文藝春秋2007年12月号。
「沖縄集団自決 母は見た」と題した文が掲載されています。
佐藤優氏が母・佐藤安枝さんに話を聞いて書かれているのでした。
現在進行中の沖縄集団自決訴訟などを思うにつけ、印象深いこの佐藤氏の文を、読むことをお薦めいたします。
はじまりは
「私は埼玉県大宮市(現さいたま市)の団地で育った。子供時代から、母に童話を読んでもらったり、昔話について聞くのが何よりの私の楽しみだった。母の昔話のほとんどが、故郷の久米島や琉球王朝府に伝わる物語だった。・・・・六月の梅雨の頃になると、『沖縄の雨は、内地では想像できない。激しい雨の中で、お母さんは逃げて、逃げて、逃げ回った』と母は必ず沖縄戦の話をした。そこで聞いた、母の沖縄戦記で出てくる、ぎりぎりの状況で母の命を救ってくれた日本兵に対して、私はいつしか強い親しみを抱くようになった。それと同時に、母は実はあの戦争で、死んだ姉や、軍人たちと一緒に死にたかったんだという印象を強くもち、母が私の前から消えてしまうのではないかという恐怖を抱くようになった。それは、母の沖縄戦記が、最後は、『こうして生きているのが、戦争で死んでしまった人たちに申し訳ない』と言って、うつろな目で中空を見あげ、その後、私を睨んで、『あんたが悪いことをしたら、あのとき手榴弾を破裂させたんだと思って、お前を殺して、私も死ぬ』と言う脅しで終わるからだ。・・・・」
この佐藤安枝さんは1930(昭和5)年生まれだとあります。
曽野綾子さんは1931年生まれでした。
その曽野さんは産経新聞10月23日「正論」欄(シリーズ:「集団自決と検定」)で、こうしめくくっておりました。
「戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子行員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。政治家も教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。」
ちょいと話がそれますが、大本営発表という言葉を、11月9日の産経新聞に見つけました。それも引用したくなります。
「沖縄県宜野湾市で9月に開かれた沖縄戦の集団自決をめぐる県民大会の参加者数について、誇大な『11万人説』が独り歩きしている問題を憂慮する学者や評論家、法曹関係者らが『マスコミの誤報を正す会』を結成。・・・代表は外交評論家の加瀬英明氏で、メンバーは藤岡信勝拓殖大教授、ジャーナリストの西村幸祐氏ら16人。加瀬氏は【11万人という誇大報道は、先の大戦で大本営発表をうのみにしたのと同じ】と指摘した。会見では、東京の警備会社が航空写真をもとに数えたところ、参加者の実際には1万8179人で、木陰などで写真に写らなかった人を合わせても2万人以内と報告。与野党の政治家が教科書検定制度に介入しようとしている現状について『誤解に基づいて教育政策が左右される重大な事態に至っている』と批判する会の声明を発表した。・・」
現代にも大本営発表を、そのままにうのみにして訂正もせずに、恥じない新聞が存在する。そのことを、私たちはきちんと自覚する心構えが必要でありますね。
もう一度、文藝春秋の佐藤氏の文にもどります。
佐藤安枝さんは、文藝春秋9月号の特集「父と母の戦争」に、
「佐藤優の母 十四歳の沖縄戦」という手記を掲載しておりました。
この12月号では、その手記をもとにして優氏が母親に確認しながら尋ねる形の対談がメインになっております。そこから一部引用してみます。
「【・・・この頃、旅団に属する軍人軍属全員に自決用手榴弾が配られ、不発弾だった時のために予備の分も入れて二個ずつ配りながら下士官は『捕虜にだけはなるな。二個とも不発だったら舌をかんででも死ぬ覚悟で』と言いました。でも兵隊の中には『米軍は女子供には酷い扱いはしないから自決しちゃ駄目だよ』とこっそり教えてくれる方もいました。しかし十月十日の那覇の大空襲にしろ住民など無差別に百キロ爆弾を落とす米軍機を見ているので、それを信じる心境になれません。】(手記)
・・・・・・・・
【安枝】そう。結局ね、捕虜になったら、『捕虜の辱めを受けるな』というような全体的な教育だったでしょう。それと、女子の場合は特にひどい仕打ちを受けるからね。それこそ耳を切ったり、鼻を切ったり、ひどい目に遭うから、そういう目に遭わないためには自分で死んだほうが一番いいでしょう、ということで・・・。なーんか疑心暗鬼になってね。そのときは、敵というとほんとに殺しても当たり前だ、というような感覚でしょう。だから、相手もそう思っているだろう、というふうに見えるんです。」(p132)
