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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

狼の口上『永久御懇意なるべし』。

2015-08-16 | 朝日新聞
産経新聞8月16日の一面が興味深い。
朝日の社説を、産経の一面で紹介しております。
朝日の社説など読まない私には、興味深く、
ありがたい(笑)。


「戦後70年の安倍晋三首相談話発表から
一夜明けた15日、新聞各社は社説で論評した。
『この談話は出す必要がなかった。
いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う』
こう断じたのは朝日新聞だった。・・」


うん。これで十分。
朝日が『出すべきではなかった』
という戦後70年談話。つまり、
朝日新聞の社説が、強く消し去ろうとする、
この談話こそ、ていねいに読まなければ、
と思う。

さてっと、産経新聞3面には
古森義久氏の連載「あめりかノート」。
そのはじまりは

「いまの日本では『平和』という言葉が
暴力的な効果をも発揮するようである。
より正確に述べるならば、『平和』が
日本の国民や国家を守ろうとする努力を
破壊する政治的武器に使われる、
という印象なのだ。」

すこし先には、こうあります。

「日本でとくに8月に語られる『平和』は
単に『戦争のない状態』を指すといえよう。
平和の内容が決して論じられないからだ。
戦争さえなければ、他国に支配された
『奴隷の平和』でもよいのか。
自由も人権も民主主義もない平和でもよいのか。」


ということで、夏休みの子どもに読ませたい本は、
昨日に続いて「イソップ寓話集」。

塚崎幹夫訳「新訳イソップ寓話集」(中公文庫)


「  旅人とプラタナス

夏の真昼ごろ、太陽の暑さに疲れた二人の旅人が
プラタナスを見つけてその枝の下に逃げ込み、
木陰に横になって休んだ。ところでプラタナスを
見上げた彼らはたがいにいいあった。
『これは実がならなくて人間の役に立たない木だ』
プラタナスが沈黙を破っていった。
『恩知らずな人たちよ。いま現に私の恩恵をこうむって
いながら、私のことを役立たずだの不毛だのと
よくいえたものだ』
・・・・・・・・・・」(p182)

p215には「隠された意図を見抜く」と題して

「   オオカミと羊の群れと雄羊

オオカミが羊の群れに使者を遣って、
犬を自分たちに引き渡して殺させるという条件で、
永続的な講和を結ぶことを申し入れた。
ばかな羊たちはそうすることに同意した。
しかし、年とった雄羊が叫んでいった。
『どうしておまえたちを信用して
いっしょに暮らすことができようか。
犬たちに守られていてさえ安心して
草を食べることができないのに』

和解できるはずのない敵の約束を信じて、
われわれの安全を保証しているものを
手放すようなことがあってはならない。」(~p216)


選挙権がある成人が読むとしたら、明治6年の渡部温訳。
ここでは、平凡社東洋文庫の
渡部温訳「通俗伊蘇普物語」から引用。


「  狼と羊の話

或時狼の方より。羊の方へ使者以て申入る口上に。
『いつまでも御互に斯讐敵(かくあたがたき)の
思(おもひ)を為し申(まうす)べき。
畢竟(ひつきょう)御辺の方に彼犬と申奸奴(わるもの)
があつて。我等共を吠罵り候故。とかく騒動を
引起し申なり。願くは彼犬どもをすみやかに追のけ給へ。
然る上は交際に付。以後いささかも故障なく。
永久御懇意なるべし』とありければ。
羊は何の気も付(つか)ず。
狼の言理(こともつと)もなりと。
直に犬を追出すと。
其後は護るものがなくて。
数多(あまた)の羊一疋も残らず。
皆狼に喰(くはれ)けるとぞ  」(p72)


通俗伊蘇普物語では
『永久御懇意なるべし』という狼の口上。
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戦後70年談話とイソップ寓話。

2015-08-15 | 本棚並べ
今日の産経新聞一面のトップ見出しは、
「『謝罪』次世代に背負わせぬ」。
同じ一面に櫻井よしこ氏の評価を載せており、
その評価から少し引用。

「第一に、戦後の日本に対する世界の支援に
深く感謝し、子や孫たちに『謝罪』を続ける
宿命を背負わせないよう明記している。
『侵略』という言葉を使ったが、一人称ではなく
歴代政権の姿勢として、国際社会の普遍的な価値観
としての言及だったのは、非常に良かったと思う。
・・・・・」

