和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

李白の「静夜思」。

2013-09-21 | 本棚並べ
昨日は、お赤飯を頂戴しました(笑)。
さっそく、夕飯に食べる。
金時豆がはいって、くちあたりがよく、
ついつい欲張って食べてしまいました。

そのせいか、ゴロリと寝てしまい。
夜中の12時半頃に目がさめる。
すると、二階のベランダが、明るい。
出てみると、ちょうど上に満月。
夜空の端のほうに星がみえますが、
目がなれるまでは、月のまわりには星もみえず。

夜中に起き出し、シャワーをあびたあと、
ひさしぶりに本棚から、
谷崎潤一郎著「文章読本」をとりだす。
その最後の方に、
それはありました。
谷崎潤一郎が語るところの、李白の「静夜思」。

「・・・読むのでありますが、この詩には何か永遠な美しさがあります。御覧の通り、述べてある事柄は至って簡単でありまして、『自分の寝台の前に月が照っている、その光が白く冴えて霜のように見える、自分は頭(こうべ)を挙げて山上の月影を望み、頭を低れて遠い故郷のことを思う』と、云うだけのことに過ぎませんけれども、そうしてこれは、今から千年以上も前の『静夜の思ひ』でありますけれども、今日われわれが読みましても、牀前の月光、霜のような地上の白さ、山の上の高い空に懸った月、その月影の下にうなだれて思ひを故郷に馳せている人の有様が、不思議にありありと浮かぶのであります。・・・・」

せっかく、この本をひらいたので、
ほかの箇所も、パラパラとめくります。
こんな箇所が、ありました。

「そう云へば、漱石の『我輩は猫である』の文字使ひは一種独特でありまして、『ゾンザイ』を『存在』、『ヤカマシイ』を『矢釜しい』などと書き、中にはちょっと判読に苦しむ奇妙な宛て字もありますが、それらにもルビが施してない。その無頓着で出鱈目なことは鴎外と好き対照をなすのでありますが、それがあの飄逸な内容にしっくり当て嵌まって、俳味と禅味とを補っていたことを、今に覚えているのであります。」(体裁について)

午前3時をまわって、
もう一度、夜空をみあげると、
いつのまにか、雲に隠れておりました。

コメント
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