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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

庭前の柿。

2007-12-16 | Weblog
庭でなった柿をもらって、積んでおいたのを食べおわった日に、また、柿をもらいました。こちらは、もらい物のおすそ分け、きれいで、市販の柿みたいです。
こりゃ、柿を食べながら、柿の話をつづけるようにという、お告げ(笑)。

現代詩文庫(思潮社)の小池昌代詩集に「柿のある厨房」という散文が載っております。はじまりは「ある日、ひとから柿をもらった。そのひとの庭になったものだという。・・・翌日、また、別のひとから柿をもらった。今度は四角くてとてもりっぱ。実に坐りのいい柿である。『いま、柿が、おいしい』とそのひとは言い・・・去っていった。『いま、この詩集が面白い』というように。・・・」

話はかわりますが、
富士正晴著「高浜虚子」(角川書店・古本)に、
高浜虚子著「柿二つ」についての内容紹介の文が載っております。
「『柿二つ』は戦争末期の堺三国丘時代の伊東静雄が大変ほめていた記憶がある。・・・子規の後継者になれという願いを冷淡に振り切ってしまう虚子という人間のすごさをほめたのであった。これもその話は印象に残ったが、『柿二つ』をさがして読もうという気は起こさなかった。・・」。
まあ、こんな風に富士正晴は書きながら、「柿二つ」の内容を丁寧に追いかけておりました。その印象が残っていたこともあって、よい機会なので、今年もらった柿を食べながら、「柿二つ」を読んだのでした。序にはこうあります。
「此『柿二つ』は正しく居士を書かうと思つて書いたもので、少しも虚構を加へずに事実其儘を写生したものである。が、其かと言つて、此一篇は子規居士を伝(でん)したものといふ事は出来ぬ。居士の言行は如何なる些細な事でも事実に相違せぬやうつとめたのであるけれども、しかも心理上の事は悉く私の想像になつたものである。其点からいふと矢張り小説であつて伝記といふ事は出来ぬ。子規居士を描いたといふ言葉さへ不穏当であつて、矢張りSといふ一個の人を描いた小説と言はねばならぬのである。」

こうした内容なので、昔の柿みたいに、芯が渋かったり、固かったりという読み応えがありました。最初、いや半ば頃まで、私には読みにくさがつきまといました。けれども読めてよかった。という歯ごたえ(手ごたえ)がありました(これも今年の柿のオカゲだなあ)。


題名の「柿二つ」の意味はというと、最初にもう種あかしされております。
そこを引用してみたいと思います。

「此柿は京都伏見の桃山に庵を結んでゐる愚庵といふ禅僧から贈ってきた釣鐘という珍しい名の柿であった。・・・・互に推重(すいじゅう)して何かにつけて贈答を怠らなかったのであった。今度の柿は桃山の草庵に禅師を訪ねた人が其庭前の柿を託されて遥々と携へ帰って病床にもたらしたものであった。其れは昨日の事であった。其人がまだ枕頭に在る間に彼(注;子規)はもう辛抱が出来なくなって其柿を三つ続け様に食った。其人が帰って後も夜寝る迄に十ばかりを平げた。今夜枕頭に運ばれたものは其残りの唯の二つであった。・・・・・・
   三千の俳句を閲し柿二つ
博文館発行の当用日記に彼は毎日の出来事を句にして十句宛書くことを日課にしてゐた。明日になって今日の部を認める時に忘れぬように此句を加へねばならぬと思った。」
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後悔と語り。

2007-12-15 | Weblog
朝日新聞2007年11月1日の文化欄にドナルド・キーン氏(1922年生まれ)の文が掲載されておりました。
題して「遠慮の名人 私の後悔」。
「後悔することは大体、何のためにもならないが、50年を超える日本での生活を振り返れば、やはり後悔がないとは言えない。」こうはじまっておりました。

掲載されている文には、富本憲吉・川端康成・吉田健一・谷崎潤一郎という名前が順にあげられてゆくのですが、日本のお年よりなら、80歳をとうにすぎた人の自慢話にでもなる題材なのです。それを、そんなことはちっとも感じさせずに語る。まるでそのために「後悔」を素材としてもってきたかのような(私など、この文をよんでから、何日かして今頃になって思い至るのでした)。見事な「後悔」の手綱捌きなのでした。

最初の後悔はというと

「留学生として京都に住んでいた頃、骨董品はまだ安かった。お金がなかった私は、自分は学者だから骨董品はいらないと思い、専ら古本を買っていた。掘り出し物もあったが、当時の粗末な紙のせいで、今では粉になって読めない本が多い。また、50年の間にはもっと優れた研究が発表され、古本を参考にすることもなくなった。代わりに美しい骨董品を買っていれば、今でも喜びがあったはずだ。古本を選んだことは間違っていたかもしれない。」

こうして、後悔からはじめることで、見事に自慢話から逃れて、読むものをフムフムと頷かせてゆきます。
つぎは富本憲吉氏が、自分の作品の陶器を下さると電話してきた時のこと。
「だが、日本人より日本人らしく振る舞う決意を固めていた私は、遠慮のそぶりを見せようと、『いえ、先生のお言葉だけで充分です』と断ってしまった。以来、ずっと後悔している。」
こうして、川端康成・吉田健一と続くのです。
そして、こう続けるのでした。
「私がこれらの失敗から学んだ点は尊敬する人が物をくださる好意を示す場合、躊躇しないで頭をさげて、『ありがとうございます』と言うことだ。断れば相手はがっかりし、自分も後々、後悔するだろう。」

