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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

空気は読める。

2007-11-15 | Weblog
文藝春秋2007年12月号。
「沖縄集団自決 母は見た」と題した文が掲載されています。
佐藤優氏が母・佐藤安枝さんに話を聞いて書かれているのでした。
現在進行中の沖縄集団自決訴訟などを思うにつけ、印象深いこの佐藤氏の文を、読むことをお薦めいたします。
はじまりは
「私は埼玉県大宮市(現さいたま市)の団地で育った。子供時代から、母に童話を読んでもらったり、昔話について聞くのが何よりの私の楽しみだった。母の昔話のほとんどが、故郷の久米島や琉球王朝府に伝わる物語だった。・・・・六月の梅雨の頃になると、『沖縄の雨は、内地では想像できない。激しい雨の中で、お母さんは逃げて、逃げて、逃げ回った』と母は必ず沖縄戦の話をした。そこで聞いた、母の沖縄戦記で出てくる、ぎりぎりの状況で母の命を救ってくれた日本兵に対して、私はいつしか強い親しみを抱くようになった。それと同時に、母は実はあの戦争で、死んだ姉や、軍人たちと一緒に死にたかったんだという印象を強くもち、母が私の前から消えてしまうのではないかという恐怖を抱くようになった。それは、母の沖縄戦記が、最後は、『こうして生きているのが、戦争で死んでしまった人たちに申し訳ない』と言って、うつろな目で中空を見あげ、その後、私を睨んで、『あんたが悪いことをしたら、あのとき手榴弾を破裂させたんだと思って、お前を殺して、私も死ぬ』と言う脅しで終わるからだ。・・・・」


この佐藤安枝さんは1930(昭和5)年生まれだとあります。
曽野綾子さんは1931年生まれでした。
その曽野さんは産経新聞10月23日「正論」欄(シリーズ:「集団自決と検定」)で、こうしめくくっておりました。

「戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子行員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。政治家も教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。」

ちょいと話がそれますが、大本営発表という言葉を、11月9日の産経新聞に見つけました。それも引用したくなります。

「沖縄県宜野湾市で9月に開かれた沖縄戦の集団自決をめぐる県民大会の参加者数について、誇大な『11万人説』が独り歩きしている問題を憂慮する学者や評論家、法曹関係者らが『マスコミの誤報を正す会』を結成。・・・代表は外交評論家の加瀬英明氏で、メンバーは藤岡信勝拓殖大教授、ジャーナリストの西村幸祐氏ら16人。加瀬氏は【11万人という誇大報道は、先の大戦で大本営発表をうのみにしたのと同じ】と指摘した。会見では、東京の警備会社が航空写真をもとに数えたところ、参加者の実際には1万8179人で、木陰などで写真に写らなかった人を合わせても2万人以内と報告。与野党の政治家が教科書検定制度に介入しようとしている現状について『誤解に基づいて教育政策が左右される重大な事態に至っている』と批判する会の声明を発表した。・・」

現代にも大本営発表を、そのままにうのみにして訂正もせずに、恥じない新聞が存在する。そのことを、私たちはきちんと自覚する心構えが必要でありますね。


もう一度、文藝春秋の佐藤氏の文にもどります。
佐藤安枝さんは、文藝春秋9月号の特集「父と母の戦争」に、
「佐藤優の母 十四歳の沖縄戦」という手記を掲載しておりました。
この12月号では、その手記をもとにして優氏が母親に確認しながら尋ねる形の対談がメインになっております。そこから一部引用してみます。

「【・・・この頃、旅団に属する軍人軍属全員に自決用手榴弾が配られ、不発弾だった時のために予備の分も入れて二個ずつ配りながら下士官は『捕虜にだけはなるな。二個とも不発だったら舌をかんででも死ぬ覚悟で』と言いました。でも兵隊の中には『米軍は女子供には酷い扱いはしないから自決しちゃ駄目だよ』とこっそり教えてくれる方もいました。しかし十月十日の那覇の大空襲にしろ住民など無差別に百キロ爆弾を落とす米軍機を見ているので、それを信じる心境になれません。】(手記)
・・・・・・・・
【安枝】そう。結局ね、捕虜になったら、『捕虜の辱めを受けるな』というような全体的な教育だったでしょう。それと、女子の場合は特にひどい仕打ちを受けるからね。それこそ耳を切ったり、鼻を切ったり、ひどい目に遭うから、そういう目に遭わないためには自分で死んだほうが一番いいでしょう、ということで・・・。なーんか疑心暗鬼になってね。そのときは、敵というとほんとに殺しても当たり前だ、というような感覚でしょう。だから、相手もそう思っているだろう、というふうに見えるんです。」(p132)

防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1968年)からの数字も引用されておりました。それによると

「1944(昭和19)年10月10日、
米航空母艦から出撃した延べ900機が五次に渡り、
沖縄本島を攻撃し、
軍人の戦死者219名・負傷者243名、
民間人の死者330名・負傷者455名を出した。
安枝はこの空襲に遭遇した。」(p124)


ここで、私が取り上げたいのは、
「女子の場合は特にひどい仕打ちを受けるからね。それこそ耳を切ったり、鼻を切ったり、ひとい目に遭うから・・・」と語っておられる安枝さんの語りです。
そして兵隊の中に「米軍は女子供には酷い扱いはしないから自決しちゃ駄目だよ」と教える人がいたことです。この兵隊は『米軍』とわざわざ断っているのでした。これは米軍以前には、そんなことがおこなわれていたという【空気】が自然に醸成されていたと思われるのです。その【空気】の根拠は、どこにあったかという疑問が浮かぶのです。