「次世代に背負わせぬ」という言葉が気になって、
本棚からイソップ寓話の本を取り出してくる。
さがすと「オオカミと子羊」と題したお話がある。

以下に3冊より順次引用していきます。
まず、塚崎幹夫訳「イソップ寓話集」(中公文庫)
つぎ、河野与一編訳「イソップのお話」(岩波少年文庫)
最後、大塚光信校注「キリシタン版エソポ物語」(角川文庫)

「   オオカミと子羊 

子羊が川で水を飲んでいるのを見たオオカミは、
この子羊を食べるのを正当化するために何か
うまい口実を見つけたいと考えた。そこで、
オオカミは自分は川上にいたのに子羊に、
おまえは水をにごらせておれが飲めないようにしている
と文句をつけた。子羊は、ぼくはくちびるの先で
飲んでいるだけだし、それに川下にいるのだから
川上の水をにごらせることはできないと答えた。
ねらいがはずれたオオカミはふたたびいった。
『しかし、おまえは去年おれの親父に恥をかかせた』

『ぼくはそのころにはまだ生まれてさえいませんでした』
と子羊は答えた。
オオカミはいった。
『おまえがどんなに上手にいいわけをしようと、
おれがおまえを食うことに変わりはないぞ』

悪いことをしようと決めている人たちに対しては
どんな正しい弁解も効果がない、
ということをこの話は教えている。 」(p201)


つぎに岩波少年文庫の河野与一訳を引用


「  オオカミと子ヒツジ

オオカミが、川で水をのんでいる子ヒツジを見て、
なにかもっともらしい理くつをつけてたべてしまおう
とおもいました。そこでじぶんは、川上のほうにいるのに、
子ヒツジがにごらせたものだから、水がのめなくなったと、
もんくをいいました。そこで子ヒツジは、
じぶんは口さきだけでのむのだし、
それに川下のほうにいるのだし、
川上の水をにごらせるはずはないといいますと、
オオカミは、はぐらかされたので、
『しかし、おまえは去年、おれのおやじの
わるくちをいったじゃないか。』と、いいました。
子ヒツジが、そのころは、
まだ生まれていなかったといいますと、
オオカミは子ヒツジにいいました
『いくらおまえがうまくいいぬけをしても、
やっぱりおまえをくうことにする。』
人をひどいめにあわすために理くつをつける人には、
いくらいいわけをしてもなんにもなりません。」
(p80~81)


最後に1593年、天草で刊行された
イエズス会宣教師によるイソップ物語の口語訳から
引用することに。

「 狼と、羊の譬への事。

ある川端に、狼も羊も水を飲むに、
狼は川上に居、羊の子は川裾に居たところで、
かの狼この羊をくらはばやと思ひ、
羊の傍に近づいて云ふは、
『そちはなぜに水を濁らいで、わが口をば汚いたぞ』
と怒ったれば、羊の云ふは、
『我は水裾に居たれば、なぜに川の上をば濁そうぞ』と。
重ねて狼の云ふは、
『おのれが母、六か月前にも水を濁らしたれば、
いかでかその罪を汝はのがれうぞ?』。
羊の云ふは、
『その時は未生以前の事なれば、さらにその罪我に当らぬ』。

また狼より云ふは、
『汝また余が野山の草をくらうた。
これまた重犯なれば、なぜにのがそうぞ?』。
羊答へて云ふは、
『我はまだ年にも足らぬ若輩でござれば、
草を食むこともまだござない』と。
重ねて狼、
『汝はなぜに雑言するぞ』
と大きに怒ったれば、
羊の云ふは、
『我はさらに悪口を申さぬ。
ただ咎(とが)のない所謂(いわれ)を申すばかりぢゃ』と。
その時、狼
『所詮問答は無益ぢゃ。何であらうともままよ。
是非におのれをばわが夕飯にせうずる』と云うた。
これを何ぞといふに、
道理を育てぬ悪人に対しては、
善人の道理と、その謙(へりくだ)りも役立たず、
ただ権柄ばかりを用ゐうずる儀ぢゃ。」
(「キリシタン版エソポ物語」角川文庫p50~51)



昨日の安倍晋三首相による
戦後70年談話は、テレビ録画してあるので、
あらためて再生してみます。
というのも、
今日のテレビニュースだけ見るならば、
なんだか、狼の言い分ばかり声高に紹介され、
どうしても、
子羊の言い分が断片的で、道理の筋が確認できない。

