庭でなった柿をもらって、積んでおいたのを食べおわった日に、また、柿をもらいました。こちらは、もらい物のおすそ分け、きれいで、市販の柿みたいです。
こりゃ、柿を食べながら、柿の話をつづけるようにという、お告げ(笑)。
現代詩文庫(思潮社)の小池昌代詩集に「柿のある厨房」という散文が載っております。はじまりは「ある日、ひとから柿をもらった。そのひとの庭になったものだという。・・・翌日、また、別のひとから柿をもらった。今度は四角くてとてもりっぱ。実に坐りのいい柿である。『いま、柿が、おいしい』とそのひとは言い・・・去っていった。『いま、この詩集が面白い』というように。・・・」
話はかわりますが、
富士正晴著「高浜虚子」(角川書店・古本)に、
高浜虚子著「柿二つ」についての内容紹介の文が載っております。
「『柿二つ』は戦争末期の堺三国丘時代の伊東静雄が大変ほめていた記憶がある。・・・子規の後継者になれという願いを冷淡に振り切ってしまう虚子という人間のすごさをほめたのであった。これもその話は印象に残ったが、『柿二つ』をさがして読もうという気は起こさなかった。・・」。
まあ、こんな風に富士正晴は書きながら、「柿二つ」の内容を丁寧に追いかけておりました。その印象が残っていたこともあって、よい機会なので、今年もらった柿を食べながら、「柿二つ」を読んだのでした。序にはこうあります。
「此『柿二つ』は正しく居士を書かうと思つて書いたもので、少しも虚構を加へずに事実其儘を写生したものである。が、其かと言つて、此一篇は子規居士を伝(でん)したものといふ事は出来ぬ。居士の言行は如何なる些細な事でも事実に相違せぬやうつとめたのであるけれども、しかも心理上の事は悉く私の想像になつたものである。其点からいふと矢張り小説であつて伝記といふ事は出来ぬ。子規居士を描いたといふ言葉さへ不穏当であつて、矢張りSといふ一個の人を描いた小説と言はねばならぬのである。」
こうした内容なので、昔の柿みたいに、芯が渋かったり、固かったりという読み応えがありました。最初、いや半ば頃まで、私には読みにくさがつきまといました。けれども読めてよかった。という歯ごたえ(手ごたえ)がありました(これも今年の柿のオカゲだなあ)。
題名の「柿二つ」の意味はというと、最初にもう種あかしされております。
そこを引用してみたいと思います。
「此柿は京都伏見の桃山に庵を結んでゐる愚庵といふ禅僧から贈ってきた釣鐘という珍しい名の柿であった。・・・・互に推重(すいじゅう)して何かにつけて贈答を怠らなかったのであった。今度の柿は桃山の草庵に禅師を訪ねた人が其庭前の柿を託されて遥々と携へ帰って病床にもたらしたものであった。其れは昨日の事であった。其人がまだ枕頭に在る間に彼(注;子規)はもう辛抱が出来なくなって其柿を三つ続け様に食った。其人が帰って後も夜寝る迄に十ばかりを平げた。今夜枕頭に運ばれたものは其残りの唯の二つであった。・・・・・・
三千の俳句を閲し柿二つ
博文館発行の当用日記に彼は毎日の出来事を句にして十句宛書くことを日課にしてゐた。明日になって今日の部を認める時に忘れぬように此句を加へねばならぬと思った。」
こりゃ、柿を食べながら、柿の話をつづけるようにという、お告げ(笑)。
現代詩文庫(思潮社)の小池昌代詩集に「柿のある厨房」という散文が載っております。はじまりは「ある日、ひとから柿をもらった。そのひとの庭になったものだという。・・・翌日、また、別のひとから柿をもらった。今度は四角くてとてもりっぱ。実に坐りのいい柿である。『いま、柿が、おいしい』とそのひとは言い・・・去っていった。『いま、この詩集が面白い』というように。・・・」
話はかわりますが、
富士正晴著「高浜虚子」(角川書店・古本)に、
高浜虚子著「柿二つ」についての内容紹介の文が載っております。
「『柿二つ』は戦争末期の堺三国丘時代の伊東静雄が大変ほめていた記憶がある。・・・子規の後継者になれという願いを冷淡に振り切ってしまう虚子という人間のすごさをほめたのであった。これもその話は印象に残ったが、『柿二つ』をさがして読もうという気は起こさなかった。・・」。
まあ、こんな風に富士正晴は書きながら、「柿二つ」の内容を丁寧に追いかけておりました。その印象が残っていたこともあって、よい機会なので、今年もらった柿を食べながら、「柿二つ」を読んだのでした。序にはこうあります。
「此『柿二つ』は正しく居士を書かうと思つて書いたもので、少しも虚構を加へずに事実其儘を写生したものである。が、其かと言つて、此一篇は子規居士を伝(でん)したものといふ事は出来ぬ。居士の言行は如何なる些細な事でも事実に相違せぬやうつとめたのであるけれども、しかも心理上の事は悉く私の想像になつたものである。其点からいふと矢張り小説であつて伝記といふ事は出来ぬ。子規居士を描いたといふ言葉さへ不穏当であつて、矢張りSといふ一個の人を描いた小説と言はねばならぬのである。」
こうした内容なので、昔の柿みたいに、芯が渋かったり、固かったりという読み応えがありました。最初、いや半ば頃まで、私には読みにくさがつきまといました。けれども読めてよかった。という歯ごたえ(手ごたえ)がありました(これも今年の柿のオカゲだなあ)。
題名の「柿二つ」の意味はというと、最初にもう種あかしされております。
そこを引用してみたいと思います。
「此柿は京都伏見の桃山に庵を結んでゐる愚庵といふ禅僧から贈ってきた釣鐘という珍しい名の柿であった。・・・・互に推重(すいじゅう)して何かにつけて贈答を怠らなかったのであった。今度の柿は桃山の草庵に禅師を訪ねた人が其庭前の柿を託されて遥々と携へ帰って病床にもたらしたものであった。其れは昨日の事であった。其人がまだ枕頭に在る間に彼(注;子規)はもう辛抱が出来なくなって其柿を三つ続け様に食った。其人が帰って後も夜寝る迄に十ばかりを平げた。今夜枕頭に運ばれたものは其残りの唯の二つであった。・・・・・・
三千の俳句を閲し柿二つ
博文館発行の当用日記に彼は毎日の出来事を句にして十句宛書くことを日課にしてゐた。明日になって今日の部を認める時に忘れぬように此句を加へねばならぬと思った。」