こうして、書き写していると、なんだか、いつも躊躇ばかりの平凡な私にでも、言って下さっているような気になってきました。


それから、谷崎潤一郎氏の奥様の小舞を、お宅で拝見したことを、さりげなく、最後にもってきて、後悔しなかった例としてあげておりました。
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次元の違う問題。

2007-12-14 | Weblog
このブログを始めていて、面白いと思ったのですが、何か書けそうな気分になる時に、きまって書き込みを忘れているのでした(笑)。ちょっとした、まとまった筋の通ったことを書き込めそうだなあ。などと思った時が、まずたいてい書き込みを忘れる。なんだか中途半端なので、もうすこしあれこれ思って、などという欲張った考えがもたげてくると、その日、書きこめずに終わる。うん。この書き込み妨害の法則を何とかクリアしなければ。スムーズなブログ書き込みは望めないなあ。

暮れなので、すこし本の整理と思っていたら、こんな本が出てきました。板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所・新書サイズ)。そこに2ページほどの「文章のスランプ克服法」(p109)なる箇所がありまして、板坂氏は、川島武宜著「ある法学者の軌跡」と林語堂著「作文上達の六秘訣」を引用したあとに、こうしめくくっておりました。

「そんなとき『自分には文才がないのか』『忙しくて仕事をする時間がない』など逃げたくなるが、自分に主張したいことがあれば、才能や時間などは次元の違う問題に過ぎない。だから、私はこんなときは思いっきりメモを取るなり、資料を整理するなりして戦闘体制を整える。」

うん。「思いっきりメモを取るなり、資料を整理するなり」ということで。
考えてみたら、いままでもそうしてブログに書きこみしていたわけで。
来年も、ブログを続けたいと思う12月でした。
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まじめに笑って。

2007-12-14 | Weblog
毎日新聞12月9日(日曜日)に、今週の本棚「2007年『この3冊』が載っておりました。毎年恒例で、執筆メンバー全員が「この3冊」を選んで短評を試みております。それが私はどちらの方の推薦本も一冊も読んでいないという結果でした。
それでは、せめて一冊でもと思いまして、簡単に読めそうな養老孟司さんの最初にあげていた本を読もうかなぁと思ったわけです。養老孟司さんは何を最初にあげておられたか。内田樹著「村上春樹にご用心」。その評がふるっております。短いですから全文。

「内田樹。まじめに笑って読める本って、めったにない。ひょっとするとむずかしいことが書いてあるんだけど、あっと思う間に読めちゃう。文章を体から書いている人は違いますね。」

ということで、その本を手に取ってみたのです。本の帯には「ウチダ先生、村上春樹はなぜ世界中で読まれるんですか? それはね、雪かき仕事の大切さを知ってるからだよ」

「『ダンス・ダンス・ダンス』で、「僕」は自分の仕事を【文化的雪かき】みたいなものだと説明している。雪が降ると分かるけれど、「雪かき」は誰の義務でもないけれど、誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事である。プラス加算されるチャンスはほとんどない。でも人知れず「雪かき」をしている人のおかげで、世の中からマイナスの芽(滑って転んで頭蓋骨を割るというような)が少しだけ摘まれているわけだ。私はそういうのは、「世界の善を少しだけ積み増しする」仕事だろうと思う。」(p205)


そういえば、産経新聞12月7日の「産経抄」にも「雪かき」が出てきておりました。そちらも引用したくなります。

「平成10年1月、関東学院大学ラグビー部は初めて大学選手権の決勝に進んだ。国立競技場は、試合前日からの雪に覆われている。春口廣(ひろし)監督は、補欠の4年生を隊長に命じて、レギュラーメンバー以外の部員全員に雪かきをさせた。相手の明治の学生が来なかったことを知り、勝利を確信する。「相手はグランドに出ている15人だが、こちらは140人の部員全員で戦うことができる」。今年9月にNHK放映の「人生の歩き方」に出演した春口さんが、語っていた。」
こうはじまりそして
「・・勝負に勝つより、いい【雪かき隊長】が出てきてほしい、という。見事花を咲かせた雑草たちに何が起こったのか。たばこさえ、絶対禁止のはずの部員2人が、大麻取締法違反の現行犯で先月逮捕された。さらに部員12人の吸引が発覚する。・・監督を辞任した春口さん・・・」


もう一度、内田樹さんの本にもどります。

「村上春樹は長編小説を書いたあと、とんとんと原稿用紙の端をそろえて、また頭から全部書き直すそうである。それは自分の仕事を『完成させる』というよりもむしろ、『私は何で「こんなこと」を書いてしまったのだろう?』と思わせるような『私の中から出てきた謎』の跡を追って『見知らぬところ』に出てゆくことの愉悦を求めてではないかと推察されるのである。・・・」(p236)

「また頭から全部」と「雪かき」と。
とりあえず。「村上春樹にご用心」の後の方をぱらぱらと読んで、私はまだ頭から読んではいません。

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不完全を巧みに。

2007-12-12 | Weblog
寺田寅彦著「柿の種」には、短章その一。その二。と別れております。
私には、その二の方が、ジャーナリズムの言葉に関する指摘が多いような感じをうけました。
いろいろと思い浮かぶのですが、ひとつ引用してみます。