テレビニュースが、せめて
イソップ寓話の爪の垢でも煎じて飲んでくれたなら。
現代版「狼と子羊」の全体像が、
国民にも、分かりやすく報道されるのに。
そう、私は思う(笑)。





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本をして語らしめよ、お前は語るな。

2015-08-14 | 温故知新・在庫本
ここ数日、パソコンわきに、雑誌
BRUTUS2013年6月15日号
「古本屋好き。」を置いて、
ときどきぱらり(笑)。

いながらにして全国の古本屋125店を
めくれる楽しみ。

お店の本棚にかこまれて、
たたずむ店主の姿がまぶしい。
うん。これを見ちゃうと、
本棚だけの写真の味気なさ(笑)。



「古書目録は、店主の心意気を語るもの。
・・目録作りで自戒とする言葉は、
『本をして語らしめよ、お前は語るな』。
精読に基づく引用で本を語り、
いかに効果的に並べるか。そして
古本に新たな価値を与えて送り出す。」
(p85)

これは、月の輪書林さんの言葉。


昨日は、我が家の在庫本
「幅書店の88冊 あとは血となれ、肉となれ。」
が見つかったので、この雑誌の近くに置くことに(笑)。





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気兼ねしながら発言していたことはいうまでもない。

2015-08-13 | 書評欄拝見
加藤秀俊著「メディアの展開」(中央公論新社)。
この新刊をどう読むか?
とりあえず、まずは最後の第十二章を読む(笑)。
注で気になった
深川区史編纂会編「江戸深川情緒の研究」を
ネット検索したら800円ぐらいで手に入りそうなので
さっそく注文する(笑)。


第十二章では、
ここを引用することに。

「わたしじしん、そのマルクス主義歴史学全盛の1950年代に
学生生活をおくった人間だからそのことを身をもって体験し
ている。とにかく、労働者・農民と連帯し、プロレタリアート
革命を実現しなければならぬ、という使命感に燃えた学生たち
は『山村工作隊』という実行部隊として全国あちこちの農村に
送り込まれ、警察と対峙した。わたしの身辺にも逮捕者がすく
なくなかった。その革命思想と行動は、紆余曲折をへて1970年
代の学園紛争をふくむ左翼運動でのゲバ棒さわぎにまでつながった。
ついこのあいだまでの日本の若者たちが『革命』の必要性を信じ、
ときに『武闘』をも辞さなかったのも、その根源をさかのぼれば
日本の『近代化』についてマルクス主義教育がゆきとどいていた
からであった、とわたしはおもっている。いまは知らず、日本の
おおくの大学の人文学、とりわけ歴史学の教授たちがこの一連の
学生運動に同情的な立場をとり、ときには煽動していたことを
わたしなどの世代は体験してきた。・・・・
『進歩的文化人』とよばれるひとびとが・・・
かれらの大部分がマルクス主義者、そのシンパであり、
すくなくとも左翼思想に気兼ねしながら発言していたことは
いうまでもない。・・・」(p558~559)


注に
辻善之助著「田沼時代」(岩波文庫)がある、
我が家の未読文庫を探すと出てくる(笑)。





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斃れし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり。

2015-08-12 | 朗読
本を読んで、しばらくすると、
もう一度読んでおきたいと
思う箇所があります。ひょっとすると
そんな箇所は、朗読にふさわしいのじゃないか。


渡部昇一著「朝日新聞と私の40年戦争」(PHP)
最後の第5章「日本人の名誉にかけて捏造報道と戦う」。
そのはじまりを、私は朗読したくなります。


「『朝日新聞』の捏造記事で『従軍慰安婦』という
言葉が広まったとき、私は『そんなものはない』と
即座に言いました。・・・・
『従軍』というのは『軍属』です。
軍属とは陸海軍に正式に所属する、軍人以外の人たち
のことで、階級区分もありました。たとえば
従軍看護婦、従軍僧、従軍記者、従軍画家などは軍属です。
私は『従軍慰安婦』と聞いた途端、
『従軍看護婦の歌』を思いだしました。
今でも全部そらで歌えます。

一、火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず
  吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色

二、わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ
  斃れし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり

三、やがて十字の旗を立て 天幕をさして荷いゆく
  天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人

