伊藤正雄の「文章のすすめ」後篇にあった、
手紙の章には、
「『文章は書簡に始まって書簡に終る』
というのが私の持論である。」(p240)
そこに引用されていた福翁百話(明治30年)の
箇所
「・・用事もなき人に文通せざるは勿論、
要用の来書に対して返事せざる者さへ多し。
本人の不利のみか、社会の全面を殺風景に
するものと云ふべし。」(58話)
とあったのが、印象に残るので、
それならと、今日「福翁百話全」を注文することに、
古書出島書店(福岡市城南区鳥飼)へ注文。
うん。せっかくなので、九州の古本屋へ
と明治時代の古書を注文することにしました。
すぐに返事がきて、今日集荷してくれるとのこと。
届くのが楽しみになります。
それにしても、
「社会の全面を殺風景にするものと云うべし。」
というのは、鮮やかな言葉だなあ。
反芻していると、
私など、殺風景の片棒を担いでいた
のだなあ。と思い至ります。
さて、明治時代の冊子で、
私に読めるかどうか?
それも、届いての楽しみ。
手紙の章には、
「『文章は書簡に始まって書簡に終る』
というのが私の持論である。」(p240)
そこに引用されていた福翁百話(明治30年)の
箇所
「・・用事もなき人に文通せざるは勿論、
要用の来書に対して返事せざる者さへ多し。
本人の不利のみか、社会の全面を殺風景に
するものと云ふべし。」(58話)
とあったのが、印象に残るので、
それならと、今日「福翁百話全」を注文することに、
古書出島書店(福岡市城南区鳥飼)へ注文。
うん。せっかくなので、九州の古本屋へ
と明治時代の古書を注文することにしました。
すぐに返事がきて、今日集荷してくれるとのこと。
届くのが楽しみになります。
それにしても、
「社会の全面を殺風景にするものと云うべし。」
というのは、鮮やかな言葉だなあ。
反芻していると、
私など、殺風景の片棒を担いでいた
のだなあ。と思い至ります。
さて、明治時代の冊子で、
私に読めるかどうか?
それも、届いての楽しみ。