宮本常一著「民俗学の旅」(講談社学術文庫)
の最後の方をめくっていると、
佐渡のおんでこ(鬼太鼓)学校のことに
ふれた箇所がありました。
「この仲間の集団としての生活ぶりはまことに
見事であった。酒を飲まず煙草を吸わず
新聞を読まず、ラジオ・テレビも視聴せず、
砂糖も用いなかった。太鼓を叩くことに
集中すると、できるだけ雑音のはいらない
生活をしたくなるという。
テレビも新聞も見なければ時代おくれになる
ように考え勝ちだが、時代おくれというのは
創意工夫を失って物まねだけで生きてゆく
ことではなかろうか。・・・」(p215)
「ラジオ・テレビも視聴せず」とあります。
う~ん。テレビ漬けの私には耳が痛い。
そういえば、
「『夏彦の写真コラム』傑作選1」(新潮文庫)に
「秋の夜ながなくなる」という題の文がありました。
そのはじまりは
「『テレビのない家庭』を本誌で読んで、そんなうちが
まだあったかと乗りだしたら川嶋紀子嬢のうちだと
知っていかにもと思った。失礼ながらあの顔というより
あの表情、挙措進退は戦前のものである。戦前なら
ずいぶんないではなかったが、戦後は絶無になった。
ことにジョギング中をカメラに待ちぶせられ、
他意なく立ちどまって会釈なさった写真はよかった。
微笑をたたえている。」(p219)
興味深いので、もう少し引用をつづけます。
「テレビを見ないで育つとああいう表情になるなら、
今後はテレビを見ないことがステータスになって、
あの表情を回復するなら、女子のためにも男子の
ためにも、大げさに言えば邦家(ほうか)のため
にもめでたいが、ダメだろう。
私はテレビぎらいというよりほとんど憎んでいる。
あんなもの百害あって一利がない、
ないほうがいいと思っているが、出来たものは
出来ない昔に返らぬこともよく承知している。」
この文の最後は、こうでした。
「川嶋家の家長はテレビ好きだそうだ。
それがどうしてテレビを見せないことに
成功したのか、いずれゆっくり承りたいと
思っている。」
の最後の方をめくっていると、
佐渡のおんでこ(鬼太鼓)学校のことに
ふれた箇所がありました。
「この仲間の集団としての生活ぶりはまことに
見事であった。酒を飲まず煙草を吸わず
新聞を読まず、ラジオ・テレビも視聴せず、
砂糖も用いなかった。太鼓を叩くことに
集中すると、できるだけ雑音のはいらない
生活をしたくなるという。
テレビも新聞も見なければ時代おくれになる
ように考え勝ちだが、時代おくれというのは
創意工夫を失って物まねだけで生きてゆく
ことではなかろうか。・・・」(p215)
「ラジオ・テレビも視聴せず」とあります。
う~ん。テレビ漬けの私には耳が痛い。
そういえば、
「『夏彦の写真コラム』傑作選1」(新潮文庫)に
「秋の夜ながなくなる」という題の文がありました。
そのはじまりは
「『テレビのない家庭』を本誌で読んで、そんなうちが
まだあったかと乗りだしたら川嶋紀子嬢のうちだと
知っていかにもと思った。失礼ながらあの顔というより
あの表情、挙措進退は戦前のものである。戦前なら
ずいぶんないではなかったが、戦後は絶無になった。
ことにジョギング中をカメラに待ちぶせられ、
他意なく立ちどまって会釈なさった写真はよかった。
微笑をたたえている。」(p219)
興味深いので、もう少し引用をつづけます。
「テレビを見ないで育つとああいう表情になるなら、
今後はテレビを見ないことがステータスになって、
あの表情を回復するなら、女子のためにも男子の
ためにも、大げさに言えば邦家(ほうか)のため
にもめでたいが、ダメだろう。
私はテレビぎらいというよりほとんど憎んでいる。
あんなもの百害あって一利がない、
ないほうがいいと思っているが、出来たものは
出来ない昔に返らぬこともよく承知している。」
この文の最後は、こうでした。
「川嶋家の家長はテレビ好きだそうだ。
それがどうしてテレビを見せないことに
成功したのか、いずれゆっくり承りたいと
思っている。」