四、真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り
  まくや繃帯白妙の 衣の袖はあけにそみ

五、味方の兵の上のみか 言も通わぬあだ迄も
  いとねんごろに看護する 心の色は赤十字

六、あないさましや文明の 母という名を負い持ちて
  いとねんごろに看護する 心の色は赤十字


『従軍看護婦』にはこんな尊い歌があるのに、
『従軍』に『慰安婦』をつけるとは何事か、
と私はカッとなりました。
これが『慰安婦問題』に対する私の最初の怒りです。」

以下には『女子挺身隊』についての
言葉の指摘が続き、そちらも引用したくなります。
が、興味をお持ちの方は本へ(笑)。
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八幡(やはた)の藪知らず。

2015-08-11 | 前書・後書。
気になっていた新刊の
加藤秀俊著「メディアの展開」(中央公論新社)を
買うことに(笑)。
前著の「メディアの発生」が印象深く。
前著を読み返そう思っているうちに
新刊が出ておりました。


全613頁。定価3300円+税。

はい。とりあえず「あとがき」をひらく。


「・・・こんどは現代の日本語能力でちゃんと
理解できる江戸期の書物を読むだけだから気軽に
できるだろう、とおもったが、手をつけてみると
さにあらず。たいへんな作業であることがわかった。
なにしろ読みたくなる本が数かぎりなくある。
わたしの書斎に整列している『日本随筆大成』だけ
だってその『続編』までいれると八十冊ほど。
それに『燕石十種』や三田村鳶魚『未刊随筆百種』
などの背表紙が書棚に幅数メートルにおよんで
こっちをにらみつけている。どれをとってみても
おもしろそうだし、読まなければ江戸時代は
わかるまい、という気分になってしまう。
一冊を読むと関連した本がでてくるし、
ひとりの人物に出会うと、まるでフェイスブック
をながめているようにその友人知己が登場してくる。
たいへんな迷路である。八幡(やはた)の藪知らず
にまぎれこんだようなものだ。
だが、さいわいなことにここまで馬齢をかさねた
隠居になってみればヒマだけはじゅうぶんにある。
だから気が向いたときに手当り次第、という読書や、
それに誘発されて旅にでたりしながら執筆するという
生活をつづけることにした。そんな毎日をすごして
いるうちに五年という時間が流れてしまった。
その結果できあがったのがこの本である。」
(p609~610)

ちなみに、
「ここまで馬齢をかさねた隠居になってみれば」という
加藤秀俊氏は1930年(昭和5年)東京生まれ。
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時流に阿(おもね)らず。

2015-08-10 | 道しるべ
渡部昇一氏の新刊2冊。
「朝日新聞と私の40年戦争」(PHP)
「戦後七十年の真実」(育鵬社)
そのどちらにも、
小泉信三氏が登場します。
ちなみに、
久保田万太郎を読んでいても
小泉信三氏が登場します(笑)。

ということで、
すこし引用を重ねることに。

まずは、
伊藤正雄著「福澤諭吉論考」にある
「小泉信三博士の福沢論(1966)」。
伊藤正雄氏は、こう指摘しておりました。


「広汎な博士の全著作の中で、福沢論が占める率は
さまで大きいものではないであろう。しかしながら、
近年博士ぐらゐ頻繁に且つ熱心に福沢諭吉を語った
学者はおそらく類がなかったと思ふ。けだし天下に
誇るべき慶應義塾の伝統、福沢精神の発揚を以て
終生の使命とされてゐたのであろう。福沢先生自身、
『大切な問題は、世間に一度や二度訴へただけでは
駄目だ。何度でも繰返せ』と言はれたといふ。
事実『時事新報』の論説などを見ても、重大な主張は
再三再四反復された跡が著しい。
博士の福沢論もまた同様の観があった。
その福沢論は、専門の福沢学者のやうに、新資料の
発見や、事実の考証に力を注ぐよりも、
『学問のすすめ』『文明論之概略』『福翁自伝』
以下、主要な文献に基づいて、この巨人の真面目を
正しく国民に伝へ、福沢精神の骨髄を以て日本再建の
指針たらしめようとする道義的、経世的気概に満ちて
ゐたやうに思はれる。・・・・・
直接福沢諭吉を説かなくても、その精神に立脚した
文章はもとより少なしとしない。
社会思想の問題でも、道徳問題でも、防衛問題でも、
はたまた国語国字問題でも、あへて時流に阿らず、
あくまで自主的な中正の態度と、健全な伝統主義とを
貫かれたのは、やはり福沢先生の気骨と良識、および
燃えるやうな祖国愛の精神が血肉となってゐたからであろう。」
(p551)


