
グールドのエピソードとして、
夏目漱石「草枕」のファンだという指摘があります。
「そうかなあ」と私は、何だか
ひっかかって思っておりました。
そうすると最近
こんな箇所を読むことができました。
「昭和56年のクリスマスの日にはこんなこともあった。
ヴァンクーヴァーでCBC放送を聞いていると
突然『草枕』の放送が始った。
最初の紹介の発音が『ナテューミー・ソーシーキー』式
の読み方をしていたので、
それと気づかずに聞いていたのだが、
中味は間違いなく『草枕』である。
朗読者は内容をよく摑んで語っているらしく、
『草枕』の感じがそのまま英語で
伝わってくるのに驚いた。
シェリーの引用が上手に決っているのは
全文が英文に化しているからだろう。
陶淵明の漢詩英訳は漢語のもつ
視覚的な喚起力は失われたにせよ、
前後関係の中でたくみに処を得ている。
それに、知的なお喋りに過ぎるとかねがね感じていた
『草枕』の主人公の引用癖や議論が、
イギリス系カナダ人の口調を借りてぽんぽん飛び出すと、
イギリスの知識人が二十世紀文明の
行きづまりを議論しているような錯覚すら与える。
――だが考えてみると、
夏目漱石はその知識の質や量においても、
またその思考の深さにおいても、
優に二十世紀イギリス知識人に匹敵する
頭脳と感受性の持主であった。
・・・・・・・
ひとしお感興の湧くのを覚えて私はこの
Three Cornered World と訳された
英訳『草枕』の朗読を聞いた。
アラン・ターニー氏の訳ででもあろうか。」
以上は
平川祐弘著「漱石の師マードック先生」(講談社学術文庫)
のあとがき「内と外から見た夏目漱石」にあります(p274)。
「うん、そうなのか」と
ちょっとした疑問が、解けたような気分。
グールドのエピソードとして、
夏目漱石「草枕」のファンだという指摘があります。
「そうかなあ」と私は、何だか
ひっかかって思っておりました。
そうすると最近
こんな箇所を読むことができました。
「昭和56年のクリスマスの日にはこんなこともあった。
ヴァンクーヴァーでCBC放送を聞いていると
突然『草枕』の放送が始った。
最初の紹介の発音が『ナテューミー・ソーシーキー』式
の読み方をしていたので、
それと気づかずに聞いていたのだが、
中味は間違いなく『草枕』である。
朗読者は内容をよく摑んで語っているらしく、
『草枕』の感じがそのまま英語で
伝わってくるのに驚いた。
シェリーの引用が上手に決っているのは
全文が英文に化しているからだろう。
陶淵明の漢詩英訳は漢語のもつ
視覚的な喚起力は失われたにせよ、
前後関係の中でたくみに処を得ている。
それに、知的なお喋りに過ぎるとかねがね感じていた
『草枕』の主人公の引用癖や議論が、
イギリス系カナダ人の口調を借りてぽんぽん飛び出すと、
イギリスの知識人が二十世紀文明の
行きづまりを議論しているような錯覚すら与える。
――だが考えてみると、
夏目漱石はその知識の質や量においても、
またその思考の深さにおいても、
優に二十世紀イギリス知識人に匹敵する
頭脳と感受性の持主であった。
・・・・・・・
ひとしお感興の湧くのを覚えて私はこの
Three Cornered World と訳された
英訳『草枕』の朗読を聞いた。
アラン・ターニー氏の訳ででもあろうか。」
以上は
平川祐弘著「漱石の師マードック先生」(講談社学術文庫)
のあとがき「内と外から見た夏目漱石」にあります(p274)。
「うん、そうなのか」と
ちょっとした疑問が、解けたような気分。