このヒントになるのが雑誌「WILL」12月号に掲載されている皆本義博氏の語りでした。そこで語られる「渡嘉敷島にいる集団自決で生き残った金城武徳さん」がおり、金城武徳さんの証言を交えながらこう語られております。
「・・・敵にひどい目に遭わされるくらいなら早く死んだほうがいいという・・・
当時住民の間では、中国大陸の尼港事件や通州事件など、民間の日本人が多数虐殺された事件が印象として残っていたから、教訓に近いものがあった、といったほうがよいでしょう。・・」(p81)

ここに登場する通州事件について、確認しておきたいのです。
今度10年ぶりに改定版が出るという広辞苑にも、載らない事件なのですが、戦争中の民間人には鮮明な記憶として語られた事件でした。

通州事件は1937年7月29日です。
10月10日の那覇大空襲は1944年ですから、
那覇の大空襲の7年前に通州事件がありました。
ちなみに、通州事件という本は現在購入できません。
簡単には、ネットで読むしか知りえない事件になっております。
ネット上で、確認していただければ、その具体的な様子がわかるでしょう。
ここでは、渡部昇一氏の文を再度引用することにします。

「盧溝橋事件が起こるとすぐに停戦を指示し、現地では停戦協定ができている、ところが、いまでは共産党の策謀だったことがはっきりしているが、停戦が成ったのに別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてきて衝突が起こる。それが収まり、ふたたび停戦の協定ができると、また別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてくる。そしてついに、日本人居留民二百人がシナ兵によって殺害される通州事件が起こり、日本は引くに引けなくなっていった・・」(「時流を読む眼力」p183)

「ご存じない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから一週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、全身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです」(「広辞苑の嘘」p186)

「岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。まだまだシナ絡みでの広辞苑の大嘘があります。・・・・」(p187)

ちなみに、この「広辞苑の嘘」が出版されたのが2001年でした。
来年早々に「広辞苑」の改定版が10年ぶりにでるそうですが、
大江健三郎著「沖縄ノート」をまだ訂正もせずに販売している出版社ですから、
広辞苑の歴史記述も相変わらず通州事件は載せずじまいで、
相変わらず信奉する岩波の史観を踏襲しているよ(きっとね)。
広辞苑で、新しい収録語をひくなら楽しみでしょうが、
「いいとこどり」した「うざい」「自己中」の歴史観だけには、
惑わされないようくれぐれも気をつけましょう。

「広辞苑の嘘」の「結びにかえて」で渡部昇一氏は
「人は自分の引く辞書を信頼する。
辞書には誤植や誤記はないはずだ、という先入観が一般にある、
と言ってもよいであろう。そこにつけ入るとは、
何たる悪辣(あくらつ)な所行(しょぎょう)であろうか。」(p281)
と書いておりました。
この渡部昇一氏の、毅然とした物言いに拍手。


ということで、広辞苑の隠された歴史観に染まる愚を避けられるならば、
空気のほうが、丁寧に理解したぶんの豊かな手応えを読み取れるのです。



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読書に挫折。

2007-11-14 | Weblog
読売新聞2007年11月10日「編集手帳」の、はじまりは印象的でした。
「『雍也(ようや)論語』という言葉がある。論語全20編を読み始めたものの、第6『雍也』編まできて飽きてしまい、途中で投げ出すことをいう。きのうで読書週間が終わった。読む意欲はあったのに、ついついほかの趣味に時間を取られ、せっかく買い求めた本の表紙にほこりを積もらせた方もあろう。今も昔も、読書に挫折はつきものである。」

ところで、私は思うわけです。
いまだ読んでいない本に大江健三郎著「沖縄ノート」(岩波新書)がある。
この新書は、どのようにして書かれたか。その書かれ方が気になる。
産経新聞11月10日に沖縄集団自決訴訟の大江健三郎氏の口頭弁論が取り上げられておりました。そこには
「大阪地裁(深見敏正裁判長)であり、本人尋問が行われた。大江氏は『参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決は軍隊命令という結論に至った』と述べ、軍命令説の正当性を主張した」とあります。
この新書は、資料や本を読んで、その執筆者と話して書いた本ということを語っております。何か読書週間にふさわしいお言葉ですが、その記載に問題があるとされており、そこが損害賠償や書物の出版・販売差し止めなどを求めての訴訟となっております。産経では(牧野克也)と署名で【視点】の解説、題して「論点すり替え 抽象論に終始」とあります。そこに、こんな言葉が拾えます。
「大江氏は自著で沖縄の文献に記載された軍命令説を引用し、元隊長の一人を『集団自決を強制したと記憶される男』『ペテン』などと記載。軍命令説を覆す有力証言や著書の出版が続いても加筆・訂正を加えず、今は発行部数30万部を超える」。

11月13日「産経抄」は、この口頭弁論を取り上げて書いておりました。
はじまりはこうです。
「沖縄戦について書かれた本の記述をうのみにして、大戦末期、当時の守備隊長らが、住民に集団自決を命令したと、決めつけただけではない。会ったこともない元隊長の心の中に入り込んでしまう。『戦争犯罪人』であり『者』は、『あまりにも巨きい罪の巨塊』の前で『なんとか正気で生き伸びたいとねが』い、『かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめた』とまでいう。三十数年ぶりに『沖縄ノート』を読み返して、あらためてノーベル賞作家の想像力のはばたきに脱帽した。もっとも、書かれた方はたまらない。個人名がなくても、隊長は島に一人しかいないのだから特定は容易だ。・・・」

