今日は病院へ行く日。
アキレス腱断裂から2か月。
お医者さんに、近くの接骨院への通院に変更したいと
お願いすると、承認していただける。ありがたい。
午後は5階でリハビリをうける。
待つ間に、そばで、義足の歩行訓練をしている。
リハビリ指導は、今回は別の方。
若い男性で、今後のリハビリの仕方を教わる。
途中で、補助器具取扱い説明した方が声をかけてゆく。
この補助器具の使い方は、ゾンザイですねと、
指摘される。
その人に、高校女子で、剣道部の人が、
再断裂してしまったのですよと、チラリと言われる。
うん。心して、自宅療養をいたします(笑)。
ということで、今回で病院への通院はお終い。
病院は予約なのですが、
10時の予約でも、15分から20分は待ちます。
ということで、持参する本をひらく時間がある。
それに、今日はお医者とリハビリとで
待ち時間はたっぷり。
けれども、そうそう読めるわけではありません。
ショルダーバックから取り出した本は、
志村五郎著「記憶の切絵図」(筑摩書房・2008年)。
これは、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
「はじめに」で印象深く取り上げられていた一冊。
待ち時間、繰り返し読んでいた箇所を、
ちょっと長いですが引用。
「朝鮮戦争が起ったのは1950年6月、私が大学の2年生の時である。
当時の日本の社会のこれに対する反応は、
今日の歴史概説書では伝えられていない面があると思うのでそれを書く。
38度線を突破して侵入した北朝鮮軍はその年の8月中には国連軍を半島の釜山付近の小部分に追いこめ、全半島を占領しかねない勢いであった。その頃私は、その理由は忘れたが、駒場の東大の寮か何かに行く用があった。帝都線の東大の前の駅で、高校時代の知人にあった。彼もその時東大の学生であったと思う。朝鮮戦争の話になり、私が『もうすぐ国連軍は追い落とされそうじゃないか』と言うと、彼が『うんそうだ、もう少しのしんぼうで勝利が得られるんだ』と言うではないか。つまり私が憂うべき事として言うのを彼は喜ぶべき事として言っているのである。
私は愕然として、『ああこれではだめだ、話にならない』と思って話題を変えてしまった。今の人にはわからないが、それが学生の多くあるいはいわゆる進歩的評論家の当り前の意見だったのである。統計を取ったらそうでなかったかも知れないが、学生の間の共産党員またはそのシンパの勢いは大きく、その前の年あたりから『もう5年もすれば革命だ』などと言っていた。・・・議論しても無駄なので言うがままにさせておいた。
しかし、共産社会が理想郷であるという信仰はそれよりさらに若い世代も持っていて、1975年頃でも北朝のその意味での優越性を信じている者は大勢いた。その中には現在有名大学の学長になっている者もいる。もうこの頃はやっとわかったようではあるが。
また、あれは北朝鮮軍が侵入したのではない。南側が先に攻めたか挑発したのだと思っている『知識人』もかなりいた。1985年の『すばる』8月号で小田切秀雄は、『ずっとそう思っていたがやっとそうでないことがわかった』という意味の事を書いている。こんな明白な事実をみとめるのに35年かかたというのは驚くべきであるが、その種の連中はほかにもまだいる。
もうひとつ『ソ連信仰』があって、この方がより悪質かも知れない。
『米国寄りにならずまたソ連に近よるのでなく、米国とソ連の間にうまくバランスをとってやるべきだ』といういかにももっともらしい議論をする政治学者や評論家が多勢いた。いわゆる『進歩的知識人』である。それは実は反米をごまかして言っていて、彼等は反共よりは反米の方が受けがよいことをよく知っていたのである。だから彼等の世界の中での功利的保身術に基いていたと言ってもよい。・・・・
付記すると、進歩的知識人はふしぎなことに、いかにソ連が数多くの悪事をしたかに目をつぶったのである。
戦争が終った時ソ連は日本軍兵士を多数シベリアに抑留して長い間働かせた。これは労働力を得る目的でかなり前から計画されていた。多数の抑留日本兵が厳寒の下、飢餓と戦いながら苛酷な労働を強いられたのである。この事を我々は決して忘れてはならない。これは誰が何度言っても言い過ぎることはないと思うのでここに書いた。要するにソ連は信用してはならない国だったのである。」
この途中に、竹山道雄氏のことが登場しておりました。
そこを最後に引用。
「竹山道雄はそれとは違って共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時ほとんどただひとりの人であった。いつの世の中でも正しい事を言うよりは、世間の受けのよいレトリックを弄する方が安全で、そんな連中がはばをきかせるものである。彼はまた東京裁判の甚だしい不当性と非論理性を言った。今となっては彼がほとんど常に正しかった事は明らかである。・・・・ともあれ竹山道雄を今日論ずる人がないことを私は惜しむ。」(~p125)
うん。病院の待ち時間に、
私はここを、くりかえして読んでおりました。
