和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「猫」と落語。

2010-05-12 | 短文紹介
水川隆夫著「漱石と落語」(彩流社)は、手堅く漱石の中の落語を探っており、読み甲斐がありました。ということで、その引用箇所をすこし孫引きしてみます。


「漱石は小学校を卒業後、正則中学校、二松学舎、成立学舎を経て、明治17年の秋に大学予備門に入ったが、その間寄席通いが続いていたことはいうまでもない。成立学舎以来の友人で岡山県出身の橋本左五郎は、漱石に寄席通いを教えられたと、次のように回想している。

  田舎から出て来た私が寄席へゆき、講談・落語・義太夫に興味を持つ様になったのは、全く夏目の影響です。それで桃川如燕の鍋島の猫騒動だとか、円朝の牡丹灯籠だとかは、当時幾度聞いても飽きない程になってゐました。夏目は陵潮でしたか、琴陵でしたか、その講談振が大変気に入ってをって、講談の話などをしてをって興に乗って来ると、左り手で扇を持ってパチンパチンやってその真似をしてものです。そうです。夏目は左利きでした。  」(p35)

 こうして、水川氏は指摘するのでした。

「漱石は、幼少の頃から漢詩漢文を学ぶとともに落語講談に親しむことによって、漢語や俗語をふくめ日本語の一つ一つに付着している『感情的要素』について、鋭敏な感性を磨いてきた。しかし、英語の場合は、この要素が十分実感できなかった。・・・・・
漱石の真実を尊び、偽善や欺瞞を憎む態度については・・・・・私は、その根底に、彼の江戸っ子気質があったことを付け加えたいと思う。他人の受け売りや知ったかぶりの半可通は江戸っ子の最も軽蔑したものであり、落語の中にも『酢豆腐』はじめ、半可通に対する揶揄や嘲笑がよく現れる。漱石は『全く感じない』西洋の詩を読んで無理に嬉しがっている日本の学者たちの中に、腐ってすっぱくなった豆腐を食べて『どうも乙な味です。』と気取っている『酢豆腐』の若旦那の姿を見たのである。漱石がロンドンで読んだ書物への書きこみや作成したノートや、それをもとに大学で講じた『文学論』の中にも、落語や講釈のことがよく出てくる。・・・・・
漱石は、蔵書『Merry Wives of Windsor』(「ウインザーの陽気な女房たち」)の第三幕第三場に『落語家ノ棺桶ノ中カラモラッテ置ケモラッテ置ケト云フ格ナリ』と感想を書き入れている。」(P61~63)

このくらいにして、水川氏の本の第二章「吾輩は猫である」の時代に触れておきたいのでした。

「小林信彦は、『むかしはよく、「カーテル・ムル』やら『トリストラム・シャンディ』との暗号やら影響が論じられていたが、江戸落語の影響の大きさには、とうてい及ぶまい。』『「猫」に関していえば、江戸落語の要素が作品の根っ子の部分で、英文学は外側にぶら下っている印象を受ける。』と述べ、落語の影響を強調しているが、私も同感であり、『猫』の発想は、主として落語・講釈からきたと考える。
虚子の思い出にあるように、漱石は題名の一つとして『猫伝』を考えていた。『吾輩は猫である』の方を採用してからも、書簡では、もっぱら『猫伝』と称している。この題名と猫を主人公にするという思いつきは、桃川如燕の『百猫伝』からきているのではないかと思われる。・・・漱石自身、『猫』第二において、『吾輩』に『桃川如燕(ももかわじょえん)以後の猫』と言わせている。・・」(P85~86)

 ここで水川氏の解釈の自然な流れが味わえる箇所

「ところで、この苦沙弥という名前・・・・
落語に『くしゃみ講釈』がある。これは、ご承知のように、定連が客席から胡椒の粉をあおぎ上げて、講釈師にくしゃみを連発させて困らせる話だが、その動機となったのは、『世辞がない』『大面(おほづら)すぎる』講釈師の高慢な態度や客席で居眠りしていて講釈師に注意され恥をかかされたことに対して腹を立てたからであった。金田夫人も苦沙弥の家へ行って『世辞がない』苦沙弥たちに自尊心を傷つけられ、その『生意気』を懲らしめようとする。車屋の神さんや車夫たちは、苦沙弥の家の垣根の外から『高慢ちきは唐変木(たうへんぼく)だ』などとやじり倒す。私は苦沙弥の名は、落語『くしゃみ講釈』から思いついたものではないかと推定する。」(P108)


あと、これも引用しておかなくちゃ。


「十月下旬、堺利彦が、『猫』上篇の感想を送ってきた。『新刊の書籍を面白く読んだとき、其の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新著『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦』というのが全文である。恐らくこの感想から刺激を受けて、漱石は、『猫』第七に『吾輩』が銭湯を観察する場面を入れた。・・・」(P117)


 以上。この本の美味しいところを、摘まんでみました。
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カタルシス。

2010-05-11 | 短文紹介
外山滋比古著「エディターシップ」に
「カタルシスは元来、排便を意味する医学用語であるが、鬱積した本能のエネルギーが安全弁のふたを開いて発散するのは排便に似た快感をともなうと考えたのであろう。」(p117)という箇所がありました。