ここで、産経抄子は大江健三郎氏側から提出された陳述書を読んで驚いたと書いております(この陳述書を読んでみたいなあ。私も驚いてみたいなあ)。
産経抄の最後はこう終わっておりました。

「この裁判の意味は、原告の名誉回復にとどまらない。著名作家の想像力によって歴史がつづられ、政治的な圧力で教科書の検定結果が覆ろうとしている。歴史とは何かを問う裁判でもある。」

ということなので、大江健三郎著「沖縄ノート」を遅ればせながら注文しました。
その「純文学的」言い回しを、自分の眼であらためて読みたいのでした。

「従来、【軍命令説】の根拠とされてきたのは、座間味島と渡嘉敷島のケースだった」とされる、それが、この裁判で覆えされるのか。歴史教科書問題もこの裁判しだいで、どなたにも明快になってくるのか。それはそれとして、とにかく岩波新書を読んでみることは私にもできそうです。今でも加筆・訂正されずに出版され続けている岩波新書の一冊。それがまだ読める。興味があります。


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拾い読み。

2007-11-09 | Weblog
私は小説など、2~3ページで興味がわかないと、すぐに放り投げちゃうタイプ。まったくこらえ性がないなあ。とつくづく思うわけです。それが「直筆で読む『坊っちやん』」は何とか最後まで読めました。
だんだんと楽しく読めたので、そうすると、他の方はどう読まれたのだろうなあ。というのが次の興味でした。
どなたか書評を書いている人がいたら読みたいと思うわけです。
ということで、朝日の古新聞をもらってきたら、10月27日の文化欄に
(中村真理子)と署名記事。興味を持ちました。
「有名な書き出し。だが、ここでさっそくひっかかる。『か』が『可』の崩し字で読みづらい。くじけそうだ。・・そうやすやすと読みこなせるものではない。」
とあり、以下にいろいろと内容説明がつづくのですが、さて読み終わったとは書いてない。最後はどう締めくくっているかといえば「でも大丈夫。書店では、活字版の『坊っちゃん』がそばに並んでいる。」とありました(笑)。
うん。読まずに新刊の紹介を書くことはできる。
私もネット上で、レビューを書く時はよく読み通さないで書くことがあります。
しかも、書けちゃうのですね。これが。
たとえば、「直筆で読む・・・」の最後に、漱石の孫の夏目房之介さんが、「直筆」を読まずに書く見本のような文章を書いていてたいへんに参考になります。興味が本文からどんどんとそれてゆく、しかも書体ということですから、まんざら脱線しているというわけでもない。ですが本文は読まない。という可笑しな広がりの中へとつれていかれるのでした。ただ、読んでいないので、広がりは、そのままに集約されることもなく、拡散していくおそれがある。そこで、房之介さんは「挫折してしまった」と正直に書きこんでおられる。これは一つの見識ですね。正直に書きこまないですますこともできるのですから。

なんで、こんなにくどくどと書いているかといいますと。城山三郎・高山文彦対談「日本人への遺言」(講談社)に裁判のことがでていて、それが思い浮かんだのでした。

【高山】『落日燃ゆ」をめぐっては、裁判で訴えられたという話も聞きましたが、どういうことだったんですか。
  ・・・・・・・・・・・・・
【城山】・・・結局、判決はプライバシーということを言い出したわけ。プライバシーは尊重すべきであるけれども、本件の場合は公務員でもあるし、プライバシーの侵害は成立しないというのが判決だった。原則としてはプライバシーは尊重すべきであるけれども、本件はそれに該当しないと。この裁判を朝日新聞が取り上げたんだよね。僕の場合は問題なしとなっているのに、『プライバシーは尊重すべき』という判決が出て、『落日燃ゆ』に問題ありという書き方をしたわけ。僕はすぐに朝日に電話して、前文はそうだけど主文はこうだ、全部読んだのかと抗議した。そしたら、書いた記者は『拾い読みしましたけど』って。全文を読んでいないんだ。『つまみ食い』って言ったかな。
【高山】失礼な話ですね。
【城山】本当に舐めた言い方してね。それでよく記事が書けるなって。・・・・結局、その記事はそのままだった。それから三年ほどして、突然、『落日燃ゆ』のことがまた朝日新聞に出た。・・・城山は間違っていると。・・・新聞記事の趣旨とまったく違う。検事に対して話しただけであって。そこをまったく無視して朝日は『落日燃ゆ』が間違っていると。
【高山】ほんとにたち悪いですね。
【城山】たち悪いよ。だから、もう朝日新聞なんか取るなって。だって、そこまでやられたらね。
【高山】朝日新聞のほうはお詫びとか訂正記事は載せたんですか。たぶん抗議をしても、そういうのらりくらりの答弁では出なかったとは思いますが。
【城山】何もないね。だから、その記事だけ読んだ人は、城山が悪い人間だってなっちゃう。
【高山】朝日新聞は間違ったことを書かないという、妙な信仰が購読者の中にあるじゃないですか。実際は大間違いの記事もあるのに。僕も朝日新聞に書かれたことがあるんです。・・・・・・(p138~142)