防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1968年)からの数字も引用されておりました。それによると
「1944(昭和19)年10月10日、
米航空母艦から出撃した延べ900機が五次に渡り、
沖縄本島を攻撃し、
軍人の戦死者219名・負傷者243名、
民間人の死者330名・負傷者455名を出した。
安枝はこの空襲に遭遇した。」(p124)
ここで、私が取り上げたいのは、
「女子の場合は特にひどい仕打ちを受けるからね。それこそ耳を切ったり、鼻を切ったり、ひとい目に遭うから・・・」と語っておられる安枝さんの語りです。
そして兵隊の中に「米軍は女子供には酷い扱いはしないから自決しちゃ駄目だよ」と教える人がいたことです。この兵隊は『米軍』とわざわざ断っているのでした。これは米軍以前には、そんなことがおこなわれていたという【空気】が自然に醸成されていたと思われるのです。その【空気】の根拠は、どこにあったかという疑問が浮かぶのです。
このヒントになるのが雑誌「WILL」12月号に掲載されている皆本義博氏の語りでした。そこで語られる「渡嘉敷島にいる集団自決で生き残った金城武徳さん」がおり、金城武徳さんの証言を交えながらこう語られております。
「・・・敵にひどい目に遭わされるくらいなら早く死んだほうがいいという・・・
当時住民の間では、中国大陸の尼港事件や通州事件など、民間の日本人が多数虐殺された事件が印象として残っていたから、教訓に近いものがあった、といったほうがよいでしょう。・・」(p81)
ここに登場する通州事件について、確認しておきたいのです。
今度10年ぶりに改定版が出るという広辞苑にも、載らない事件なのですが、戦争中の民間人には鮮明な記憶として語られた事件でした。
通州事件は1937年7月29日です。
10月10日の那覇大空襲は1944年ですから、
那覇の大空襲の7年前に通州事件がありました。
ちなみに、通州事件という本は現在購入できません。
簡単には、ネットで読むしか知りえない事件になっております。
ネット上で、確認していただければ、その具体的な様子がわかるでしょう。
ここでは、渡部昇一氏の文を再度引用することにします。
「盧溝橋事件が起こるとすぐに停戦を指示し、現地では停戦協定ができている、ところが、いまでは共産党の策謀だったことがはっきりしているが、停戦が成ったのに別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてきて衝突が起こる。それが収まり、ふたたび停戦の協定ができると、また別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてくる。そしてついに、日本人居留民二百人がシナ兵によって殺害される通州事件が起こり、日本は引くに引けなくなっていった・・」(「時流を読む眼力」p183)
「ご存じない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから一週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、全身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです」(「広辞苑の嘘」p186)
「岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。まだまだシナ絡みでの広辞苑の大嘘があります。・・・・」(p187)
ちなみに、この「広辞苑の嘘」が出版されたのが2001年でした。
来年早々に「広辞苑」の改定版が10年ぶりにでるそうですが、
大江健三郎著「沖縄ノート」をまだ訂正もせずに販売している出版社ですから、
広辞苑の歴史記述も相変わらず通州事件は載せずじまいで、
相変わらず信奉する岩波の史観を踏襲しているよ(きっとね)。
広辞苑で、新しい収録語をひくなら楽しみでしょうが、
「いいとこどり」した「うざい」「自己中」の歴史観だけには、
惑わされないようくれぐれも気をつけましょう。
「広辞苑の嘘」の「結びにかえて」で渡部昇一氏は
「人は自分の引く辞書を信頼する。
辞書には誤植や誤記はないはずだ、という先入観が一般にある、
と言ってもよいであろう。そこにつけ入るとは、
何たる悪辣(あくらつ)な所行(しょぎょう)であろうか。」(p281)
と書いておりました。
この渡部昇一氏の、毅然とした物言いに拍手。
ということで、広辞苑の隠された歴史観に染まる愚を避けられるならば、
空気のほうが、丁寧に理解したぶんの豊かな手応えを読み取れるのです。