「『陸相官邸にて割腹』という大きな見出しの新聞記事がある。陸相が割腹したのかと思うと、陸相の官邸でだれかが割腹したのである。日本語の不完全を巧みに利用したジャーナリズムのトリックである。」


私に思い浮かぶのは、朝日新聞の社説でした。いつだったか、まあ、いつもかもしれませんが、社説自体が読まれないとボヤキを書いておりました。社説を読む人がいないと書いてあったのか。とにかく、そのようなことでした。さて時々、朝日新聞には戦争の歴史の特集をすることがあります。見開き二ページを活字で埋めつくして歴史の講義をはじめてでもいるようなのです。すこしでも、「ジャーナリズムのトリック」を使う新聞が、歴史を講義してはなりません。参考文献でも列挙してくれればよろしい。たとえば、新書でどれとどれとが重要です。というのならわかる(決定版の歴史教科書を朝日新聞が書いてでもいるのでしょうか。それはどの文献を引用しているのかも示さねば疑われ、笑われます。まさか記者の手で要領よくまとめているとでもいうのでしょうか)。でもね。社説も読まれないと自覚している新聞が、歴史を堂々と講義なさるのはいかがなものでしょう。

「柿の種」その二。に戻りましょう。もう一つ引用してみます。

「三原山の投身者の記事が今日新聞紙上に跡を絶たない。よく聞いてみると、浅間山にもかなり多数の投身者があるそうであるが、このほうは新聞に出ない。ジャーナリズムという現象の一例である。」

あと、「柿の種」には、直接にジャーナリズムという言葉を使わなくても、俳諧的に取り上げている箇所が多く散見されるたのしみがあります。
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些事からの。

2007-12-11 | Weblog
多田道太郎氏が亡くなり、二つの追悼文を読みました。
ひとつは、鶴見俊輔氏(朝日新聞12月6日朝刊)。そこから最後を引用

「私は日本語を書くのに苦しんでいた。多田の論文が日本語特有の文尾の単調さを免れているのを、及びがたしと思っていた。三十年後、桑原武夫を校長とし、3年間36回の、市民学校講義があったとき、多田道太郎の講義は、NHK放送の際に何らカットされなかったのに納得した。名だたる教授たちの中で、話芸として多田道太郎の講義は随一の出来栄えだった。学者から離れた暮らしの中で、人々がおりなす風俗の美学と取り組む学問の分野がないことに注目した彼は、現代風俗研究会を起こした。京都の法然院貫主橋本峰雄とかたらって、そこで連続法話会をひらき、橋本の死後は、市内の徳正寺に法話の場をうつしてこの会は続いている。湯あみを、日本仏教感覚の基礎におく橋本の仏教学は、この会の初期に発表された。60年に近いつきあいの中で、私は多田道太郎からさまざまな刺激を受けた。ありがとう。」

今日の読売新聞(12月11日)には加藤秀俊氏の追悼文。ここでも最後の箇所を引用。

「多田さんの好きなことばに『神は細部に宿る』というのがある。ふだん見逃してしまいそうなちいさなもののなかから真理がみえてくるというのである。多田さんがその後半生に【現代風俗研究会】を発足させてもっぱら些事からの思想の探求を推進なさったのも、その信念を根底にしている。特筆すべきことはこの研究会が大学や専門の研究者の手を離れて、ごくふつうの市民によって維持・運営されてきたことである。わたしじしんも京都在住のころ、この会に参加していたが、『研究』といってもそれは日常経験の素材を会員が持ち寄ってまとめてゆく、という画期的手法でおこなわれていた。それによって『業績』をつくる、などという卑しい根性はまったくなかった。多田さんのことばによればこの団体には『思想も方向性もない』のが特徴なのだが、それを『軽評論』といってはまちがいである。多田さんの根幹にあったのはリベラルな急進主義、とでもいうべきもの。尊敬する先輩の訃報に接し、わたしはその思想の重さをあらためておもったのである。」

二人の追悼文を読めた。よかった。
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紳士協定。

2007-12-10 | Weblog
週刊新潮2007年12月13日号に
「星野ジャパン『卑劣な韓国戦術」で・・・」という特集記事。
ちょいと、忘れたくないので、記録しておきます。
北京五輪へむけての、アジア予選の決勝リーグ。開催国特権で中国の出場が決まっているので、アジアでは残された出場枠はあと1つ。それをめぐってフィリピン、韓国、台湾の順に試合がおこなわれましたね。

その韓国戦について書かれておりました。「韓国との試合は、1点を争うせめぎ合いがゲームセットまで続く、薄氷を踏む勝利」でした。そこであった出来事です。

「野球の国際試合では慣例上、試合開始の1時間前に先発メンバーを主催者に知らせ、そこから相手チームとメディアに伝えられるという紳士協定が存在する。この慣習については、試合の2日前、監督会議の席でも確認、合意がなされていたという。その一方、正式ルールでは、各チームが試合開始の10分前にメンバー表を提出し、1時間前に渡したメンバー表は特に拘束力を持たないとされる。」
その10分前に韓国チームはメンバー変更をしてきたのでした。
それがどんなだったか。
「韓国チームは先発投手だけでなく、打順まで大幅に変更してきました。日本の先発が左腕の成瀬だと知ったため、右バッターを上位打線に揃えたのです。2つのメンバー表を見比べると、変化がなかったのはわずか3人だけという大入れ替え。一方の日本は、1人も変更なし」