   ここから、高山文彦さんの語ることが興味深いのですが
   ますます、引用が長くなりますので、これくらいにして
   これから、「坊っちゃん」へともどることにしましょう。

坊っちゃんの終盤近くに、新聞が登場しておりましたね。
そこを引用したくなりました。


「昨日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚かないのだが、中学の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾(しそう)してこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向って暴力をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が付記してある。・・・・吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼らをして再び教育界に足を入るる余地なからしむることを。・・・」(岩波少年文庫「坊っちゃん」p171~172)

次はどうでしたっけ。最後に、そこも引用しておきましょう。


「あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、ひらいて見ると、正誤どころか取消も見えない。学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうという。明日(あした)になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。・・・・・新聞がそんなものなら、一日も早くぶっつぶしてしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、すっぽんに喰いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日ただ今狸の説明によって始めて承知つかまつった。」

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手書き。

2007-11-08 | Weblog
「直筆で読む『坊っちやん』」(集英社新書ビジュアル版)を読むと、他の人がどのように言っているのかが、気になりました。そうするうちに、読売新聞の11月5日「編集手帳」が、この本を取り上げていたのでした。そこから引用してみます。

「・・・刊行され、話題を呼んでいる。原稿用紙の文字が、縦のまっすぐな中心線を軸とするようにすっきりと垂直に並んでいる。漱石の実直な性格の表れなどといった指摘もある。人間の脳はパソコンで文章を作る時よりペンで書く時の方が、はるかに活発に働く。脳科学者の川島隆太東北大教授は、実験データを基にそう主張している。」
「・・とは言え、漱石の『坊っちゃん』の自筆原稿を読んでいると、ペンの動きが生み出す文章のリズムがあることに気づく。・・・」


思い浮かぶのは、清水義範著「大人のための文章教室」(講談社現代新書)でした。そのはじめの方で、はやばやと清水氏は「この文章教室で最初に導き出される文章のコツは、心をこめたい文章は手書きにすべし、である。」(p19)と示しておりました。
はじまりでは、「手紙と、依頼書との間は、微妙な違いがあって」として具体的に語っております。「<本誌何月号のこういう特集の中に、関連するエッセイを四百時詰め原稿用紙四枚、何月何日を締め切りとして執筆していただきたい>という依頼書は、ワープロで打たれたものであることが多い。ところが、<我社も小説の出版に力を入れていくことになり、ついては、一度お目にかかって、ご尽力をいただくことが可能かどうか、また、ご構想中のものがあるのかなど、うかがいたく思います。追って電話を入れさせていただきます>という内容の通信文は、手書きであることが多いのだ(もちろん例外はあるが)。」(p13)

ちなみに、新書「自筆で読む『坊っちやん』」の最初で秋山豊氏が「ちなみに、現在入手が可能な『坊っちやん』のテキストのうち、もっとも原稿に忠実なものは、この新版『漱石全集』を元に本文を確定した、岩波少年文庫版『坊っちやん』(2002年刊)である。現代仮名遣いであったり、漢字を開いたりなどの表記替えはあるが、ことばや文章は原稿どおりになっている。」(p18)と指摘しておりました。それもあったので、さっそく岩波少年文庫の「坊っちゃん」を開いてみました。後書きの解説の場所には、奥本大三郎氏が書いていて読み甲斐がありました。
本文はというと、それが、おかしなもので原稿どおりという文が、かえって読みにくい感じをあたえられました。かえって「自筆原稿」のほうが読みやすいと思えてしまうのは、一読の妙なのでしょうか。自筆の味わいが、掛け替えのない魅力と感じてくるのでした。不思議なものです。あるいは少年文庫の方には、漢字にこまめに振り仮名をふってあるために読みにくく感じるためかもしれません。


ところで、11月1日から年賀葉書が発売になっております。
そういえば、年賀はがきでも、印刷された絵や文字に、ひとこと手書きで書き添えておられる方がいますね。私は、少ない年賀はがきでも、もっぱら印刷ですませるタイプ。ちょっと心を入れ替えてよいのかもしれませんが、例年どおりかなあ。
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やっぱり。

2007-11-07 | Weblog
シリーズ「とんぼの本」(新潮社)の一冊に「洲之内徹 絵のある一生」が入りました。それが、なんとも楽しい一冊なんです。いつか読んでみたいのだけれど、読めないでいる本(まあ、冷静にみればまわりにそんな本ばかりなのですが)に洲之内徹「気まぐれ美術館」のシリーズがあります。さて、どこからチャレンジすればよいやら、とり着く島が見あたらないでおりました。ここに、かっこうの入門書を見つけた。そう私は思ったわけです。
ここには、あるとてつもない楽しみを見つけてしまった人がいるわけです。
それが、理解の及ばないスケールであるというのが、私に何となくは、わかる。これが困る。どういうたぐいの楽しみか、読んでも皆目見当がつかない。

たとえば、泥棒。
洲之内徹さんの大森のアパートに空巣が入ったエピソードが紹介されております。

「扉の錠が壊され、部屋の中が荒されていた。しかし、押入れに箱に入れて無造作に並べてあった中村彝(つね)や林武をはじめ、相当な値がつくはずの絵には泥棒は気づかなかったのか見向きもせず、また雑然とした机上に置いてあった円空仏もそのままだった。洲之内徹によると千七百円だか盗られたそうだが、結局そのあとも・・・蠣殻町に移ってもコレクションの収納場所はやはり押入れだった。」(p58)