小泉信三氏が登場するのは、
「戦後七十年の真実」ではp49。
「朝日新聞と私の40年戦争」ではp63。

ここでは、
「朝日新聞と私の40年戦争」から引用



「『朝日新聞』の虚構報道でデッチ上げられた
『渡部昇一はヒトラー礼賛者』であるという
とんでもない烙印は容易に消えず、私はしばらく
『全体主義の手先』といった扱いを受けることに
なりました。それでも、心ある人たちは
『検閲機関としての「朝日新聞」』を読んで、
私に賛同し応援してくれました。ですから、
私に反駁の機会を与えてくれた安藤氏には
本当に感謝しています。
安藤氏は小泉信三先生の信奉者です。
私も小泉信三先生をたいへん尊敬しています。
とくにサンフランシスコ条約を前に、
『単独講和か全面講和か』という議論で日本中が
沸騰していたとき、小泉先生が世に蔓延る
全面講和論者に論戦を挑んだ論文を読んで、
学生だった私は非常に感激しました。小泉先生は、
『単独講和』とは西側陣営との『多数講和』であり、
『全面講和』はその多数にソ連と僅かな衛星国を
加えたものにすぎない、そのような全面講和に執着して、
日本が占領されたままでいいのかと、
毅然として多数講和を主張されました。
当時、有名な学者で全面講和に反対した人は、
小泉先生以外にはほとんどおられませんでした。
以来、私は小泉先生を尊敬しており、
先生について何度か書いたことがありますし、
安藤氏と語り合ったこともあります。そして同じく
小泉信三先生を尊敬する者として、安藤氏は
私を思想的に近い人間であると見做してくれた
のではないかと思っています。」



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ハイエク先生の教え。

2015-08-09 | 朝日新聞
この夏、ひさしぶりに(笑)、
渡部昇一氏の新刊を2冊購入。

以前には、出るたびに購入していた
時期がありました。
その際に、どうして同じようなことを
語るのだろうと、私は身銭を切っているので、
つまんないことで気になっていた時期が
あります(笑)。

さてっと、
そのことで、納得がゆく箇所を
新刊から、ひろってみます。

「新聞の報道は、言論や意見とは
まったく次元の異なるものです。・・
同じ新聞でも学芸欄の署名入りの記事などは
言論として、また意見として受け取られます。
だから読者の数は格段に少ない。また、書いた人
の意見として読まれているのですから、
『そういう意見もあるんだな』という受け取り方に
しかなりません。社説も、やはり意見として
受け取られます。しかし、報道は事実として
受け取られる。これは決定的な相違です。」


これは、「朝日新聞と私の40年戦争」の
朝日新聞からの宣戦布告の箇所なので、
具体的な箇所を引用していきます。

「特大の活字で『大西巨人氏VS渡部昇一氏』と
いう見出しが掲げられ、私と大西氏との間で
劣悪遺伝の問題をめぐって論争が展開された
ことになっていたのです。社会面の三分の一
ぐらいのスペースでした。」(p50)

「しかし、そのような事実はまったく存在しません。
この報道がなされるまで、大西氏は私のエッセイに
反論を書かれたこともなく、他のメディアで反論を
述べられたこともありません。社会的事件としては
何も存在していなかったのです。・・・つまり、
『朝日新聞』は完全に捏造の報道を行なったのです。
『朝日新聞』の報道に続いて、これと関係のある
記事を掲載したのは『毎日新聞』だったようです。
しかし、大新聞でもまったく言及しないところもありました。
・・・やはり『朝日新聞』の記事を見たときはびっくり
したそうです。それで私のエッセイと大西氏の反論を
見比べようとしたところ、大西氏のものは存在しなかったので、
『朝日新聞』の記者のデッチ上げと察して、フォロー
しなかったのだといいます。
『毎日新聞』がその程度のチェックもしない新聞である
ことは、記憶にとどめておいてよいでしょう。」(p51)


「新聞の報道は、言論や意見とは
まったく次元の異なるものです」(p55)