ということで、カタルシス。

外山氏の「知的創造のヒント」には

「知識をどんどんとり入れるためには、まず腹をすかせていなくては話にならない。どんなにおいしい料理を食べさせようとしても、満腹では受け付けない。腹をすかせるには、新陳代謝が行われていることが前提で、糞詰まりではすがすがしい空腹感はおこらない。排泄ということがいかに大切であるか。これは詰め込みの専門家?である現代の教育者にとくと考えてほしい課題である。それを抜きにしてものを考えるのは、便秘人間をつくることにほかならない。いまの世の中には糞詰まりがあまりにも多い。それをもの知りとか、知識人と称しているのは笑止のさたである。知識といやなこととは別だというかもしれないが、入るのはいいが、あまりたまっては困る点では変わりがない。」(講談社現代新書p21)

これについて、外山氏の「日本語の論理」で、気になる箇所。


「・・思想の『体系』もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いて不朽のものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。」

このあとに、こう続くのでした。

「日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の風が吹いていて、しっかりした体系の構築を妨げている。しかし、へたに建物が立っていない空地だから、新しいものを建てるのに便利である、とも言えるのである。日本語はどうも、俳句や短篇や珠玉のような随筆に見られる点的思考に適している。逆に、大思想を支えるような線的思考の持久力には欠けている。しかし、持続力はときによくない先入主となって、精神の自由な躍動をじゃますることがないとは言えない。『ひらめき』をもつには、日本語はなかなか好都合なのである。」

これは、「日本語と創造性」という文にあります。ちなみにその最後にはこうありました。「日本語が、いわゆる論理的でないと言われる、まさにその点に、日本語の創造的性格が存するということは、われわれを勇気づけるに足る逆説である。」


連休のころから、夜寝ていると、咳でむせるようになるので、連休明けに病院に行くと、これは百日咳ですよ。最近は大人の咳の大半がこれなんです、との診断。一週間分の薬をもらってきて。ちゃんと睡眠をとっておりました。そうすると、思い浮かんだのが、上記のカタルシスということでの3冊。寝ていると、案外記憶の海から、泡が浮き上がってくるようにして、つながって出てくるものですね。さてっと、お後が続かないのですが、とりあえずは、書き込んで忘れます(笑)。
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いちょう。

2010-05-10 | 詩歌
渡部昇一著「楽しい読書生活」(ビジネス社)の
こんな箇所がありました。

「・・・漱石の漢詩はいまもって暗唱するに足るし、再読して感激します。俳句もいいと思います。詩と小説はまったく別物なのです。年齢をとってから読めるような小説はめったに無いけれども、しかし詩や和歌や俳句は、若くて幼稚な人が書いたものでもいいものはいい。このあたりが文学・芸術の不思議なところです。」(p215)

この「いいものはいい」から、私は、戦後すぐの昭和23年に移動したくなるのでした。それは、昭和23年雑誌「きりん」に掲載された詩について語られております。では井上靖氏に語っていただきます。


「少し大袈裟な言い方をすれば、私(井上靖)はその夜、たまたま小学校から送られて来た二人の少女の詩に、感心したというより、何もかも初めからやり直さなければならないといったような思いにさせられていた。」

ここからです(笑)。

「その頃、私も小説を書こうとして、毎晩机に向かって原稿用紙を無駄にしている時だったので、その二編の少女の詩の持つ水にでも洗われたような埃というものの全くない美しさに参ってしまったのである。それぞれ十行ほどの短い詩であったが、子供だけの持つ汚れのない抒情が、幼い字で書き記されてあって、大人ではこんな風には書けないと思った。余分なことは一語も書かれていず、水の中を流れている藻でも見るように、子供の心が澄んで見えている。『いちょう』を読むと、いちょうの葉の落ちている校庭で、滑り台を滑っている小学一年生の少女の姿が眼に浮かんでくる。そしてその時の少女の気持ちが、手にとるようにはっきりと、こちらに伝わってくる。少女は淋しいと思っているのでも、悲しいと思っているのでもなく、うつくしいな、ただそれだけである。そして、いちょうの落ちている庭で、いちょうの落ちるのを眺めながら、滑り台を滑っているのである。・・・」


最後に、その詩を引用しておきます。


     いちょう     山田いく子

  きれいな いちょう
  おおきなきに
  ついている
  かぜにふかれて
  おちていく
  うつくしいな
  わたしは それをみて
  すべりっこを
  すべりました
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溶鉱炉の火は。

2010-05-09 | 短文紹介
雑誌「WiLL」2008年2月号に
渡部昇一・日垣隆の対談があったのでした。

渡部昇一著「楽しい読書生活」(ビジネス社)
渡部昇一著「知的生活の方法」(講談社現代新書)
井上ひさし著「本の運命」(文藝春秋)
河合隼雄著「おはなし おはなし」(朝日新聞社)

以上。雑誌を入れて5冊をむすびつけたくなりました。

井上ひさし著「本の運命」には、蔵書13万冊のゆくえが報告されておりました。
渡部昇一の日垣氏との対談では蔵書15万冊のお話となっております。
ここは、以前にも引用したのですが、もう一度。