ちなみに、大森の木造モルタルのアパートの見取り図(後藤洋明)・写真も、ちゃんと掲載されております(p50)。ぬすむといえば、洲之内徹の経営していた「現代画廊」でも、顧客が堂々と盗んでゆきます。たとえば、井部栄治氏。
「井部氏が『現代画廊』に立寄ると、(村山)槐多の<裸婦>が掛かっている。どうしても欲しいと思い、店番に訊いてみたが『主人が留守で・・・』とはっきりしない。こんないい絵を洲之内が手放すはずがない、手に入れるならいまのうちだと思った井部氏は、『いいから、早く荷造りを』と急き立てた。なおも渋るその男の靴が汚れているのを見て『これで靴でも買いなさい』とポケットにチップをねじこんだ・・・。以上が、この絵が井部コレクションに入ったいきさつらしい。洲之内が口惜しがったのはいうまでもない。・・・」(p14~15)

何とも細かいエピソードが拾われております。たとえば靴。
洲之内の足ということで、靴屋のエピソードもちゃんと拾われております。「私の足はちょっと特殊な足で、甲が低く、指が扇のように広がっていて、靴だけは既製品ではどうしても駄目。靴よりもわらじを穿くようにできている足なのである。昔から靴には泣かされたが、はじめてその私の足に合うように靴を作ってくれたのがその靴屋で、私は心の裡でひそかに恩義を感じている」(p56)とあり、この本の目次のつぎのページにその靴が写真入りで載っているじゃありませんか。
その靴の写真の次のページが何とも紹介しなければなりません。
松山東高校の校長室の写真なのです。もとは松山高校で漱石が教えたことのある学校ということで、漱石の絵と並んで洲之内徹の絵があるというツーショット。母校ということで、校歌も作詞しており、それがちゃんと3番まで歌詞が載っております(p129)。

こうしたエピソードをテンコ盛りにして一冊にしたような本なのです。どうでしょう。すこしはわかっていただけますか。おっと洲之内氏と絵のこともすこし引用しておかなければ片手落ちですね。ご自身の言葉を引用しておきます。

「ハラセイ(原精一)さんが死んでしまった。私は淋しくてしょうがない。・・一枚の絵について判断に自信の持てないとき、私はよくその絵を原さんに見せた。原さんが画廊へ来るのを待って、仕舞っておいたその絵を出して原さんに見せる。原さんがいいと言えばやっぱりその絵はいい。原さんがよくないと言えばその絵はやっぱりよくない。しょっちゅうそうしていたわけではないが、しかし、この先、そういうとき私はどうしたらいいのか。それを思うと・・・」(p104)

今年は洲之内徹の没後20年なのだそうです。やっぱり、この本は
洲之内徹と出会うための、最新最高の一冊としてよろしいですね。


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くしやみ。

2007-11-06 | Weblog
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(新潮文庫)に、気になる箇所があるので、今日はそこを取り上げてみます。
「ノモンハンでの出来事」とあります(p179~ )
【村上】このあいだ非常に奇妙な経験をしました。ぼくはノモンハンに行ったんです。モンゴルの軍の人にたのんで、昔のノモンハンの戦場跡に連れて行ってもらったのです。そこは砂漠の真ん中で、ほとんどだれも行ったことがないところで、全部戦争の時そのままに残っているんですよ。戦車、砲弾、飯盒(はんごう)とか水筒とか、ほんとうにこのまえ戦闘が終わったばかりみたいに残っている。ぼくはほんとうにびっくりしました。空気が乾燥しているからほとんど錆びていないのですよ。また、あまりにも遠くて、持って行ってクズ鉄として使うにも費用がかかるので、ほったらかしにしてあるのですね。それで、いちおう慰霊という意味もあって、ぼくは迫撃砲弾の破片と銃弾を持って帰って来たのです。・・ホテルの部屋にそれを置いて、なんかいやだなと思ったんですよ、それがあまりにも生々しかったから。夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。ぼくは完全に目は覚めていたんですよ。もう歩けないぐらい部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、ぼくははじめ地震だと思ったのですね。それで真っ暗な中を這うようにして行って、ドアを開けて廊下に出たら、ピタッと静まるんです。何が起こったのかぜんぜんわからなかったですよ。これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットしているから起こったと思ったのですね。・・」

ここいらの箇所は、伊藤桂一著「静かなノモンハン」(講談社文庫・文庫の最後には司馬さんとの対談が掲載されておりまして、こちらも参考になります)の「背囊が呼ぶ 鳥居少尉の場合」などを、すぐに私は思い浮かべたりしました。それは、とりあえずここと読み比べてもらえばよいので次に行きます。

【村上】ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが・・・・。
【河合】それは小説を書いておられるからですよ。谷川俊太郎さんも言っておられました。ほとんど見ないって。そりゃあたりまえだ、あなた詩を書いているもんって、ぼくは言ったんです。


ここに谷川俊太郎の名前が出てきたので、そういえば谷川俊太郎の最初の詩集「二十億光年の孤独」というのを思い浮かべたのでした。その題名にもなった詩「二十億光年の孤独」には有名な箇所「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」という2行がありました。河合隼雄と村上春樹の、二人の対談を読んでいると、まるでこの2行が、この対談のためにとっておかれたようだと、思い浮かんだ私でした。ちなみにこの詩の最後の2行はというと「二十億年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」とありました。それでですね。この詩集には「はるかな国から――序にかへて」として三好達治が書いております。

