三冊を並べてみます。
〇「諸君!」2009年6月最終号。
〇河野与一編訳「イソップのお話」(岩波少年文庫)
〇「谷口智彦著「安倍晋三の真実」(悟空出版)
一冊目は、
「諸君!」最終号の曽野綾子さんの2ページほどの文のなかに
「沖縄県人自身が、あれは軍に命じられて
強制的に自決させられたもので、
自決した人々は被害者だと言う言い方をした。
私からみると、それは死者に対して
この上ない非礼であった。」(p166)
曽野綾子著「ある神話の背景」について
書かれているのでした。
二冊目は
イソップの話にある河野与一氏の訳、
短いのでそのまま引用しないとね。
「オオカミが、川で水をのんでいる子ヒツジを見て、
ないかもっともらしい理くつをつけてたべてしまおうと
おもいました。そこでじぶんは、川上のほうにいるのに、
子ヒツジがにごらせたものだから、水がのめなくななったと、
もんくをいいまいた。そこで子ヒツジは、じぶんは
口のさきだけでのむのだし、それに川下のほうにいるのだし、
川上の水をにごらせるはずはないといいますと、
オオカミは、はぐらかされたので、
『しかし、おまえは去年、おれのおやじのわるくちを
いったじゃないか。』と、いいました。子ヒツジが、
そのころは、まだ生まれていなかったといいますと、
オオカミは子ヒツジにいいました。
『いくらおまえがうまくいいぬけをしても、
やっぱりおまえをくうことにする。』
人をひどいめにあわすために理くつをつける人には、
いくらいいわけをしてもなんにもなりません。」
(p80~81)
三冊目は
谷口智彦著「安倍晋三の真実」。
本文の最後にありました。
「総理から一度、直話として聞いたことがあります。
戦前、戦中、父祖たちがなした行いに、いったい
今を生きる我々が、なんの資格あって謝ることが
できるというのか。父祖の行為をいつでも
謝れると考えるのは、歴史に対する傲慢である
―――と、正確な再現ではありませんが、
そんな趣旨でした。」
うん。最後まで引用しちゃいます。
「数十年も前の、父母や祖父母が感じた感情を、
罪障感であれ、苦痛であれ、はたまた怒りであれ、
私たちは同じように感じることなどできません。
できると思うこと自体、想像力の欠如であり、
確かに総理が言うように、今となっては
想像すらできない因果の輻輳に対する無神経です。
にもかかわらず謝って見せたなら、それは直ちに
政治的行為となります。
すぐさま誉めてやろうと、相撲の行司よろしく
待ち構えている人たちがいて、謝罪を口にした
彼または彼女は、国内外の政治の世界で株を上げるからで、
それを見越した行為となるからです。
謝罪は一種のカタルシスをもたらすことにも、注意が必要です。
対象となった罪自体は、自分が手を汚したものではありませんから、
彼、彼女における罪の意識は、あくまでも抽象的なものです。
隠したい気持ちとの葛藤などは、強く意識されません。
そこでの謝罪とは、結局のところおのれの
ナルシシズムを満足させる結果を生みます。
『謝る行為は美しく、美しい行為を実行できる自分は美しい』
というわけです。
安倍総理における潔癖は、
謝罪によって自分の政治的株価を上げることも、
内心の自己愛を満足させることも、
いずれも決してよしとしません。
これこそが、安倍総理が過去父祖たちの時代に
起きたことに謝らない、いえ、謝るという行為をなし得ない
と考えている理由なのです。
安倍晋三という人の真実は、
歴史に対するその謙虚さにある。
まさにその意味において、安倍総理は、
保守主義の真髄を身につけた人である。
私は、そう思います。」
(p271~272)
はい。三冊を並べてみました。
〇「諸君!」2009年6月最終号。
〇河野与一編訳「イソップのお話」(岩波少年文庫)
〇「谷口智彦著「安倍晋三の真実」(悟空出版)
一冊目は、
「諸君!」最終号の曽野綾子さんの2ページほどの文のなかに
「沖縄県人自身が、あれは軍に命じられて
強制的に自決させられたもので、
自決した人々は被害者だと言う言い方をした。
私からみると、それは死者に対して
この上ない非礼であった。」(p166)
曽野綾子著「ある神話の背景」について
書かれているのでした。
二冊目は
イソップの話にある河野与一氏の訳、
短いのでそのまま引用しないとね。
「オオカミが、川で水をのんでいる子ヒツジを見て、
ないかもっともらしい理くつをつけてたべてしまおうと
おもいました。そこでじぶんは、川上のほうにいるのに、
子ヒツジがにごらせたものだから、水がのめなくななったと、
もんくをいいまいた。そこで子ヒツジは、じぶんは
口のさきだけでのむのだし、それに川下のほうにいるのだし、
川上の水をにごらせるはずはないといいますと、
オオカミは、はぐらかされたので、
『しかし、おまえは去年、おれのおやじのわるくちを
いったじゃないか。』と、いいました。子ヒツジが、
そのころは、まだ生まれていなかったといいますと、
オオカミは子ヒツジにいいました。
『いくらおまえがうまくいいぬけをしても、
やっぱりおまえをくうことにする。』
人をひどいめにあわすために理くつをつける人には、
いくらいいわけをしてもなんにもなりません。」
(p80~81)
三冊目は
谷口智彦著「安倍晋三の真実」。
本文の最後にありました。
「総理から一度、直話として聞いたことがあります。
戦前、戦中、父祖たちがなした行いに、いったい
今を生きる我々が、なんの資格あって謝ることが
できるというのか。父祖の行為をいつでも
謝れると考えるのは、歴史に対する傲慢である
―――と、正確な再現ではありませんが、
そんな趣旨でした。」
うん。最後まで引用しちゃいます。
「数十年も前の、父母や祖父母が感じた感情を、
罪障感であれ、苦痛であれ、はたまた怒りであれ、
私たちは同じように感じることなどできません。
できると思うこと自体、想像力の欠如であり、
確かに総理が言うように、今となっては
想像すらできない因果の輻輳に対する無神経です。
にもかかわらず謝って見せたなら、それは直ちに
政治的行為となります。
すぐさま誉めてやろうと、相撲の行司よろしく
待ち構えている人たちがいて、謝罪を口にした
彼または彼女は、国内外の政治の世界で株を上げるからで、
それを見越した行為となるからです。
謝罪は一種のカタルシスをもたらすことにも、注意が必要です。
対象となった罪自体は、自分が手を汚したものではありませんから、
彼、彼女における罪の意識は、あくまでも抽象的なものです。
隠したい気持ちとの葛藤などは、強く意識されません。
そこでの謝罪とは、結局のところおのれの
ナルシシズムを満足させる結果を生みます。
『謝る行為は美しく、美しい行為を実行できる自分は美しい』
というわけです。
安倍総理における潔癖は、
謝罪によって自分の政治的株価を上げることも、
内心の自己愛を満足させることも、
いずれも決してよしとしません。
これこそが、安倍総理が過去父祖たちの時代に
起きたことに謝らない、いえ、謝るという行為をなし得ない
と考えている理由なのです。
安倍晋三という人の真実は、
歴史に対するその謙虚さにある。
まさにその意味において、安倍総理は、
保守主義の真髄を身につけた人である。
私は、そう思います。」
(p271~272)
はい。三冊を並べてみました。
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