「もし今回、日本がこの手を使っていたら、間違いなく、韓国の世論は、日本のことをボロクソに言ったと思いますよ」とは、辺真一氏。

ちゃんとスポーツ紙のデスクの言葉も拾っておりました。
「6年前のワールドカップの際、韓国はアメリカ相手に同じ手を使って、プレーボール直前にチームの編成を変えてしまいました。アメリカは、なぜそんな汚い手を使うのか、と激怒し、ルールを見直すべきだという議論にまで発展したのですが、ルールとして明文化するには到らなかった。結局、有耶無耶になったもの、以降、韓国は露骨な変更を控えていました。」

さて、週刊新潮の記事では「【奇手】に慌てた責任の半分は、日本の調査、研究不足とも言える。・・・」と書いておりました。

それじゃ忘れずに「すこしでも研究不足を補えれば」と、こうして、ブログに書いておくわけです。

週刊新潮は、さらに
「韓国チームの監督も、『今回のルールなら、うそのリストを作ることも出来る』と開き直っている。」とありました。
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俳句らしきもの。

2007-12-09 | Weblog
寺田寅彦著「柿の種」(岩波文庫)を読んでいると、短い文から、あれこれと連想がはたらきます。これは、ひょっとすると俳諧の妙味を短文として書き記しておられるのじゃないか。などと思ったりするのです。まるで、発句を読んで次につなげてゆきたくなるような気分(じっさい、俳句がどんなものか、私は知らない癖してね)になるのでした。

そういえば、縁側というのが出てくる箇所がありました。
「珍しい秋晴れの日に縁側へ出て庭をながめながら物を考えたりするのにぐあいのいいような腰の高い椅子があるといいと思う。」(p254)

縁側を私が思ったのは、久世光彦・齋藤愼爾対談「詩歌の潮流」(「久世光彦の世界 昭和の幻景」柏書房p204~)の言葉でした。
そこでは、久世さんがこう語っております。「そうですねえ。エッセイは違いますが、小説とかテレビドラマはだいたい昭和十年代に限られていると言っていいくらい、非常に偏狭です。・・・やっていると幸福なんです。いまはもうどの家庭でも見られないようなものが何でもなく当たり前みたいにあるという茶の間の絵を撮っていると落ち着くんです。縁側を撮るのが好きなんです。」
対談者の齋藤さんがこの話に答えて、
「縁側じたいが、だんだんなくなってきていますね。僕の知っている俳人は久世さんのテレビの演出を見ると俳句的だと言うんです。いま失われたいろいろなものに関して哀惜の視線が感じられる。ときどき俳句らしきものが出て来ますね。」(p215)


縁側については、何も目新しいことではないようです。
というのは、「『坊ちゃん』の時代」関川夏央・谷口ジロー(双葉文庫)をめくっていたら、そこに関川さんの文がありまして。こうはじまっておりました。

「むかし、日本の都市家屋には縁側というものがあった。もっとも重要な部屋である居間はかならず縁側を持ち、ガラス障子が畳と板の境界をつくっていた。さわやかな風の吹く日には縁側をいっぱいに開け放って風を通し、あたたかい日には家長は縁側で爪を切った。」そのようにはじまり、夏目漱石の明治38年前後を紹介し、最後はというと、こう締めくくっておりました。
「いまわれわれは家屋そのものと精神から縁側というものを完全に失い、同時に西欧文化への反発心をも失い果てている。これからは、なにが日本人の創作衝動をつき動かすのだろうか。あるいはすでに薄暮色のあいまいな自由のなかで、精神の解放の必要すらも見失いつつあるということなのだろうか。日本社会は老い、日本現代文化はその洒脱さ軽快さとは裏腹に、ひたひたと寄せる没落の時期をわれ知らず迎えているのだろうか。」

とりあえず、縁側も庭もないところで、文化としての「縁側」のことを考えるのでした。それが俳句とつながるのだろうなあ、と思いながら。
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朝日古新聞考。

2007-12-08 | Weblog
週刊新潮2007年12月13日号の
「【中国軍艦】大歓迎!大笑いされちゃった『平和ボケ』朝日社説」
を読んでから、ちょうど、うまい具合にもらって来た朝日の古新聞のその箇所を捜して読んだのでした。うんうん、朝日新聞は、こうして読むとたいへん参考になります。

これを読むと防衛省の天下りなんて可愛いものだとおもいます。
朝日新聞では、どういう再就職があるのか、こっそりと教えております。
「秋岡特派員は退職後、『人民日報』の日本での販売を引き受ける代理人になった。その後輩の特派員も退職後、中国の対外雑誌『人民中国』の編集委員となり、共に中国の対外プロパガンダの一翼を担っているという。つまり、朝日の記者は、ひたすら退職後も中国のために働き続けるのだ。『調べてみると朝日新聞の社説は、中国の主張と驚くほど瓜二つなのです』とは、国際ジャーナリストの古森義久氏だ。・・・・・」(週刊新潮12月13日号)