渡部】 ・・整理しきれずに、見たい本がどこにあるのかわからず歯がゆい思いをしながら死ぬのと、新しい書庫を建てるために借金をするのと、どちらがより愚かかと考えたわけです。・・
日垣】 で、大借金を選んだ(笑)
渡部】 そうです。77歳で、また借金です。
日垣】 しかし、77歳から数億円の借金というのは普通では考えられないことです。・・・
渡部】 安い時に土地を買ってありましたから、そのへん、私が死んでも取りっぱぐれはないと銀行はきちんと計算しています。
・ ・・・・
日垣】  渡部先生はいったい何歳まで生きるおつもりですか。あっ、すいません。
渡部】 95歳までは行きたいですね。・・・


ついつい、引用してしまいました。
さて、溶鉱炉についてです。

日垣】  私はどうも調べものをしているのが好きで、調べ出すと眠らない。モノを書き出す直前はとても辛いのですが、夜中に多彩な分野の本に目を通していく作業はとても楽しい。・・・
渡部】  ・・・ハマトンは仕事がのるまで時間がかかると言います。これは溶鉱炉みたいなもので、鉄を溶かすためにせっかく高温にしていても、夜がきたからといって溶鉱炉を止めてしまうと、一気に冷めてしまって使い物になりません。また、鉄を溶かす温度まで上げようと思ったらものすごくエネルギーがいります。ですから、溶鉱炉の温度が上がったら鉄ができるまで一気に片づけてしまったほうがいい。・・・


溶鉱炉といえば、河合隼雄著「おはなし おはなし」に「下宿の溶鉱炉」という短文がありまして印象に残っております。そこから

「・・私はあまり勉強をしない学生だったが、やはり試験になるとある程度はやらないとパスできない。いつかも書いたが当時は兄の雅雄と二人で六畳一間に下宿していた。兄の方は動物学教室なのでリポートなどが多く、私のように『試験』で苦しむことは、あまりない。兄はいたく同情してくれて、私が試験勉強に集中している間は、丹波篠山の家の方に疎開してくれることになった。私は一人で下宿にこもり、『解析概論』を一日に二十ページ読むと決めて頑張る。食事のために外出するのも面倒なので、ハクサイを買いこんできて、それに少量の――貴重品である――豚肉を入れて炊く。ハクサイが少なくなると、また、新しく切って入れ、味がなくなってくると、豚肉を少し放りこむ。こんなふうにして籠城していると、兄が篠山から食物をもって陣中見舞いに来てくれた。
『おう、やっとるなあ。溶鉱炉の火は消えず!』と兄が言ったので大笑いになった。『溶鉱炉』とはうまく言ったものだ。確かにそれは消えずに燃え続け、ハクサイと豚肉はだんだんと味がしみておいしくなる。その上、それは暖房も兼ねているのである。コンロに炭火をおこして、ずっと炊き続けているのだが、今の大学生たちには想像できぬ光景であろう。この豚肉とハクサイの溶鉱炉は私の専売特許のごとくなり、いざ籠城となると、溶鉱炉の火を消さなぬようにして頑張ったものだ。
当時の私は、ともかく食物に金を使うのはもったいないと、決めてかかっていた。食べることはできる限り節約し、古本屋めぐりをして、本を買うことに心をくだいていた。欲しい本を見つけてもすぐに買えず、金がたまるまでは、見に行ってはまだあるぞと確かめる。とうとう金がたまって行くと、すでに売れていた、などということもあった。こんなふうに熱心になると、本を買うことに大きい意義を見いだすことになって、買うことに満足感があって、あまり読まなくなるものだ。しかし、『解析概論』(高木貞治)は珍しく丹念に読破したものとして忘れ難く・・・・」

さてっと、井上ひさし著「本の運命」には、本当の溶鉱炉が登場しておりました。
ちなみに、この本、図書館と井上ひさし氏との関係について辿った本としても読めるのでした。では溶鉱炉の箇所。

「昭和28年、ちょうど日本が高度成長に向おうとしていた時代です。釜石の製鉄所は次々に新しい設備を拡大し、人口もどんどん増えて、街全体がたいへんな勢いでぶつぶつ沸き立っていました。母は『釜石は東北の上海(シャンハイ)だ』なんて言ってましたけど、感覚としてはよくわかりました。
製鉄所は溶鉱炉をいったん消すとたいへんですから、24時間体制で鉄をつくってます。だから、三交代の人たちが工場に出勤したり、家に向って急いだり、町は一日じゅう人通りがたえず、いつが夜だか朝だかわからない。
図書館も24時間営業、一時間も休まない。夜中とか明け方に仕事が終わった人も、図書館にいって本を借りて家に帰ることができる。製鉄所が景気がよくて市には税金がたくさん入りますから、釜石市全体が製鉄所に奉仕しているという恰好になっていました。」(p109)

「・・・そんな時に、この図書館は、まことに有り難かった。普通、図書館の開館時間といえば、朝九時から夕方五時までというのがほとんどで、働く人は絶対いけないようになってる。ところが釜石だけはそういう事情で、いつ行っても図書館が開いてるんですね。」