ここで
三好達治は明治33年(1900)生まれ。
伊藤桂一は大正6年(1917)生まれ。
司馬遼太郎は大正12年(1923)生まれ。
河合隼雄は昭和3年(1928)生まれ。
谷川俊太郎は昭和6年(1931)生まれ。
村上春樹は昭和24年(1949)生まれ。

昨日の続きでいえば、水木しげるの世代が夢を見る世代だったのに、
だんだんと、こちら谷川から村上になると、どうやら夢を見ないのでした。
ちょうど1930年が区切りなのでしょうか。飯島耕一(1930年生まれ)に「ゴヤのファースト・ネームは」という詩があります。そこにこんな5行があります。

   夢がほしい
   などとおろかなことを言うな。
   夢から逃れることに
   日夜 辛苦している心が
   いくつもあるのだから。

谷川の詩集のはじめに三好達治の「序にかへて」があり、その驚きの様子が、よく現われているような気がします。
序にかへては

  この若者は
  意外に遠くからやつてきた

とはじまっていました。ここでは
真ん中をとばして、最後を引用しておきましょう。

  若者らしく哀切に
  悲哀に於て快活に
  ――げに快活に思ひあまつた嘆息に
  ときに嚔(くさめ)を放つのだこの若者は 
  ああこの若者は
  冬のさなかに永らく待たれたものとして
  突忽とはるかな国からやつてきた


どうやら、ここに、新しく戦場の夢を見ない世代があらわれたのだと、
三好達治は思ったのかもしれませんね。私はそう読むのでした。
そして、その夢に今度は村上春樹が触れたかどうか?
これは、村上春樹の愛読者にお聞きしたいのでした。


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それがねえ。

2007-11-05 | Weblog
本をひらくと、釣りをしているような気分になることがあります。言葉の波間に、釣り糸を投げ込む。この本には大切な物がゆうゆうと泳いでいそうだとか、この本の、あの箇所に隠れていそうだとか。手応えは十分あったのだけれど、残念、釣り逃がしてしまったとか。あの箇所に出かければ、また釣れるのじゃないかとか。
こうして、ブログを書き出してから、そんなことをとりとめもなく思うのでした。けれども、この海には思いもしなかった怖さがひそんでいる。


城山三郎・高山文彦著「日本人への遺言」(講談社)に

【高山】『指揮官たちの特攻』を読むと・・特攻隊員の人たちが乗り移ったような言葉が随所にあって、城山さんが沖縄を訪ねるところもそうですよね。あれは船に乗って行かれたんでしたっけ。
【城山】彼ら特攻隊員たちが海坊主になって浮かんでくるような感じがしてね。
【高山】「いつまでも成仏できず漂う男たちののっぺらぼうの黒い顔であった」と書いておられる。
【城山】・・・本当にそういうものが見えてくる感じだったから。
【高山】今も心に鮮やかに残っているのは、津久見の中津留達雄大尉のお父様が急勾配の山道の先に作られた蜜柑畑に、城山さんご自身が登られるシーン。・・・・
【城山】・・・許されるなら、中津留大尉のお母さんが月のある夜に浜辺に行って、あの子は泳ぎが達者だから戻ってくるんじゃないかと願っておられた、それと同じことをしてみたかったね。月の明るい夜、お母さん、どこに立っていたんですかって。そこにたってみてね。どんな気持ちで戻ってくるはずのない子供のことを思っていたのか、話を聞いているうちにだんだんそうしたくなってくるんだよ、こっちも。

                 (p161~162)

城山三郎氏は昭和2年(1927)生まれ。
井上靖氏は、明治40年(1907)生まれ。
井上靖の詩集「北国」は1958年でした。
そのなかに詩「友」があるのでした。

    どうしてこんな解りきったことが
    いままで思いつかなかったろう。
    敗戦の祖国へ
    君にはほかにどんな帰り方もなかったのだ。
    ――海峡の底を歩いて帰る以外。


これが、詩「友」の全文。
今年は、NHKスペシャルドラマ「鬼太郎が見た玉砕」が8月にありました。
水木しげる氏の文「ビンタ――私の戦争体験――」の最後の方を、ここにも引用しておきます。

「幸運な者だけが生き残ったというべきだろうか、僕は今でもよく戦死した戦友の夢をみる。最近は毎日のように見る。また一生の間で一番神経を使ったし、一番エネルギーを出したせいか、毎日のようにみるから不思議だ。それでまた細かいことまでよく覚えており、毎日それこそ映画でもみるような気持ちだが、どういうわけか、いつも最後は《戦死》したものの顔がうかび・・・・、いやそれが長く、毎日のようにつづくので、彼等は会いにくるのだろうと勝手に考えている・・・・」

水木しげる氏は大正11年(1922)生まれ。
詩人石垣りんは大正9年(1920)生まれ。
石垣りんには詩「崖」がありました。


   戦争の終り、
   サイパン島の崖の上から
   次々に身を投げた女たち。

   美徳やら義理やら体裁やら
   何やら。
   火だの男だのに追いつめられて。

   とばなければならないからとびこんだ。
   ゆき場のないゆき場。
   (崖はいつも女をまっさかさまにする)
   