考えても御覧なさい。防衛省のお役人が、天下り先を中国に求めたらどうなるか。もうすぐに再就職先がなくなれば、当然考えなきゃならない退職者にとっては死活問題であります。記事があおって、最終的には朝日新聞の再就職のようになったらどうするのか。そこまでは考えておらない代議士が、友好の中国参りをするのでしょうね。
朝日新聞が、よい前例を示しております。知らぬは購読者ばかりなのですが、たとえ教えてもらっても、知りたくないですよね。夏目漱石が小説を書いた由緒ある新聞社が、まさかそんなねえ。知っていても、知りたくないことって、ありますもんね。「朝日新聞社の再就職先と中国」というレポート誰か書かないでしょうか。カネを払っても読みたいなあ。いくらまでなら出すってか。資料が正確なら正確なほどきっと高く売れますよ。朝日新聞の記事を批判するようなまどろっこしいことをしているよりも、首根っこを捕まえる方が大事なんですから。
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即興的漫筆。

2007-12-07 | Weblog
昨日また、柿を貰いました。「もうこれが最後の柿」ということです。
そして今日、残っているのが、柿五つ。
注文しておいた寺田寅彦著「柿の種」(岩波文庫)が今日届きました。
自序にこうあります。「大正九年ごろから、友人松根東洋城(まつねとうようじょう)の主宰する俳句雑誌『渋柿』の巻頭第1ページに、『無題』という題で、時々に短い即興的漫筆を載せて来た。・・・」。

これが私にはとても面白かったのです。
ちょうど、ブログでこうして自分が書いているからかもしれません。
書き方のテンポというか、気安さが、とてもネット上の書き方の見本のような味わいがあるのでした。自序をもうすこし引用してみます。

「元来が、ほとんど同人雑誌のような俳句雑誌のために、きわめて気楽に気ままに書き流したものである。原稿の締め切りに迫った催促のはがきを受け取ってから、全く不用意に机の前へすわって、それから大急ぎで何か書く種を捜すというような場合も多かった。雑誌の読者に読ませるというよりは、東洋城や(小宮)豊隆に読ませるつもりで書いたものに過ぎない。・・言わば書信集か、あるいは日記の断片のようなものに過ぎないのである。」

まったく、この通りの短文が並びます。
岩波文庫には寺田寅彦随筆集全五巻が入っていますが、そのイメージしかもっていなかった私に「柿の種」は驚きでした。ごく身近な書きぶりなのです。
ずいぶんきままな幅広い書きぶりに、ああこれが俳句的なのかもしれない、と思い到る気分が横溢しているような味わいがありました。

そこから、一つだけを引用すると、当然に間違えた印象をあたえるのですが、
まあいいか、一つ引用しましょう。

「無地の鶯茶色のネクタイを捜して歩いたがなかなか見つからない。
東京という所も存外不便な所である。
このごろ石油ランプを探し歩いている。
神田や銀座はもちろん、板橋界隈も捜したが、座敷用のランプは見つからない。
東京という所は存外不便な所である。
東京市民がみんな石油ランプを要求するような時期が、いつかはまためぐって来そうに思われてしかたがない。 (大正12年7月)」

ここにだけ、すぐあとに【注】が書きこまれております。そこも
「(「柿の種」への追記)大正12年7月1日発行の「渋柿」にこれが掲載されてから、ちょうど二か月後に関東大震災が起こって、東京じゅうの電燈が役に立たなくなった。これも不思議な回りあわせであった。」

絵画の話あり、子どもの話あり、もちろん俳句や科学の話もごく自然に出てきます。たのしかった。


ちなみに、ネット上で全文公開されているようです。ちょいとご覧になってはどうですか。私は岩波ワイド文庫を買いました。文庫解説は池内了。
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金輪際。

2007-12-06 | Weblog
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)に、カードに書き込むことで見えてくる世界を語った箇所があります。一読忘れられない言葉でした。「わたしたちにはいつも、無限の世界とのつながりを心のささえにしているようなところがあるらしい。カードは、その幻想をこわしてしまうのである。無限にゆたかであるはずの、わたしたちの知識や思想を、貧弱な物量の形にかえて、われわれの目のまえにつきつけてしまうのである。カードをつかうには、有限性に対する恐怖にうちかつだけの、精神の強度が必要である。」(p61~62)

じつは、谷沢永一著「疲れない生き方」(PHP研究所)を読んでの感想で、この梅棹さんの言葉が思い浮かびました。わたしたちのまわりには「有限性に対する恐怖」や「精神の強度」を忘れさせるような気楽で快い幻想言葉がゴロゴロしております。いざ、それらの言葉を使って自分が喋り始めると、間違いなく陥る落し穴があるのでした。それを谷沢氏は丁寧に教えております。
それをここに並べてみたいと思います。先ず最初にここを引用してから、

「人間の成長過程は、『自分には何ができないか』を探知して、ひとつずつあきらめていく道行きです。あきらめを重ねていくのが年齢を重ねるという意味です。就職時代、あるいは結婚年代に達した時など、ある年齢までに人間は実にたくさんのことをあきらめてきたはずです。そのことを大人たちはみんな忘れがちです。」(p110)

「たくさんの言葉を知るのは結構なことです。決して悪いことではない。けれども、変な言葉に引っかかり、それが固定観念になって頭の中に住み着いてしまうと不幸です。世間で年中いわれている、そういう言葉を鵜呑みにしない用心深さが必要なのです。」(p18)

「世の中ではしばしば『100パーセントの自由と平等』を前提とした心地よい言葉が語られますが、それらは人を騙す言葉です。その手の甘言に、耳を傾け、心を奪われると、完全なわがまま勝手を求める人間になってしまいます。人間にとって100パーセントの自由、100パーセントの平等ということは金輪際あり得ない。実態を冷静に認識し、『人間は100パーセント自由奔放に生きられるという条件のもとに生まれたのではない』という立地条件を忘れてはなりません。」(p128)