こういう図書館の味を覚えてしまった井上ひさし氏が、上智大学へもどる話がつづきます。

「もう一度大学へ戻ることになりました。・・・もちろん大学には図書館がありました。釜石で感激してますから、ここも通いつめた。ところが、この上智大学図書館がひどかった。夜八時まで開いているんですけど、借りた本はそれまでに必ず返さなければいけない。返さないとバツ印がついて、次から借りられなくなる。ところが、こっちもアルバイトの都合やなんかで、そう時間通りにはいかない。遅れまいと必至で走っていくんですが、館員に厳格な人がいて、一秒でも過ぎると返却を受け付けてくれないんです。『これを受け取ってくれないと次の本借りられないんだ』って言うと、『いや、だめだ、規則だから』の一点張りで、融通が利かないんですね。八時ちょうどに鎧戸を下ろしはじめるので、下に足を突っ込んで何とか隙間から本を返そうとするんですが、逆に足を蹴飛ばされたり――(笑)。この館員に怒っている学生がたくさんいたんです。そこで、みんなで『よし、あいつに一度、泡を吹かしてやろう』と相談一決、大学図書館が一番大事にしてる本を盗んでしまおうということになった。・・・その館員は五時から来るんですね、というのは彼もアルバイトなんですよ。図書館で働いて生計を立てながら、上智の大学院で勉強している。今、考えればじつに見上げた苦学青年ですが、僕らを怒らせたのが運の尽きだった(笑)。・・・すきに、本を持ち出して、神田へ売りにいって、そのころ流行の『なんでも十円寿司』で腹いっぱい食べました(笑)。後で彼はすごく叱られたという噂を聞いて、溜飲を下げましたが、後日談を言いますと、彼はのちに有名な評論家になられました(笑)。」(~p117)


そういえば、というので今度は渡部昇一著「知的生活の方法」をひらいてみると、上智大学の図書館のことが、ここに出てくる。

「・・二年ばかり、異常な幸運に恵まれたことがある。それは海外留学から帰ってきた直後のことであった。留学中も同じく衣食を節して本を買ったのであるが、当然、東京には置くところがないので、大学宛に送った。そして帰ってくると上智大学の講師になり、志願して図書館の住込み宿直員になった。図書館のまだ空いているところに私の本を置いてもらい、同じ建物の中の夜警宿直者用の小部屋に住まわせてもらうことになったのである。普通の日は図書館は七時ころまでには閉まる。私は窓が全部閉まっているかどうか、三階建ての建物を見廻る。そして鍵をおろす。するとこの建物は私の城となった。正確に言えば、この建物にはもう一つ宿直室があり、若い哲学の研究者が住んでいたから、私たち二人の城となったと言うべきであろう。彼も読書家で議論好きで、しかも音楽に詳しかった。」(p97)


う~ん。上智大学図書館の閉館時間が、井上氏は8時に閉まるというし、渡部氏の時は7時ころまでに閉まるという、その差は、あの事件があってからなのでしょうか。

さて、もう一度「溶鉱炉」へ。
「知的生活の方法」に溶鉱炉の記述があります。
そちらを引用して終わります。

「溶鉱炉というものは、一度火を消してしまうと、再び鉄が溶けるようになるまでにするのが大変なので、どんな場合でも火を消さないようにすることを、だいいちに考えるのだそうである。ある考えをまとめようとしつつ、参考書に当ったり、書きはじめては破ったり、アウトラインを書いてみたりして、ようやく頭のエンジンが暖まって調子が出てきたな、と感ずるまでには、人にもよるだろうが、一時間から二時間かかるとみてよい。それからもう二時間か三時間、中断されることなくその仕事を続けるならば、頭は冴えてきて、その仕事に取りかかるときには予想もできないことを理解し、思いがけぬ霊感も次から次へと湧いてくるであろう。そこまでいたるには、一、二時間のウォミング・アップみたいなものが必要なので、それが中断されることは、ようやくエンジンが暖まりかけたときに水をかけるようなものであり、溶鉱炉の火をしょっちゅう消すようなものである。・・・」(p175)
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あらしが 五月の。

2010-05-08 | 詩歌
渡部昇一著「楽しい読書生活」(ビジネス社)をひらいています。
そこに愛読書について、こんな箇所。


「あなたは繰り返し読む本を何冊ぐらいもっているだろうか。
そしてそれはどんな本か。それがわかれば、あなたがどんな人か言い当てることができる――という言葉がありますが、私もまったくそのとおりだと思います。もしそうした座右の書をもっていないようなら、いくらたくさん本を読んでいても、その人を『読書家』と呼ぶことはできません。厳密に定義するなら、読書家とはやはり『生涯の愛読書をもっている人』ということになります。
『若い人が読書家になるために何かアドバイスせよ』といわれたら私はまず、この二、三年間に読んで面白いと思った本を片っぱしから読み直してみることを奨めます。そうして二度目に読んでも面白いと感じた本だけ、翌年か翌々年にまた読み返す。そういうことを繰り帰していけば、いつの間にかその人自身の愛読書(古典)ができます。
最初は面白いと思った本でも二度目に読むと、『な~んだ』と感じることがあります。また、再読してますます面白くなる本もあります。・・・」(p74~75)