「沖縄集団自決 母は見た」と題した文が掲載されています。
佐藤優氏が母・佐藤安枝さんに話を聞いて書かれているのでした。
現在進行中の沖縄集団自決訴訟などを思うにつけ、印象深いこの佐藤氏の文を、読むことをお薦めいたします。
はじまりは
「私は埼玉県大宮市(現さいたま市)の団地で育った。子供時代から、母に童話を読んでもらったり、昔話について聞くのが何よりの私の楽しみだった。母の昔話のほとんどが、故郷の久米島や琉球王朝府に伝わる物語だった。・・・・六月の梅雨の頃になると、『沖縄の雨は、内地では想像できない。激しい雨の中で、お母さんは逃げて、逃げて、逃げ回った』と母は必ず沖縄戦の話をした。そこで聞いた、母の沖縄戦記で出てくる、ぎりぎりの状況で母の命を救ってくれた日本兵に対して、私はいつしか強い親しみを抱くようになった。それと同時に、母は実はあの戦争で、死んだ姉や、軍人たちと一緒に死にたかったんだという印象を強くもち、母が私の前から消えてしまうのではないかという恐怖を抱くようになった。それは、母の沖縄戦記が、最後は、『こうして生きているのが、戦争で死んでしまった人たちに申し訳ない』と言って、うつろな目で中空を見あげ、その後、私を睨んで、『あんたが悪いことをしたら、あのとき手榴弾を破裂させたんだと思って、お前を殺して、私も死ぬ』と言う脅しで終わるからだ。・・・・」
この佐藤安枝さんは1930(昭和5)年生まれだとあります。
曽野綾子さんは1931年生まれでした。
その曽野さんは産経新聞10月23日「正論」欄(シリーズ:「集団自決と検定」)で、こうしめくくっておりました。
「戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子行員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。政治家も教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。」
ちょいと話がそれますが、大本営発表という言葉を、11月9日の産経新聞に見つけました。それも引用したくなります。
「沖縄県宜野湾市で9月に開かれた沖縄戦の集団自決をめぐる県民大会の参加者数について、誇大な『11万人説』が独り歩きしている問題を憂慮する学者や評論家、法曹関係者らが『マスコミの誤報を正す会』を結成。・・・代表は外交評論家の加瀬英明氏で、メンバーは藤岡信勝拓殖大教授、ジャーナリストの西村幸祐氏ら16人。加瀬氏は【11万人という誇大報道は、先の大戦で大本営発表をうのみにしたのと同じ】と指摘した。会見では、東京の警備会社が航空写真をもとに数えたところ、参加者の実際には1万8179人で、木陰などで写真に写らなかった人を合わせても2万人以内と報告。与野党の政治家が教科書検定制度に介入しようとしている現状について『誤解に基づいて教育政策が左右される重大な事態に至っている』と批判する会の声明を発表した。・・」
現代にも大本営発表を、そのままにうのみにして訂正もせずに、恥じない新聞が存在する。そのことを、私たちはきちんと自覚する心構えが必要でありますね。
もう一度、文藝春秋の佐藤氏の文にもどります。
佐藤安枝さんは、文藝春秋9月号の特集「父と母の戦争」に、
「佐藤優の母 十四歳の沖縄戦」という手記を掲載しておりました。
この12月号では、その手記をもとにして優氏が母親に確認しながら尋ねる形の対談がメインになっております。そこから一部引用してみます。
「【・・・この頃、旅団に属する軍人軍属全員に自決用手榴弾が配られ、不発弾だった時のために予備の分も入れて二個ずつ配りながら下士官は『捕虜にだけはなるな。二個とも不発だったら舌をかんででも死ぬ覚悟で』と言いました。でも兵隊の中には『米軍は女子供には酷い扱いはしないから自決しちゃ駄目だよ』とこっそり教えてくれる方もいました。しかし十月十日の那覇の大空襲にしろ住民など無差別に百キロ爆弾を落とす米軍機を見ているので、それを信じる心境になれません。】(手記)
・・・・・・・・
【安枝】そう。結局ね、捕虜になったら、『捕虜の辱めを受けるな』というような全体的な教育だったでしょう。それと、女子の場合は特にひどい仕打ちを受けるからね。それこそ耳を切ったり、鼻を切ったり、ひどい目に遭うから、そういう目に遭わないためには自分で死んだほうが一番いいでしょう、ということで・・・。なーんか疑心暗鬼になってね。そのときは、敵というとほんとに殺しても当たり前だ、というような感覚でしょう。だから、相手もそう思っているだろう、というふうに見えるんです。」(p132)