「成熟伝説という囁きは、何としても若い時に、自分の意識の中で打破しておくべきだと思います。これは人を怠けさせる悪い作用のほうがはるかに強いからです。いずれ自分は何事も見通しがきくような境地に達する筈であると半ば思い込んで、二十代、三十代を無駄に過ごした人を私はたくさん見てきました。その人たちが五十、六十になって急に内容が充実した例は見たことがありません。そんな脱皮はあり得ないのです。」(p22)

「若い時、できることはその年齢でやってしまうことが大事です。私自身、『まだ未熟だから』と思ってやらずに先送りし、後になって後悔したことがあります。・・『今、それをそのまま書いたら、書き方が幼稚だし、ボキャブラリーが乏しいから、文脈が整然としていないものになるだろう。もうちょっと技術を身につけてから文章にしよう』という気持ちが、自分で計画したわけではないけれども、無意識のうちに生じて行動を控えてしまった。ところが、実行しないでいると、肝心なアイデアの生命力がなくなってしまうし、たとえば二十歳頃に『こうではないか』と思ったことなどは、三十代になった時分には忘れていたりします。とにかく、自分がこうと思った時に、それを何らかの形で人に語り、あるいは物に書くといったように、『外に出す』ということは絶対にためらってはいけません。アイデアそのものが勝手に成熟したり、内容が濃密になったりする醗酵は、人間の精神生活において起こり得ないのです。・・・『成熟伝説』に惑わされてはいけません。たとえアイデアを下手くそにしか表現できなくてもまず『外に出す』べきです。もし、そのアイデアが評価されなかったとしても、それは表現が稚拙だからでなく、初めからその程度の水準だったという場合が多いのです。ただ、自分では素晴らしいと思ったアイデアは、実は誠にお粗末なアイデアだったとしても、それは二度と訪れてくれない賓客(まろうど)でもあります。自惚れを取り去って『今、これが自分のすべてである』という自覚を冷静に見つめ、今やりたいことは今やる。・・」(p30~31)

ついつい引用していると長くなります。今度は、ちょいと意味が通じなくても、もう少し端折って短く引用していきます。

「新聞やテレビが言っている内容はすぐに信用してはなりません。これは若い時に必ず心得ておくべきことです。」(p62)

「新聞があるだけでテレビのない時代に、外交問題の厄介なことを将棋の名人に聞くというバカな習慣はありませんでした。・・・今はテレビに映ることが偉い人の象徴であるという調子になりました。日本史上、芸能人がこれほど大きな顔をして、威張っている時代はいまだかつてなかったと思います。」(p64)

「現代日本は本当のこと、みんなが薄々感じていることを表現してはならないという、厳しい言論統制の時代に入っています。・・あとは、これからの若い人たちがそれを魔に受けないという心の鍛錬をわずかでも経てくれることを、願うばかりです。」(p65)
「自分の好みは癖にしか過ぎないと思っている人が本当の洗練された個性の持ち主です。そうでなく使われる『個性』という言葉は、脅迫言辞、脅かし言葉なのです。」(p72)
「他人が使う場合には妥当であるけれども、自分に対して使う場合は穏当でないという言葉が、日本語にはたくさんあります。その使い分けができている人が世馴れている人です。」(p76)

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疲れない。

2007-12-05 | Weblog
谷沢永一著「疲れない生き方」(PHP)を、ちょうど今日読みました。
この本、まるで谷沢氏の講演を聞いたような気分になります。わかりやすく。うんうんとうなずいているうちに終っていたというような読後感(谷沢氏の講演を聞いたこともないのですが)。

ひとつだけ、あげるなら。私はここを引用します。

谷沢氏は「渡部昇一の著作を読んでいると、恩師として佐藤順太先生の名前がしばしば出てきます。・・・」(p164~)と書いてから、渡部氏にとっての佐藤順太先生が、谷沢氏にもおられたことを、おもむろに書いているくだりです。その人の名は藤本進治。以下その人となりを引用してみます。

「藤本先生は生家が裕福で、『好きな本があったらいくらでも買いなさい』とお父さんが本代を払ってくれたから、若い時は嫌と言うほど本が買えたそうです。飲み代に困ると、購入した新刊をそのまま古本屋の天牛に売り、飲み屋に行ってお銚子をずらっと並べて飲んだと言っていました。」

「終戦まで一コマだけ、ドイツ語の非常勤講師として関大の教壇に立っていました。しかし、お父さんが亡くなると本が買えなくなり、それどころか、非常勤講師だけでは飯が食えませんから、家庭教師をして終戦まで生計を立てた。それが続かず、かつて今宮中学の担任だった石川という前校長が予備校を設立したので、そこへ呼ばれて、晩年は大阪の上本町六丁目にあった日本予備校の英語の先生をしていました。各学校の入学試験で英語の問題がどういうポイントで出るかということをきっちり当てたので、予備校界では名前の鳴り響いた人でした。」