さてっと、この渡部氏の本の最後に、「無人島に持って行く十冊」というのが載っております。おもしろかったのは、その続きがありまして、「無人島に一年間いるとき持って行く本」というリストが最後にありました。うん。おもわず見ると、その一冊に「シェイクスピア『ソネット集』」とありました。そこに「イギリスの詩人の一冊を選ぶとすれば、何と行ってもこれだ。」とあります。
そうか。と思って。さっそくソネット集をパラパラとめくってみる。そこから、すこし引用。
私が気にいっているのは、中西信太郎訳。
こん回、目にとまったのは、第17番~19番の詩でした。


かくして私の詩稿は 歳月とともに古びて黄色くなり
口だけ達者な老人のように 人びとからさげすまれるであろう
そして君に対する当然の讃辞も 詩人のほしいままな空想として
また昔の歌の法外な誇張の調べとして 片づけられるであろう
             (第17番)
 つづいて第18番の詩全文

君を 夏の日にたとえようか
君は もっと美しく もっとおだやかだ
あらしが 五月のかわいい蕾を散らし
夏の季節は あまりにも短いではないか

ときには 太陽の光は 暑く照りすぎる
ときには 輝く黄金の顔に 雲がかかる
こうして 自然のなりゆきや 時のはずみで
すべての美は いつかその美をそこなっていく

けれども 君の常夏の日は 色あせる時がなく
君に宿る美は 君から離れることがなく
君が冥府(よみ)の闇路をたどると 『死』に言わせることもない
この永遠の詩のなかで 君が『時』と合体するときには

ひとが生きるかぎり 眼が見えるかぎり 長く
この詩は生きて 君にいのちを与えるのだ



そして、第19番の詩の最後の2行は

   しかし 古老の『時』よ 汝がどんな危害を及ぼそうとも
   恋人は私の詩の中で 老いることのない青春を生きるのだ
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都留・鶴見。

2010-05-07 | 他生の縁
渡部昇一著「楽しい読書生活」(ビジネス社)をひらいていたら、
そこの都留重人氏がでてくる箇所がありました。

「ノーマン氏は戦後日本では絶大なる尊敬を集め、その全集は岩波書店から出ています。しかし駐エジプト大使としてカイロに赴任していた1957年(昭和32年)、コミンテルンのエージェントであることを暴かれて自殺をしています。
都留重人氏は戦前、左翼だったために日本にいることができなかったのでアメリカへ行き、ノーマン氏と親しい関係にありました。かつて私は、日本船舶振興会の会長だった笹川良一さんから英文のレポートを見せてもらったことがありますが、そのなかにour agent,Turu Shigeto(われらが工作員、都留重人)という文字があったことはいまでも鮮明に覚えています。・・・・」(p128)


さて、私は都留重人氏について、何も知らないわけなのですが、
鶴見俊輔著「言い残しておくこと」(作品社)に都留氏と鶴見氏との関係がでてきておりました。そこを引用


「私には弟子がいません。つくらない。でも、師というべき人は1人だけいる。都留重人さんです。15歳で都留さんに会ってから、一貫して彼は私の師でした。それが揺らいだことはない。最初都留さんは、『君は佐野碩の従弟だろう』というところから私に好意をもってくれたんです。」(p16)
 
 この箇所の注には

「都留重人(つるしげと・1912~2006)経済学者。旧制八高在学中に反帝同盟事件で除籍、その後米ハーヴァード大学へ。同大で鶴見氏と知り合う。戦後、カナダの歴史学者E.H.ノーマンが自殺したのは、都留証言が原因だと非難されたときも、鶴見氏は『自由主義者の試金石』(1957)を書いて、支援・擁護した。」(p17)

「佐野碩(1905~66)。演出家。鶴見氏の母愛子の姉シズの息子。左翼演劇活動にかかわる。『インターナショナル』の歌詞の共訳者として知られる。31年にソ連へ渡り、メイエルホリドの助手を務めるが、スターリンの粛清後はメキシコに亡命。当地の演劇の興隆に寄与し、『メキシコ演劇の父』と称される。鶴見氏の『グアダルーペの聖母』に『佐野碩のこと』などがある。」(p18)


ちなみに、鶴見氏は姉和子氏についても、語っておりました。

「キリスト教徒についにならなかったのは、姉の和子と私だけ。和子はどういう立場かというと、国家神道になる前の神道、つまりアニミズムなんです。彼女が南方熊楠を高く評価したのは、彼がアニミストだからなんです。熊楠は生態系を破壊するというので国家の神社合祀令に反対して牢屋に入ったでしょう。彼女もそういう立場です。和子は、アメリカにいた間と戦後の初期の三、四年は、マルクス主義という・・宗教に入っていたけれど、結局そこから離れたんです。」(p15)
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文章のイロハ。

2010-05-06 | 短文紹介
渡部昇一氏の文に、ヒルティの「幸福論」からの引用がありました。

「まず何よりも肝心なのは、思いきってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである。ところが、ある人たちは、始めるのにいつも何か足りなくて、ただ準備ばかりして(そのうしろには彼等の怠惰が隠れているのだが)なかなか仕事にかからない。」


こんな箇所がありました。
思い浮かぶのは、パーキンソンの法則のはじまりの箇所。

「・・たとえば、一有閑老婦人は、遠方の姪に一枚の葉書を出すのに、たっぷり一日を費すことができる。葉書をさがすのにまず一時間、眼鏡をみつけるのにさらに一時間、宛名をさがすのに半時間、文句を書くのに一時間と十五分、そして次の通りの郵便函まで傘を持って行くべきかどうか思案に二十分といった具合である。忙しい男が全部を三分ですませる仕事も、この方法によれば、別の人間を、まる一日の疑惑や心配や骨折りでへとへとにすることができる。・・・」