   それがねえ
   まだ一人も海にとどかないのだ。
   十五年もたつというのに
   どうしたんだろう。
   あの、
   女。

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ランナー村上春樹。

2007-11-03 | Weblog
村上春樹著「走ることについて語るときに僕の語ること」(文藝春秋)を読みました。
村上春樹氏はけっして早いマラソンランナーではないようです。
その人が走ることを書く。
水泳のコーチを頼む際に、こんな箇所があります。
「世の中にうまく泳げる人は数多くいるが、泳ぎ方を要領よく教授できる人はあまりいない。それが僕の実感だった。小説の書き方を教えるのもむずかしいが(少なくとも僕にはできそうにない)、泳ぎ方を教えるのもそれに劣らずむずかしそうだ。いや、何も水泳や小説に限ったことではない。」(p216)

たとえば、サロマ湖100キロウルトラマラソンに参加した村上氏は、途中で奥さんにどう答えたか。
「55キロの休憩地点・・・ここでだいたい十分ぐらい休憩していたが、そのあいだ一度も腰を下ろさなかった。いったん座り込んだら、もう一度立ち上がって走り始めることがむずかしくなるんじゃないかという気がした。だから用心して座らなかった。『大丈夫?』ときかれる。『大丈夫だよ』と僕は簡潔に答える。それ以外に答えようがない。」(p147~148)

そして、こんな箇所。

「しかし何はともあれ走り続ける。日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その『ほんの少しの理由』をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。」(p102~103)

こうした『大型トラック』が、前方に立ちふさがるのを、ちょうど魚が水中で障害物をスイスイとよけてゆくように、この200数十㌻の本の中で、村上春樹氏はランナーの心得をすいすいと描いてゆくのでした。そして、どうやら大型トラックいっぱいぶんの『理由』が、荷崩れすることなく、無事に走り終える。そんな爽快感を、読者もいっしょに味わうことになるのでした。
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雨が降り。

2007-11-02 | Weblog
今日は一日雨。シトシト降りつづき。ポタポタと降り止むかと思うまもなく、シトシトと続きます。ということで雨の話。

ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)に戦時中の海軍語学校の様子が出てきます。「毎週火曜日だったと思うが、私たちは日本映画を観た。開戦時にカリフォルニアに来ていたのを押収したものだろう、字幕もなく、時代物も現代物もあったが、俳優では田中絹代や佐分利信が記憶に残っている。」
「映画も、何度も同じものを観ているうちにわかり始めた。もちろん、第三者として日本語の会話を聞いているのだから、妙なところが気になった。ふつうならハイと言うところを、佐分利信はよく『ええ』と言うのに気がつき、ハイとハァとええの差を考えたりもした。日本人なら気にもとめないはずだが、私たちは日本語という未知の世界に、少しでも手がかりを求めていたのである。橋は劇的で、雨は長いと、相場が決まっていた。映画に橋の場面が出てくると、必ず恋人が出逢ったり別れたりする。しまいには、橋を見た瞬間に『あ、これからなにかあるぞ』と、身構えるようにさえなった。また、日本のカメラマンは長々と雨のシーンを写した。しとしとと雨が降り、水たまりが出来、さらにそこへ雨が降り込む。日本人が雨に万斛(ばんこく)の思い入れをするのが、よくわかった。・・・教室では呑み込めない日本人の生活感覚や芸術観を、映画でつかんだのである。」(p31~33)

さてっと、じつは村上春樹の新刊「走ることについて語るときに僕の語ること」(文藝春秋)が気になっていて、小説など読んだこともないのですが、注文しました(まだ本はきませんけれどね)。私は小説は駄目なのですが、対談とかは好き。気楽に、そばで話を聞いているような気分で読めるのがなにより。たとえば、落語で観客席と別れて聞くというのとは違って、まるで一緒のテーブルで話を聞きながら食事でもしているような気分になれるのがいいですね。そんな対談集でも、あとで読み直そうと思いながら、ついついそのままになってしまっている本があるものです。そのなかに河合隼雄・村上春樹対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(岩波書店1996年)というのがありました。そこに村上氏のこんなお喋りなどあります。
「小説を書き始めるまでは、自分の体にそんなに興味を持っていなかったのです。ところが、小説を書いていると、自分の身体的なもの、あるいは生理的なものにものすごく興味を持つようになって、体を動かすようになりました。」(p97)

まあ、こんな風に新刊が来るまでの間に、この対談をパラパラと読み直そうと思ったわけです。すると雨が出てくる。
それは河合氏のお喋りでした。

「極端に言うと、治療者として人に会うときは、その人に会うときに雨が降っているか?偶然、風が吹いたか?とかいうようなことも全部考慮に入れます。要するに、ふつうの常識だけで考えて治る人はぼくのところへ来られないのですよ。だから、こちらもそういうすべてのことに心を開いていないとだめで、・・・・」(p158)


ところで、もう外は暗くなり、雨はポッリポッリと降っております。
新刊はいつ頃届くかなあ。

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ゴルフとかは。

2007-11-01 | Weblog
守屋武昌・前防衛次官に対する証人喚問の詳報を読みました(読売新聞2007年10月30日)。いろいろな見方があるでしょうが、私には肉声が聞けて何か安心感がありました。それについて語ってみたと思います。