「本来は哲学者ですが、実によく本を読んでいて、文学についても、美術についても詳しかった。その範囲があまりに広すぎて、『どこまでこの人は学んでいるのか』と見当がつかないぐらいでした。私が斎藤茂吉に凝って話をしに行くと、『それは』と言って斎藤茂吉の話になる。自然主義文学に凝って話に行くと、『田山花袋は』と言って、その話になる。当時、身辺に本はほとんどなくなっていましたが、コクヨの四百字詰め原稿用紙を二つに切った裏を使った、膨大な抜き書きがありました。だから、茂吉であろうが、花袋であろうが、川端康成であろうが、それをすぐに出してきてポイントを教えてくれるのです。そうすると、私は自然に藤本先生の真似をするようになります。つまり、読書の境界がなくなったのです。・・・今になって『ありがたかった』と思うのは、知識と勉強のことだけではありません。藤本先生が親子ほど年の離れた生意気な中学坊主の私を、一人前に扱ってくれたことも本当に感謝しています。関大予科に通っているなんて、学生としてはおよそ問題にならないレベルです。だから、世間はそういう目で私を見た。しかし、藤本先生だけは私を自分と同じ仲間のように、同じレベルで扱ってくれた。これはいわば無言の励ましとなりました。・・・とにかく息づかい、態度で、私を仲間のように扱ってくれている。この実感が若い生意気な中学坊主を励まし、言葉に尽くせぬ大きな刺激となったのです。」(p170)



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五十歳をすぎ。

2007-12-04 | Weblog
昨日のブログは、「いつか」で終りにしました。
それで思い浮かべた詩があります。黒田三郎の詩「あす」。

    あす

 うかうかしているうちに
 一年たち二年たち
 部屋中にうずたかい書物を
 片づけようと思っているつちに
 一年たった

 昔大学生だったころ
 ダンテをよもうと思った
 それから三十年
 ついきのうのことのように
 今でもまだそれをあす
 よむ気でいる

 自分にいまできることが
 ほんの少しばかりだとわかっていても
 でも そのほんの少しばかりが
 少年の夢のように大きく
 五十歳をすぎた僕のなかにある



この詩の最後の一行「五十歳をすぎた僕のなかにある」で、
思い浮かぶのは、「洲之内徹 絵のなる一生」(とんぼの本・新潮社)でした。
そこでは「五十代の終り頃から」とありました。
それは、「最初の一歩は画家・佐藤哲三に惹かれて」という箇所に引用してありました。それもここに引用しておきたくなりました。


「五十代の終り頃から六十代にかけての十年余り、私の身の上に起こったことのすべての背景には新潟がある。六十歳になった頃、私はよく青春ということを言ったが、それは私の実感だった。六十歳になって、私はいろいろのものがよく見えるようになり、自分の心の動きが急に自由になったような気がしたのだ。一方、肉体的に衰えはまだ感じない。そして、だからこそかもしれないが、まだまだ無分別な行動に自分を投げ込み、そこから当然起こる面倒を恐れないだけの気力もある。とすれば、これを青春と呼んで差支えないだろう」(p28.とんぼの本)


黒田三郎は「五十歳をすぎた」と詩に書き。
洲之内徹は「五十代の終り頃から」と画家との出会いを書いております。

ああ、そういえば「僕は今、五十代の後半にいる。」と書いたのは村上春樹でした。村上春樹著「走ることについて語るときに僕の語ること」(文芸春秋)のp33にあります。そこからも引用しましょう。

「僕は今、五十代の後半にいる。・・・・
若いときの僕にとって五十代の自分の姿を思い浮かべるのは、『死後の世界を具体的に想像してみろ』と言われたのと同じくらい困難なことだった。ミック・ジャガーは若いときに『四十五歳になって【サティスファクション】をまだ歌っているくらいなら、死んだ方がましだ』と豪語した。しかし実際には彼は六十歳を過ぎた今でも【サティスファクション】を歌い続けている。そのことを笑う人々もいる。しかし僕には笑えない。若き日の僕にもそんなことは想像できなかった。僕にミック・ジャガーを笑えるだろうか?笑えない。僕はたまたま、若くて高名なロック・シンガーではなかった。僕が当時どんなに愚かしいことを言ったとしても、誰も覚えていないし、したがって引用されることもない。ただそれだけのことではないか。そして現在、僕はその『想像もつかなかった』世界の中に身を置いて生きている。・・・」


ということで、引用を三つしました。
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生きる。

2007-12-03 | Weblog
今年の夏は暑かったですね。本を読めなかったので、詩でもと思って、何げなく拾い読みしたのが伊東静雄の詩集でした。読めてよかった。ということで、読んだ後は、何の気なしに活字に伊東静雄の名があったりすると、気になります。
東京新聞2007年12月2日読書欄の「愛蔵書の理由(わけ)」という連載(?)に渡辺京二さん(1930年生まれ)が書いておりました。題して「生きるため必要な詩」。「伊東静雄詩集ほか」とあります。渡辺京二さんといえば、読んでないのですが、「逝きし世の面影」の著者。その新聞の短文の最後を引用しておきましょう。

「自分に詩才がないことは数年でわかった。戦後詩はついに縁のない世界だった。ただひとり吉本隆明の詩を除いて。それでも生きるには【詩】は必要なので、ひそかに一冊の詩集がいつも心にあった。『伊東静雄詩集』である。岩波文庫版は解説がすごいが、古びた創元選書版を手にすることが多い。この方が活字が大きくてちゃんと読んだ気になる。むろん私だけのことだけれど、日本近代が産んだ最高の詩と信じながら。」


