平川祐弘著「開国の作法」(東京大学出版会)をパラパラとめくっていたら、一箇所、齋藤十一氏の名前が登場しておりました。そのことについて書きます。
本の最後に、二つの文があります。
1984年8月号「新潮」に掲載の「竹山先生のこと」。
1985年1月号「新潮」に掲載の「『ビルマの竪琴』余聞」。
ちなみに、
1984(昭和59)年6月15日に、竹山道雄氏死去(80歳)。
その「竹山先生のこと」の文中に、
齋藤十一の名前が登場しておりました。
「・・・昭和21年3月『新潮』に出た『失はれた青春』で竹山道雄の文壇でのイメージは作られたということでもあろう。竹山氏は戦後の論壇の一方の雄であった。戦時中に軍部やナチズムを批判したと同様、戦後は左翼や唯物史観を平然としかも巧みに批判した。その風当りの強い『危険な思想家』の竹山氏に発言の場を与えてくれた新潮社の齋藤十一氏以下への謝意を繰返し家人に洩していたことをここに記させていただく。」(p265)
そうそう、「ビルマの竪琴」に関連してこんな箇所もありました。
「・・戦時中、軍部を批判し、ナチスを敵視した竹山氏であったからこそ、戦後の日本で軍の罪悪を罵倒する声のみが聞かれた時代に、『義務を守って命をおとした』若い人びとを弔う鎮魂の書を著し得たのだろう。氏はその生涯の節目節目で一番大切な問題を毅然として取りあげた人であった。・・」(p263)
もどって、齋藤十一の追悼集「編集者齋藤十一」(冬花社)に、竹山道雄の名前が登場する箇所をみてみますと、
追悼集の最後の方に、齋藤美和夫人の談話が掲載されております。
「・・・齋藤は、戦後しばらく論壇や文壇から追放されていた保田與重郎さんや、やはり執筆の場から遠ざかっていた河上徹太郎さんたちに、初めて『新潮』誌面に登場してもらいました。・・・・すでに活躍していた作家たちとも親しくお付き合いしていました。舟橋聖一さんと一緒に岐阜の鵜飼いを見に行ったり、大岡昇平さんとゴルフをしたり、竹山道雄さんや今東光さんとお酒を呑みながら談論に興じたり・・・。大佛次郎さんとは、私たちの住まい近くの明月院に出かけたりしています。・・・・」(p277)
木下靖枝さんの追悼文は、
「『週刊新潮』編集部と出版部のある三階から、『新潮』『芸術新潮』編集部と校閲部のある四階へ、齋藤さんがコツコツと靴音も高く上っていらっしゃると・・・」こうはじまる文、その文章の最後にこうありました。
「編集会議には参加なさらなかったが、五味さん、吉田秀和さん、竹山道雄さん、保田與重郎さんなどの連載は、すべて四階で『芸新』の編集長だった白井重誠さんとのおしゃべりから生まれた作品だった。」(p117)
ちなみに、白井重誠氏については、
美和夫人の談話に、こうして登場しておりました。
「結局、齋藤は早稲田第一高等学院から早稲田大学の理工学部へ進みました。理系に進んだのは、ガス会社に勤めていた父親が理系だったこととも少し影響していたのかもしれません。大学で仲良くなった同級生に、白井重誠さんという方がいました。月刊少女雑誌『ひまわり』の編集部を経て、『芸術新潮』の嘱託になられた方ですが、その白井さんが、授業中に隣りの席で文庫本を読みふけっていて、余りに夢中になっている姿を見て、齋藤が声をかけたのだそうです。この白井さんがいらっしゃらなければ、齋藤は文学に触れることがなかったかもしれません。大きな出会いでした。・・・」(p272)
追悼集には小島千加子さんも書いておりました。
「・・終戦後、僅か二ヵ月後に復刊した『新潮』は、堰を切ったように知識人たちの発言の場となった。竹山道雄、塩尻公明、本多顕彰などの人生論的エッセイや、吉川幸次郎、田中美知太郎という碩学の頻繁な登場。それらは、齋藤さんの裡(うち)に蓄積されていた教養の発露である。時代の要望を睨んだ、人の意表をつく企画も次々と発せられる。小林秀雄とノーベル賞の湯川秀樹との、一冊の半ばを割く長大な対談、同じく小林秀雄と徳川夢声との対談。また、カミュの『異邦人』、『カミュ、サルトル論争』、『ジイドの日記抄』等、海外に向ける目も新しかった。」(p37)
その当時「風当りの強い『危険な思想家』」という、
そんなレッテルをベタベタと貼られていた人に、
きちんと、発言の場を与えていた数少ない編集者が、
齋藤十一だった。ということなのですね。
うん。
レッテルしか見ない人。
ただ、レッテルを貼るだけの人。