防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1968年)からの数字も引用されておりました。それによると
「1944(昭和19)年10月10日、
米航空母艦から出撃した延べ900機が五次に渡り、
沖縄本島を攻撃し、
軍人の戦死者219名・負傷者243名、
民間人の死者330名・負傷者455名を出した。
安枝はこの空襲に遭遇した。」(p124)
ここで、私が取り上げたいのは、
「女子の場合は特にひどい仕打ちを受けるからね。それこそ耳を切ったり、鼻を切ったり、ひとい目に遭うから・・・」と語っておられる安枝さんの語りです。
そして兵隊の中に「米軍は女子供には酷い扱いはしないから自決しちゃ駄目だよ」と教える人がいたことです。この兵隊は『米軍』とわざわざ断っているのでした。これは米軍以前には、そんなことがおこなわれていたという【空気】が自然に醸成されていたと思われるのです。その【空気】の根拠は、どこにあったかという疑問が浮かぶのです。
このヒントになるのが雑誌「WILL」12月号に掲載されている皆本義博氏の語りでした。そこで語られる「渡嘉敷島にいる集団自決で生き残った金城武徳さん」がおり、金城武徳さんの証言を交えながらこう語られております。
「・・・敵にひどい目に遭わされるくらいなら早く死んだほうがいいという・・・
当時住民の間では、中国大陸の尼港事件や通州事件など、民間の日本人が多数虐殺された事件が印象として残っていたから、教訓に近いものがあった、といったほうがよいでしょう。・・」(p81)
ここに登場する通州事件について、確認しておきたいのです。
今度10年ぶりに改定版が出るという広辞苑にも、載らない事件なのですが、戦争中の民間人には鮮明な記憶として語られた事件でした。
通州事件は1937年7月29日です。
10月10日の那覇大空襲は1944年ですから、
那覇の大空襲の7年前に通州事件がありました。
ちなみに、通州事件という本は現在購入できません。
簡単には、ネットで読むしか知りえない事件になっております。
ネット上で、確認していただければ、その具体的な様子がわかるでしょう。
ここでは、渡部昇一氏の文を再度引用することにします。
「盧溝橋事件が起こるとすぐに停戦を指示し、現地では停戦協定ができている、ところが、いまでは共産党の策謀だったことがはっきりしているが、停戦が成ったのに別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてきて衝突が起こる。それが収まり、ふたたび停戦の協定ができると、また別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてくる。そしてついに、日本人居留民二百人がシナ兵によって殺害される通州事件が起こり、日本は引くに引けなくなっていった・・」(「時流を読む眼力」p183)
「ご存じない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから一週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、全身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです」(「広辞苑の嘘」p186)
「岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。まだまだシナ絡みでの広辞苑の大嘘があります。・・・・」(p187)
ちなみに、この「広辞苑の嘘」が出版されたのが2001年でした。
来年早々に「広辞苑」の改定版が10年ぶりにでるそうですが、
大江健三郎著「沖縄ノート」をまだ訂正もせずに販売している出版社ですから、
広辞苑の歴史記述も相変わらず通州事件は載せずじまいで、
相変わらず信奉する岩波の史観を踏襲しているよ(きっとね)。
広辞苑で、新しい収録語をひくなら楽しみでしょうが、
「いいとこどり」した「うざい」「自己中」の歴史観だけには、
惑わされないようくれぐれも気をつけましょう。
「広辞苑の嘘」の「結びにかえて」で渡部昇一氏は
「人は自分の引く辞書を信頼する。
辞書には誤植や誤記はないはずだ、という先入観が一般にある、
と言ってもよいであろう。そこにつけ入るとは、
何たる悪辣(あくらつ)な所行(しょぎょう)であろうか。」(p281)
と書いておりました。
この渡部昇一氏の、毅然とした物言いに拍手。
ということで、広辞苑の隠された歴史観に染まる愚を避けられるならば、
空気のほうが、丁寧に理解したぶんの豊かな手応えを読み取れるのです。