ちょうど、この夏。伊東静雄詩集を読んで、12月にはいったら、それを「むろん私だけのことだけれど、日本近代が産んだ最高の詩と信じながら」という方がおられると知る。これも今年の夏の暑さのおかげかもしれません。
それにしても、「ひそかに一冊の詩集」「最高の詩と信じながら」というのは素晴らしいですね。私は浮気者で、そこまで伊東静雄をいいとは思わないのでした。けれども、それは恐らく私が間違っているのでしょう。また機会をみて伊東静雄を読み直してみたいと思います。そうだなあ。いつか「伊東静雄研究」という古本を買って読んでみたいのでした。いつか(笑)。


(ちなみに、皆さんひそかにこの人の詩集を読んでるらしく、新刊書店では伊東静雄詩集は手に入りません。今は古本でしか買えないようです。袋小路だといわれる現代詩の状況の薄皮をはがすのは、ここいらあたりからでしょうか?  【失礼しました。思潮社の現代詩文庫で買えるようです】)
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沖縄ノート異聞。

2007-12-02 | Weblog
岩波新書の「沖縄ノート」が気になります。
朝日新聞(2007年11月20日)の大江健三郎連載「定義集」にこんな箇所。

「私に先だって証言された原告赤松秀一氏は、『沖縄ノート』のことを知ったのは曽野氏の著書をつうじてであり、『沖縄ノート』を入手はしたが、飛び飛びにしか読んでいない、と明言されました。もうひとりの原告梅沢裕氏が怒りを覚えられたのも、『沖縄ノート』を直接読まれてというより『ある神話の背景』に導かれてと見るのが妥当に思えます。」

大江健三郎さんは、原告が「沖縄ノート」を読んでなくて、曽野綾子さんの本を読んでいるのが気に入らないようなのです。作家としては、まあ、しかたないですよね。

面白いことに、呉智英さんが「『沖縄ノート』を読んでみた。」と書いておりました。産経新聞2007年12月1日「断」のコラムです。それが注目の指摘なので、長さを厭わず引用してみます。

「第九章にこうある。沖縄住民に集団自決を強制した(と大江が断じている)元守備隊長は1970年春、慰霊祭に出席すべく沖縄に赴いた。それは『25年ぶりの者と生き残りの犠牲者の再会』であった。自決強制の有無の検証は私の任ではない。私が驚いたのは虐殺者(大江の見解の)を者になぞらえていることだ。これ、いつから解禁になったのか。虐殺をになぞらえようものなら許すべからざる差別表現として解放同盟と屠場労組の苛烈な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬ者はない。1982年、俳優座のブレヒト原作『場の聖ヨハンナ』は改題してもなお激しい糾弾に遭い上演は困難を極めた。これについて解放同盟などは『だれだれの作品だから差別はないと【神格化】したものの考え方を一掃したい』と言明した。また1989年には『沖縄ノート』と同じ岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)の中の『戦場という異常な状況下では牛や豚など家畜のと同じような感覚になる』という記述が問題にされ、回収処分となった。だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から免責されるのか。大江健三郎のみ【神格化】される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店、解放同盟にはぜひ説明していただきたい。」


大江健三郎さんは読まれていないのだ。解放連盟からも読まれていないことに、岩波書店でも読まれていない。そうなのだ。赤松秀一さんや梅沢裕さんばかりを挙げるべきかどうか、もっと他にも。

もうひとつ、怒鳴った大江さんを紹介しておきましょう。
「WILL」2008年1月号の曽野綾子さんの文の中にでてきます(p61)

「以前に私は大江氏に、『軍側でまとめた【陣中日誌】というものが手に入ったのですが、お送りしましょうか』という電話をかけたことがあります。私にとっては『右でも左でも資料は資料』だったからです。・・・その時のことをよく覚えていますが、【陣中日誌】が要りますか、という私の問いに、大江氏は、私が信じられないような激しさで『要りません!』と怒鳴ったのです。その一言で、私は大江氏は自分に不都合な資料は読まない人だとわかり、以後、大江氏との一切の関係を断ちました。」

ところで、大江健三郎は曽野綾子著「ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決」を読まれているでしょうね。怒鳴った大江さんは、読了した大江さんじゃないですか。

裁判での証言のことでしょう(その大江証言全文を読みたいなあ。どなたかご存知ありませんか)。大江氏は朝日新聞の「定義集」(11月20日)に「私は、曽野綾子氏の立論が、テクストの誤読によるものであることを説明しました。」とあります。

うん。テキスト「沖縄ノート」を読まなくちゃ。
この話題についていけないなあ。
インフルエンザの予防接種よろしく、もう曽野さんの名著は読んでおります。

ああ、それから、蛇足なのですが、朝日新聞の定義集(11月20日)に福田美蘭さんの挿絵が描かれているのでした。福田さんの痛ましい描きぶりに、普段の福田さんの絵の自由な雰囲気がまるでないのを悲しみます。まるで悲惨の符合だけを描きこんでいるようなのが痛々しい気分の絵です。福田さんも「沖縄ノート」なんてちゃんと読む暇などなかったのだろうなあと、かってに想像するのでした(間違ったらゴメン)まして、曽野綾子氏の名著を比較することまで、絵かきさんに要求するのは酷でしょう。ごちゃごちゃした絵は、ちょうど途中で放り投げたように岩波新書が絵の真ん中にページをひらいて浮いております。


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