「したがって『朝日新聞』が私に仕掛けた
虚構報道のように、報道と言論を対立させるなら、
ダンプカーと三輪車の衝突のようなことになりやすいのです。
社会的インパクトが比較を絶しているからです。・・
言論を報道のスタイルで叩くことは、最も卑劣な、
新聞による検閲行為なのです。」(~p56)


「当時は新聞に書かれれば書かれっぱなしで、
個人が反駁する手立てはほとんど皆無でした。」

「最大の恩人は文芸春秋の安藤満氏だと思っています。
・・・私が『朝日新聞』に叩かれていた当時は
『文藝春秋』本誌の編集長でした。その安藤氏が
私に反駁の機会を与えてくれたのです。そこで私は
『検閲機関としての「朝日新聞」』という論文を書き、
『文藝春秋』(1981年7月号)に発表しました。」

「少なくとも上智大学の教職員は、当事者が同僚だけに、
この件に関心を持っていたのでしょう。その多くが
私の論文を読んでくれたようです。ただ、『文藝春秋』を
読んで私に対する誤解を解いてくれたのは、一握りの
インテリ層にすぎないのも事実です。
『朝日新聞』の虚構報道でデッチ上げられた
『渡部昇一はヒトラー礼賛者』であるというとんでもない
烙印は容易に消えず、私はしばらく『全体主義の手先』と
いった扱いを受けることになりました。」


「私が『朝日新聞』の標的にされたとき、
『朝日新聞』は『凶悪』という以外に
言いようがないと思いました。
私は『朝日新聞』に、社会的に殺されかけたのです。
・・このとき私は、『これからは本当のことを
ズバズバ言って、徹底的に「朝日新聞」を批判しよう』
と決心したのです。
私は1960年代、何度か来日されたフリードリッヒ・A・
フォン・ハイエク先生の通訳を務めていました。・・
そのハイエク先生の言葉で印象に残っているものがあります。
『われわれはソ連から学ぶべきことは何もない。
ただ一つあるとすれば、左翼は絶えず繰返すことを厭わない
ーーこれは真似るべきである』
ソ連が休まず自由主義諸国の批判を続けるのだから、
われわれもソ連批判を休むことなく続けなくてはならないと
いうのです。実際、ハイエク先生はそれを実践し、
1992年、ソ連の崩壊を見届けて亡くなりました。
私もハイエク先生の教えに従って、休むことなく
『朝日新聞』を批判し続けようと決心しました。」(~p66)






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金もあまりないだろうし。

2015-08-08 | 短文紹介
「新潮45」2015年7月号の
青山繁晴氏の文に

「昨年夏、わたしはワシントンDCを訪れ
『中国は反日という目的ひとつに、
米国内だけで年間約1兆円の工作費を使い、
韓国の反日資金もそれに依存している』
という情報をアメリカのインテリジェンスと
突き合わせ、確認した。・・」(p101)

という箇所がありました。
渡部昇一著「戦後七十年の真実」(育鵬社)
をひらいていると、小説家のエッセイが
引用されている箇所があり、
青山繁晴氏のこの箇所と同じように、
気になりました。以下に引用。


「私は偶然読んだのですが、
小説家として人気のあった吉屋信子のエッセイ
の中にこんなことが書かれていました。
彼女と菊池寛が京都に汽車で旅行をしていたときに、
菊池寛が『今度の選挙は社会党も苦しいだろう。
金もあまりないだろうし』と口にしたそうです。
すると、『何を言うか!』と、いきなり
在日コリアンとおぼしき連中に取り囲まれた
というのです。彼らは『社会党には金があるぞ。
俺たちはいっぱい出しているんだ』とすごみ、
吉屋信子は非常な恐怖感を味わったというのです。
これは在日コリアンから社会党系に金が流れ込んで
いたことを示す非常に興味深い話です。
こういうコリアンとの深い関係があったために、
社会党が全面講和にこだわり日本の独立に反対した
と考えるのはごく自然なことでしょう。
そして、この構図はこの前の民主党政権にまで
続いているのです。民団(在日本大韓民国民団)は
民主党支持を明かにしていますし、民主党も
わざわざ党を挙げて支援のお礼に行っているのです。
さらに旧社会党系統の人たちは今も憲法改正に
反対していますが、これも在日コリアンに配慮して
のことでしょう。・・・・
社会党系の人たちが憲法改正に反対なのは
今に始まったことではなく、
単独講和と全面講和の論争にまで遡る話なのです。
彼らはもともと日本の独立を望んでいないのです。
この事実は戦後の歴史を知るときに絶対に
忘れてはならないことです。」
(p53~54)
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夏場に人間は成長すると思うんです。