いるんですよね。
レッテルを貼るだけで満足しちゃう人。
おっと、私もそうでした。
本の最後に、二つの文があります。
1984年8月号「新潮」に掲載の「竹山先生のこと」。
1985年1月号「新潮」に掲載の「『ビルマの竪琴』余聞」。
ちなみに、
1984(昭和59)年6月15日に、竹山道雄氏死去(80歳)。
その「竹山先生のこと」の文中に、
齋藤十一の名前が登場しておりました。
「・・・昭和21年3月『新潮』に出た『失はれた青春』で竹山道雄の文壇でのイメージは作られたということでもあろう。竹山氏は戦後の論壇の一方の雄であった。戦時中に軍部やナチズムを批判したと同様、戦後は左翼や唯物史観を平然としかも巧みに批判した。その風当りの強い『危険な思想家』の竹山氏に発言の場を与えてくれた新潮社の齋藤十一氏以下への謝意を繰返し家人に洩していたことをここに記させていただく。」(p265)
そうそう、「ビルマの竪琴」に関連してこんな箇所もありました。
「・・戦時中、軍部を批判し、ナチスを敵視した竹山氏であったからこそ、戦後の日本で軍の罪悪を罵倒する声のみが聞かれた時代に、『義務を守って命をおとした』若い人びとを弔う鎮魂の書を著し得たのだろう。氏はその生涯の節目節目で一番大切な問題を毅然として取りあげた人であった。・・」(p263)
もどって、齋藤十一の追悼集「編集者齋藤十一」(冬花社)に、竹山道雄の名前が登場する箇所をみてみますと、
追悼集の最後の方に、齋藤美和夫人の談話が掲載されております。
「・・・齋藤は、戦後しばらく論壇や文壇から追放されていた保田與重郎さんや、やはり執筆の場から遠ざかっていた河上徹太郎さんたちに、初めて『新潮』誌面に登場してもらいました。・・・・すでに活躍していた作家たちとも親しくお付き合いしていました。舟橋聖一さんと一緒に岐阜の鵜飼いを見に行ったり、大岡昇平さんとゴルフをしたり、竹山道雄さんや今東光さんとお酒を呑みながら談論に興じたり・・・。大佛次郎さんとは、私たちの住まい近くの明月院に出かけたりしています。・・・・」(p277)
木下靖枝さんの追悼文は、
「『週刊新潮』編集部と出版部のある三階から、『新潮』『芸術新潮』編集部と校閲部のある四階へ、齋藤さんがコツコツと靴音も高く上っていらっしゃると・・・」こうはじまる文、その文章の最後にこうありました。
「編集会議には参加なさらなかったが、五味さん、吉田秀和さん、竹山道雄さん、保田與重郎さんなどの連載は、すべて四階で『芸新』の編集長だった白井重誠さんとのおしゃべりから生まれた作品だった。」(p117)
ちなみに、白井重誠氏については、
美和夫人の談話に、こうして登場しておりました。
「結局、齋藤は早稲田第一高等学院から早稲田大学の理工学部へ進みました。理系に進んだのは、ガス会社に勤めていた父親が理系だったこととも少し影響していたのかもしれません。大学で仲良くなった同級生に、白井重誠さんという方がいました。月刊少女雑誌『ひまわり』の編集部を経て、『芸術新潮』の嘱託になられた方ですが、その白井さんが、授業中に隣りの席で文庫本を読みふけっていて、余りに夢中になっている姿を見て、齋藤が声をかけたのだそうです。この白井さんがいらっしゃらなければ、齋藤は文学に触れることがなかったかもしれません。大きな出会いでした。・・・」(p272)
追悼集には小島千加子さんも書いておりました。
「・・終戦後、僅か二ヵ月後に復刊した『新潮』は、堰を切ったように知識人たちの発言の場となった。竹山道雄、塩尻公明、本多顕彰などの人生論的エッセイや、吉川幸次郎、田中美知太郎という碩学の頻繁な登場。それらは、齋藤さんの裡(うち)に蓄積されていた教養の発露である。時代の要望を睨んだ、人の意表をつく企画も次々と発せられる。小林秀雄とノーベル賞の湯川秀樹との、一冊の半ばを割く長大な対談、同じく小林秀雄と徳川夢声との対談。また、カミュの『異邦人』、『カミュ、サルトル論争』、『ジイドの日記抄』等、海外に向ける目も新しかった。」(p37)
その当時「風当りの強い『危険な思想家』」という、
そんなレッテルをベタベタと貼られていた人に、
きちんと、発言の場を与えていた数少ない編集者が、
齋藤十一だった。ということなのですね。
うん。
レッテルしか見ない人。
ただ、レッテルを貼るだけの人。
いるんですよね。
レッテルを貼るだけで満足しちゃう人。
おっと、私もそうでした。