手紙が出てくると、私は清水幾太郎著「私の文章作法」から手紙の箇所を引用したくなります。

「・・・或る意味では、手紙を書くというのは、文章の修業の上で最高の方法なのですから。現代文明に背を向けることになるかも知れませんが、文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。面倒だ、というのですか。いや、本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」

う~ん。ところで、私は、どこいらにいるか。
ただ、記念切手を集めるだけで終わっております(笑)。
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ひょっこり。

2010-05-05 | 詩歌
朝日の古新聞をもらってきて、めくっていました。
すると、井上ひさしさんへの追悼文があった。
さっそくそのページを切り取り、読んでみました。
2010年4月13日文化欄。演劇評論家の扇田昭彦氏が書いておりました。
そこにこんな箇所

「作家チェーホフの生涯を描いた井上氏の晩年の音楽劇『ロマンス』(2007年初演。集英社刊)に、主人公が語る印象的なせりふがある。人間は『あらかじめその内側に、苦しみをそなえて生まれ落ちる』。だが、笑いは違う。笑いは『ひとが自分の手で自分の外側でつくり出して』いかなければならない。『もともとないものをつくる』のだから『たいへん』なのだ、と。」

もうひとつ、私が注目したのは、その下の関係者の声という箇所でした。そこに、作家の阿刀田高さんの短い言葉が載っておりました。その全文。

「座右の銘『難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに』を徹底し、その言葉通りに作品も深く、愉快でやさしく、笑っているけどまじめで、傑出した業績でした。」

そういえば、とまず思ったのは、堀口大学の詩「わが詩法」でした。たった2行。

     言葉は浅く
     意(こころ)は深く

もうひとつ、思い浮かべたのは、ほかならぬ井上ひさし氏自身の言葉でした。
それは、朝日新聞2001年1月31日の掲載されていた「朝日賞・大佛次郎賞 7人のスピーチ」にあった井上ひさし氏の言葉なのでした。そのスピーチのなかで井上氏は、エラ・ウィーラー・ウィルコックスの詩「孤独」を引用しておりました。それをここにあらためて引用してみます。

   この地球は涙の谷
   悩みごとや悲しいことでいっぱいだ
   そこで喜びはどこからか借りてこなくてはならぬ
   その借りかたは
   ・・・あまり有効な方法ではないが、
      しかしこの方法しかないので、あえていうが・・
   とにかく笑ってみること
   笑うことで喜びを借りてくることができる


 思い出すのは「ひょっこりひょうたん島」の主題歌でした。

     苦しいこともあるだろさ
     悲しいこともあるだろさ
     だけど僕らはくじけない
     泣くのはいやだ
     笑っちゃお
     すすめ
     ひょっこりひょうたん島


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漱石と落語。

2010-05-04 | 短文紹介
水川隆夫著「漱石と落語」増補版 平凡社ライブラリーを買おうとしたのですが、残念品切れ。ということで、彩流社「漱石と落語」を古本で購入。今日読了。
水川氏のあとがきには、
「筆を進めるうちに、漱石と江戸文化の関係を考えるうえで欠かせない儒学や禅についての教養が不足していることを痛感し、とりあえず主題を江戸庶民芸能、特に落語との関係にしぼってまとめることにした。」とあります、
う~ん。読後は、このあとがきの謙遜が、何とももったいない飾り文となっているような気がするのでした。落語から見た漱石という視点が、堂々とゆるがずに一冊の本となっておりまして、読みながらうれしくなる手ごたえがありました。

ここでは、最後ばかりを引用しておきましょう。
現在では、司馬遼太郎にしても、小林秀雄にしても、講演の録音を聞くことが簡単にできるのですが、もし漱石の講演録音があればなあと、思いながら読んでおりました。
では、その箇所。

「大正3年11月25日、漱石は、学習院において、『私の個人主義』と題して講演したが、その冒頭で『目黒のさんま』の話をした。
    私が落語家(はなしか)から聴いた話の中にこんな諷刺的のがあります。・・・」

「漱石が講演にすぐれていたことは、講演筆記からもうかがえ、多くの証言もある。漱石は、十分考え抜いた内容を(彼は準備不足をよく弁解しているが)、用語をきちんと定義づけ、論理的に筋道を立てて話す。はじめに滑稽な挿話などで聴衆を笑わせて引きつけ、ところどころにユーモアをはさんで飽かせない工夫などをしながら、説きすすめていく。辰野隆は、明治41年2月15日に、漱石が青年会館で行った講演『創作家の態度』について、『僕の今まで聴聞した講演では、漱石先生のこの講演の右に出るものは一つもない。・・・』と激賞している。辰野のよると、この講演のはじめに、漱石は、『先頃、或る雑誌を読んだら、夏目漱石という男は風上に置けぬ奴だ、と書いてありました。風上に置けない!全で人を糞尿船(こえたごぶね)か何かと思ってるんです。』と言って聴衆を笑わせたそうである。漱石の講演に落語を思わせるものがあることも、多くの人が指摘している。小宮豊隆は漱石の話しっぷりに三代目小さんの面影を見ている。山本笑月を兄にもつ深川生まれの江戸っ子長谷川如是閑は、『初めて逢った漱石君』の中で、『君の此の特徴の余り顕著に現れた時に、私は何時も高座の上の落語家を思ひ出した。今の落語家は余り知らないが、一時代前の円朝から円喬に至る時代の落語家の優秀なるものの態度や口調が、往々夏目君の会話や講演に現はれてゐた。・・・・・』・・・」