養老孟司著「こまった人」(中公新書)に「参拝問題」と題した小文があります。
そこで養老さんがこんなことを指摘しておりました。

「医者を強く告発する人間が医者になったら、はたしていい医者になるか。私はそれを信じない。根本的には、必要なときに他を信じない人間に、生産的なことができるはずがないと思うからである。小泉首相はべつに『特別な人』ではない。『ただの人』である。ただの人が首相という特別な地位に置かれたとき、どう行動するか。そろそろそれを、民主主義国家である以上は、一般市民も『身につまされて』考えるべきであろう。あなただって、首相になるかもしれないですからね。記事を書いたり報道したりする人たちは、その意味ではしばしば他に対する責任を感じないで済む人たちである。『俺はそこまで偉くない』と、自分で思っているからであろう。メディアの根本にあるのは、そのことだと思う。その文脈でなら、メディアの報道より靖国に参拝する小泉のほうを私は信用する。少なくとも『国民のために犠牲になった』人たちに対する小泉個人の思いが、そこには素直に見える。・・」(p73~74)

守屋前防衛次官が「どう行動するか」。証人喚問で、その肉声に私はほっとしたのです。ここにはとても崇高さはないけども、「率直に見え」たのです。たとえば、

「倫理規程があるのはよく承知していた。ただ、私のポストが上がるにつれ、昼の仕事のストレスがたまり、週末にストレスを解消したいという思いがあった。仲間や部下を連れて行くと気を使うので、長年の友達関係だった宮崎氏を頼ってしまった。私が人間として甘かった。やってはならないことをしてしまった。」

これは、ゴルフ接待について語っているのでしょう。
うん。これならわかる。善悪は置いといて、これなら私にも理解できそうです。
こんな答弁もありました。

「ゴルフ場の正規料金は承知していない。(宮崎氏から)『我々社員は1万円で(プレーを)できるから、1万円でいい』と言われた。ただ、その料金では普通の人はできないわけで、不適切であり、配慮に欠いた行為だった。」

私は自分がゴルフなどはやったこともない類いの人間なものでして、
ただ、ストレスとゴルフということでは、
最近読んだ本のことが思い浮かんだのでした。
城山三郎・高山文彦対談「日本人への遺言」(講談社)。
そこで、夢の話があるのですが、私は印象に残っていたのです。

【城山】まあでも、『落日燃ゆ』にしても『指揮官たちの特攻』にしてもどっちも書くのはつらかったね。よく夢を見たし。そういう意味では、今はハッピーですよ(笑)。ハッピーっていうと変だけど、夢を見ないで済む。書いている最中はよく夢にうなされてね。
・・・・・・
逆に言えば、そのテーマを夢に見るほど考えこまなくてはいけないということだね。
【高山】そこまで考えているから、なかなか眠れないんでしょうね、床に入っても頭が冴えて。
・・・不眠症になったのはいつ頃からですか。
【城山】やっぱり作家になってからだね。学生時代にヒロポンをやっていたせいもあるかもしれないけど、今度は睡眠薬をいくら飲んでも寝られなくなった。3種類くらい飲んでも効かないし、それをアルコールと一緒に飲むからだんだんおかしくなって。薬が変に効いたのか、やたらと高いところへ登るわけよ。ベッドの上やタンスの上へ上がったり、しまいには鴨居でこんなふうにぶら下がっている。もう家内が恐慌状態になっちゃって。で、国立第一病院に入院させられたわけ。・・・身体がこう軽くなって軽くなって、テーブルの上に上がったり、鴨居と柱にこうして蜘蛛みたいにぶら下がったり(笑)。・・・
【高山】それで病院の先生に、適度の運動が必要だからゴルフを勧められたわけですか。
【城山】・・・名医だったね。『あなたの身体は眠るという機能をすっかり忘れている』と。だから週に一回、ゴルフとは言わなかったけど、外に出る遊びを作りなさいと言われてね。『外に出て運動する日を作りなさい。そうすれば身体が疲れて、その晩は眠れる。そうすると身体は眠るという機能を思い出す。その機能は1週間続く。でも、1週間経ったら身体は忘れるから、週一回は必ずやりなさい』と言うんだ。そしたら、ゴルフしかないじゃない。で、薬も何も飲まないで週に一回ゴルフを始めたら、1週間眠れた。だから1週間に一回必ずゴルフをした。それまでさんざんゴルフの悪口を言っていたのに、しょうがないね。でもあれは名医だよ。普通は薬を出したがるでしょ。あのとき彼にそう言われなかったら、今頃生きていないんじゃない?いつか鴨居から落っこちたりしてさ(笑)。
                  p144~p154


なぜこんなことを書いているかといいますと、
守屋氏の証人喚問のなかで、宮崎氏の名前が出てきた。
週刊新潮11月1日号に、その宮崎元伸氏の特別手記を読んでいたからでした。

それにしても、たとえば閣僚の自殺があったりなどすると、
城山さんの「今頃生きていないんじゃない?」が
リアルに伝わってくるじゃありませんか?
養老さんの言うところの
「他に対する責任を感じないで済む人たちである」マスコミの喧騒のなかで、
こうして「ただの人」の肉声を聞けると、ようやく考える端緒をつかんだようで、
私などほっとするのでした。
たとえ、結論には、いつたどり着けるかわからなくとも、
ここから、考えをはじめれば、よいのだなという出発点を確認できたような。
そんな安堵感を持ちます。



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