アキレス腱断裂から2か月。
お医者さんに、近くの接骨院への通院に変更したいと
お願いすると、承認していただける。ありがたい。
午後は5階でリハビリをうける。
待つ間に、そばで、義足の歩行訓練をしている。
リハビリ指導は、今回は別の方。
若い男性で、今後のリハビリの仕方を教わる。
途中で、補助器具取扱い説明した方が声をかけてゆく。
この補助器具の使い方は、ゾンザイですねと、
指摘される。
その人に、高校女子で、剣道部の人が、
再断裂してしまったのですよと、チラリと言われる。
うん。心して、自宅療養をいたします(笑)。
ということで、今回で病院への通院はお終い。
病院は予約なのですが、
10時の予約でも、15分から20分は待ちます。
ということで、持参する本をひらく時間がある。
それに、今日はお医者とリハビリとで
待ち時間はたっぷり。
けれども、そうそう読めるわけではありません。
ショルダーバックから取り出した本は、
志村五郎著「記憶の切絵図」(筑摩書房・2008年)。
これは、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
「はじめに」で印象深く取り上げられていた一冊。
待ち時間、繰り返し読んでいた箇所を、
ちょっと長いですが引用。
「朝鮮戦争が起ったのは1950年6月、私が大学の2年生の時である。
当時の日本の社会のこれに対する反応は、
今日の歴史概説書では伝えられていない面があると思うのでそれを書く。
38度線を突破して侵入した北朝鮮軍はその年の8月中には国連軍を半島の釜山付近の小部分に追いこめ、全半島を占領しかねない勢いであった。その頃私は、その理由は忘れたが、駒場の東大の寮か何かに行く用があった。帝都線の東大の前の駅で、高校時代の知人にあった。彼もその時東大の学生であったと思う。朝鮮戦争の話になり、私が『もうすぐ国連軍は追い落とされそうじゃないか』と言うと、彼が『うんそうだ、もう少しのしんぼうで勝利が得られるんだ』と言うではないか。つまり私が憂うべき事として言うのを彼は喜ぶべき事として言っているのである。
私は愕然として、『ああこれではだめだ、話にならない』と思って話題を変えてしまった。今の人にはわからないが、それが学生の多くあるいはいわゆる進歩的評論家の当り前の意見だったのである。統計を取ったらそうでなかったかも知れないが、学生の間の共産党員またはそのシンパの勢いは大きく、その前の年あたりから『もう5年もすれば革命だ』などと言っていた。・・・議論しても無駄なので言うがままにさせておいた。
しかし、共産社会が理想郷であるという信仰はそれよりさらに若い世代も持っていて、1975年頃でも北朝のその意味での優越性を信じている者は大勢いた。その中には現在有名大学の学長になっている者もいる。もうこの頃はやっとわかったようではあるが。
また、あれは北朝鮮軍が侵入したのではない。南側が先に攻めたか挑発したのだと思っている『知識人』もかなりいた。1985年の『すばる』8月号で小田切秀雄は、『ずっとそう思っていたがやっとそうでないことがわかった』という意味の事を書いている。こんな明白な事実をみとめるのに35年かかたというのは驚くべきであるが、その種の連中はほかにもまだいる。
もうひとつ『ソ連信仰』があって、この方がより悪質かも知れない。
『米国寄りにならずまたソ連に近よるのでなく、米国とソ連の間にうまくバランスをとってやるべきだ』といういかにももっともらしい議論をする政治学者や評論家が多勢いた。いわゆる『進歩的知識人』である。それは実は反米をごまかして言っていて、彼等は反共よりは反米の方が受けがよいことをよく知っていたのである。だから彼等の世界の中での功利的保身術に基いていたと言ってもよい。・・・・
付記すると、進歩的知識人はふしぎなことに、いかにソ連が数多くの悪事をしたかに目をつぶったのである。
戦争が終った時ソ連は日本軍兵士を多数シベリアに抑留して長い間働かせた。これは労働力を得る目的でかなり前から計画されていた。多数の抑留日本兵が厳寒の下、飢餓と戦いながら苛酷な労働を強いられたのである。この事を我々は決して忘れてはならない。これは誰が何度言っても言い過ぎることはないと思うのでここに書いた。要するにソ連は信用してはならない国だったのである。」
この途中に、竹山道雄氏のことが登場しておりました。
そこを最後に引用。
「竹山道雄はそれとは違って共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時ほとんどただひとりの人であった。いつの世の中でも正しい事を言うよりは、世間の受けのよいレトリックを弄する方が安全で、そんな連中がはばをきかせるものである。彼はまた東京裁判の甚だしい不当性と非論理性を言った。今となっては彼がほとんど常に正しかった事は明らかである。・・・・ともあれ竹山道雄を今日論ずる人がないことを私は惜しむ。」(~p125)
うん。病院の待ち時間に、
私はここを、くりかえして読んでおりました。