「如是閑は、『初めて聞いた漱石の講演』でも、
『漱石は、ざわついた会場の空気に応じた、言葉とヂェスチュアーとで先づ聴衆の心理を捉へて置いて、徐ろに話をすすめて行ったが、私の最も驚いたのは、大劇場で世話物を演ずる俳優のやうに、通常の会話風の言葉を大声で語り得る技術だった。これは今日でもまだ新劇の連中などには充分出来てゐるといはれないほど修練を要するものだが、漱石はあの座談風の言葉を二千人もの聴衆で埋めている会場に行き亙るやうに発声することが出来るのである。これには全く驚かされた。』とほめている。この発声術も、もちろん落語から学びとったものにちがいない。」

「徳田秋声も、漱石の講演集『社会と自分』を評した「夏目漱石氏の『社会と自分』」の中で、漱石の演説の巧妙なことに感嘆したことを言い、『文章に於いてのみならず、――いな或いは文章以上に、氏は、その江戸っ児たる本色を舌の上に発揮してゐる。自分は、それを読みながら、生粋の落語家を連想せざるを得なかった。』と書いている。」



うん。これが本の最後の方だけを引用したのでした。
実際の本の内容は、丁寧でもっと充実してますよ(笑)。
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弔辞と伝記。

2010-05-03 | 他生の縁
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)
丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日文庫)

と二冊に補助線をひきたくなります。


「挨拶はたいへんだ」は丸谷才一氏の挨拶文を綴じた一冊。
その最後に、井上ひさし氏との対談「スピーチでできること」というのが載っております。そこに一読忘れられない箇所がありましたので、重複をいとわずに引用。


 井上 これは評伝として素晴らしいんじゃないですか。
 丸谷 あ、そうですか。なるほど、弔辞は伝記なんだ。
 井上 ・・・小さな伝記として、とてもいいなと思いました。
    こういうものでたくさんの人の伝記があったらいいな
と思うくらい、いい伝記ですね。
 丸谷 たしかに、弔辞は一種の総決算ですからね。
 井上 その人の一生を、スピーチする人の立場から、
    ひとつの伝記にして総括するわけですものね。
 丸谷 ひさしさんと話していると、
    気がついてないことがいろいろ
    わかってきたなあ。
 井上 丸谷さんは、こうして、挨拶まで文学にしてしまわれた。
    すごいことですね。人間好きで、優しくて、陰謀や計算に向かない、
    あけっぴろげで、楽しそうに笑っている
    丸谷さんの姿をこの本に感じます。


さてっと、「思い出袋」にある「弔辞」という文の、ひとつ前は「あだ名からはじめて」という文でした。そのなかに、ある人が聞いた話が載っておりました。


「・・イギリスからアメリカにきた司書に、イギリスの伝記のすぐれていることにふれると、『歴史というものは伝記です』という答えが彼女から返ってきたという。こういう共通感覚が、イギリスにはあるのだろう。伝記を小伝に、小伝をあだ名に煮つめてゆくと、人間認識が蒸留されて、老人用の記憶に貯えられる。」

「私が日本に戻ってきて大学に就職してから、ホッブス、ルソー、マルクス、レーニンと段階的に進歩してゆくことが共同研究各人の前提となっているのに当惑した。伝記には、歴史から落ちこぼれる部分があるのではないか。」


このあとの文が「弔辞」でして、そのはじまりが

「吉本隆明の『追悼私記』(JICC出版局、1993年)を読んで・・・」とはじまっておりました。


そして、「弔辞」のあとの文は、
70年たって覚えている、小学校の校長先生の話へとつながっているのでした。
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文学理論家漱石。

2010-05-02 | 短文紹介
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)に
弔辞という文がありまして、そのはじまりは
「吉本隆明の『追悼私記』を読んで、『あとがき』の一節が心にのこった。」
とあります。う~ん。それじゃ。ということで『追悼私記』を、パラパラとめくっていると、そこに三浦つとむ氏のついての文があり、そこで夏目漱石へと言及している箇所があったのでした。

まあ、とりあえず、その最初の箇所から引用してみます。
そこでは、主人と客との対話形式で書かれておりました。
「主 : 十月二十七日未明に三浦つとむが亡くなった。回想して哀悼の意を表しておきたいね。・・・『試行』の執筆者であり、協力して校正などに身を入れてくれた時期もあり、重要な存在だった。・・つまらぬ組織的野心など発揮しようとせず、いかにも愉しそうに原稿を書き、鼻歌をうたいながら愉しそうに校正などやっていた姿が、眼にうかんでくる・・・」

