和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

なんだか変で、それでいて。

2023-06-15 | 絵・言葉
『街道をゆく』。その須田剋太の挿絵を見ています。

うん。カタログを手許へと置きながら、
この魅力はいったい何かと思いながら。
余分な線が描きこまれたデッサンのような挿画。
まるで地面と歴史からの補助線がのびたようで。
まるで眼前の電線のように張り巡されたようで。

それに較べると、安野光雅画伯の『街道をゆく』の装画では、
落ち着きさが気になり、万事落ち着かない私には不釣り合い。

うん。これを私の好みの問題にしてしまったらそれまでですが、
こういう始末に困る魅力を、司馬さんは語ってくれております。

モンゴル高原に、司馬さんが須田さんといっしょに行った時の
ことを語った箇所があるのでした。

「・・須田さんが、半ば朽ちたタラップを降りつつ、
 草原を見はるかしたのをおぼえています。

 『 パリよりもすごい 』

 とつぶやかれたのは、おかしくもあり、感動的でもありました。
 私としてはお誘いした甲斐があったと思い、心満ちた気分でした。」

     ( p478~479 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )

ここで、須田画伯が、モンゴル高原とパリとをひきあいに出した。
そのことに、司馬さんは触れながら正岡子規をひきあいに出します。

「 二律背反とまで行かないにせよ、
  なんだか変で、それでいて張りのあるイメージなのです。

  例をあげると、子規の
 『 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺 』のような張りであります。

  相異なる事物(この場合、柿と鐘)が、平然と一ツ世界に同居しますと、
  ときに磁力のように、たがいにはねのけたり、吸着したりします。

  そのことによってふしぎな音や光を発したりもします。
  芸術的効果というべきものであります。

  須田さんの絵画(とくに『街道をゆく』の装画)は、
  ほとんど無作為にしてそのようでありました。

  ・・・・そうでなければ画面の緊張というのは生み出されません。
  緊張とは、造形上の矛盾を、二つの相反する力が、
  克服しようとして漲(みなぎ)ってくる場合のことを言います。

  それにしても、人工で詰まったパリと、非人工の美ともいうべき
  モンゴル草原をとっさに同じ括弧(かっこ)のなかに入れて
  比較する須田さんのおかしさ・・・・・     」( p479~480 )


はい。この言葉を頼りに、また須田剋太画伯の
『街道をゆく』の装画を、ひらいてみることに。 
                           



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2 コメント

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街道をゆく (きさら)
2023-06-17 09:08:56
「街道をゆく」シリーズは
たくさん読みましたが 手元にあるのは
「モンゴル紀行」と 「南蛮のみち」だけです。

外大の蒙古科を卒業された司馬さんの
憧れの土地への旅。
とっても楽しく読みました。
文庫本なので 須田さんの挿絵は
とても小さいのが残念です。

司馬さんが 須田さんのことを
とても大切に思っていらっしゃることが
文章のアチコチににじみ出ていました。
返信する
おはようございます。 (和田浦海岸)
2023-06-17 10:44:20
おはようございます。きさらさん。
コメントをありがとうございます。

『モンゴル紀行』と『南蛮のみち』ですね。
きさらさんの読書を信頼しております。

とてもたくさんは読めない私なので、
この2冊だけでも手許に置くことに。

コメントありがとうございました(笑)。
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