「客 : ・・・おれはこの人の漱石を論じた文章がいちばん好きだったなあ。漱石は文学とはなにかを科学的につきつめていって、じぶんのつきつめた(あるいはつきつめきれなかった)文学理論をじっさいに作品で試みるために小説を書きはじめたという見解を、漱石の文学の動機に挙げたのは、おれの知っているかぎり三浦つとむだけだよ。おれはおもわずハッとしたね。これはものすごい卓見で、ほんとうにそうだったかもしれない面を、漱石の文学はもっている。漱石の作品にはどこかしらに【問題】小説(プロプレマテイク・ノベル)の面があって、それが講談調になってみたり、推理小説風になってみたり、観念の長口舌を登場人物がやってみせたりというところに、あれわれている。意識的か無意識的かは別として、文学理念が先にあって創作はそれをためしてみるための手段だという面があったからだといえなくない。三浦つとむのこの漱石観には、謎解きの論理に熱中したところから、しだいに哲学に踏みこんだじぶんの体験と、芸術理論家としての知見とがとてもよく発揮されていた。三浦つとむの文章のなかでいちばん文学的な文章だったとおもうな。
主 : おれもあの文章は好きだったな。・・・・・
たしかに三浦つとむの漱石観はおもしろかった。『文学理論家が小説を書くようになった』のが漱石だといっている。漱石の文学をそう解した批評はないよ。・・・」

う~ん。興味深い。興味深いけど、私はここまで、これから先は買わないよ(笑)。
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漢詩を読む。

2010-05-01 | 詩歌
平凡社「漢詩を読む 1」宇野直人・江原正士著を読了。
といっても軽く読み流した程度。

それでも、手ごたえはあり。
最後に陶淵明の箇所(p325~411)がありますが、
そこだけを読んでも読み応えは十分。
ですが、「詩経」からはじまる詩の歴史的変遷を、時代や政治状況をからめながらの説明がつづくのを、順を追って読む進めば、漢詩の歴史の厚みに、詩のたどる道筋めいたことへと読者の興味はいざなわれてゆくのでした。

たとえば、ちょうど本文の中頃に、三国志の立役者・曹操(そうそう・155~220)が登場する箇所があります。そこに徐幹(じょかん)という人を語ってこうあります。

「政治的な見識が高くて詩人としても優れていたのに、わざと平凡な詩を書いて曹操の目を逃れた、こういう生き方を試みた人は当時、多かったんでしょう。中国の知識人は、日本とは少し違って常に政治の現場とコンタクトがありましたから、生き延びるのも大変だったと思います。」(p240)

こうして、この本のはじまりの「詩経」では、地に足がついた感じがする初期の詩を語って「繰り返しが多いですよね。この歌は職業詩人が書斎で作ったものではなく、農村でみんなが歌い踊って楽しんだもの。繰り返しのリズムは歌いやすく、覚えやすいでしょう。」(p19)「不思議なんですが、『詩経』の歌を読んでいると、気持が大らかになって、歌の中にとけこんでゆくような。そんな力があるんですね。・・・日本で言えば『万葉集』の存在に近いかも知れませんね」(p21)とある。
そして、この本の前半部の最後には、こうも語っているのでした。

「詩といえば、われわれは『詩人が胸にあふれるロマンを書き付ける抒情の文学』というイメージを思い浮かべますが、中国の詩は出発点からちょっと違って、事柄や心を『記録して伝える』要素が強いような気がします。記録文学と言うのかな。後世では杜甫などに顕著です・・・・」(p196)

さて、このあとに曹操が登場するのでした。その人をかたって
「曹操は戦場にいても、閑な時は武器を脇に置いて本を読み、詩を作る人でしたし、その息子たちも、政治や文学にたいへん優秀な才能を持っていました。うち四男の曹植(192~232)は、実は杜甫が出るまでは中国最高の詩人として尊敬されていた大詩人なんです。ところが優秀な息子たちゆえに後継者争いが熾烈になり、彼はそれに巻き込まれてまことに不運な人生を送りました。」(p206)

こうして、この本の中頃からは、政治色と詩との関連として、漢詩が読み解かれてゆくのでした。たとえば詩人であり政治家だった張華(ちょうか・232~300)を取り上げた箇所には、こうあります。

「実際は天下国家のために奔走しましたので、その気になれば詩の中でも、いくらでもそれを論じられたでしょうし、そうしたかったと思うのですが、彼は結社のリーダーで大勢の配下がいます。そんな立場で天下国家を論じる詩を作って睨まれれば、グループのメンバーも殺される可能性があります。だからこちらの方向に進まざるを得なかったのではないか。或いは、彼は王朝交代期の権力闘争やその醜さ、世の移ろいを多く見て来ました。だから、それを今さら詩に持ち込む気になれなかったのかも知れません。ますらおぶりではなく、たおやめぶりの詩ですから・・・・」(p270)


こうして、政治色、地域性、古典としての詩経、論語の影響と、さまざまを勘案しながらの411ページ。最後の陶淵明の詩も「帰去来の辞」の「帰りなん いざ/田園まさにあれんとす」から、いざ帰って農業をし始めた苦労の詩を並べてゆく手際にも、透徹した漢詩理解への水先案内となっております。

漢詩を目で追いながらだと、それなりに時間がかかるのですが、それはそれ、この二人の語り口が、漢詩の歴史の流れを語って飽きさせない見識をみせてくれております。


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