2015-08-08 | 短文紹介
ビデオに録画してあった
プロフェッショナル仕事の流儀
「日本アニメを背負う男 細田守の300日」
を早送りで見ていたら、録画の半ば前頃に
入道雲の映画の場面をいろいろと
映し出しての、細田守氏の一言。

「だからなんか
 夏場に人間は成長すると思うんです」

と語っている場面がありました。
テレビで一回見ただけだと、
このセリフも、あやふやになるのですが、
そこはそれ(笑)、録画は再生可能。
気になって、このセリフを
昨夜は探しておりました(笑)。

いたいなあ。
この夏、私は手紙を書かなかった。
ということで、今日は立秋。
暑中見舞いを出そうと思ったまま、
もう、コヨミの上では残暑見舞い。
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名の知れた学者で、全面講和に反対した人はほとんどおられませんでした。

2015-08-07 | 道しるべ
渡部昇一著「戦後七十年の真実」(育鵬社)
をひらいて、サンフランシスコ講和条約の箇所をみる。
以下、そこからの引用。


「サンフランシスコ講和条約の署名が行われるときに、
当時の吉田茂首相は、サンフランシスコ講和条約が
日本の独立回復のための条約であることから、
各党の党首に党派を超えて『一緒に調印しましょう』
と呼びかけました。ところが、日本共産党と
日本社会党の二つの党は反対しました。
当時の共産党はソ連の支配下にあるようなものでしたから
反対するのはしかたがないのですが、問題なのは
野党第一党の社会党がなぜ加わらなかったか
ということなのです。
このとき『単独講和か全面講和か』という議論がありました。
単独講和とは講和条約参加国と個別に条約を締結するという意見、
全面講和とは参加国すべてと条約を締結するという意見です。
一見、全面講和のほうが単独講和よりも理屈が通っている
ように感じられるかもしれませんが、当時は東西冷戦が激しく、
朝鮮戦争で火を噴いている時代ですから、アメリカとソ連が
一緒に講和条約を結ぶ可能性はゼロでした。また、
講和条約そのものが日本を自由主義社会に組み入れるものですから、
ソ連が賛成するわけはなかったのです。
実際、講和条約に反対し署名をしなかったのは
参加した52か国の中でソ連とポーランドとチェコスロバキアだけ
でした。アメリカ主導の講和会議に反対したのです。
いずれも共産圏の三か国です。その他の国は
アメリカやイギリスと一緒になって日本と講和条約を結びました。
ですから全面講和ではないにしても絶対多数講和だったのです。
占領下で特別有利な地位を得た知識人たちのことを私は
『敗戦利得者』と呼んでいますが、この人たちは
全面講和に賛成するということで立ち上がりました。
その象徴的なリーダーは当時の東大総長の南原繁であり、
全面講和推進の知識人が集まる総本山が岩波書店でした。
これに反対して単独講和を支持したのは慶應義塾大学の
小泉信三塾長でした。小泉さんが『文藝春秋』に書いた
文章の内容を私は今でも覚えています。・・・・
毅然として全面講和派に問いかけたものでした。
当時、名の知れた学者で小泉先生以外に
全面講和に反対した人はほとんどおられませんでした。
・・・要するに・・・
全面講和という美名のもとに反対すれば日本が独立する
可能性はなかったのですから、全面講和論者は即、
日本の被占領状態延長主義者だったというわけです。
これが重要なのは、独立反対だった大きな野党第一党が
あったということです。東西冷戦の時代ですから
アメリカ主導の講和条約には反対だという共産党の
理屈はわかるとして、当時の社会党が反対したのは
なぜなのか。私はこれが戦後日本に今日まで続く
病原になっていると見ています。
日本の独立に反対した人たちが、独立したあとも
恥じることなく日本に住んでいる。そうした人々の
独立反対のDNAを受け継ぐ人たちが今なお
少なからず力を誇示している。
これが大きな問題なのです。」(p48~50)




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巌(いわお)のような朝日新聞。

2015-08-06 | 朝日新聞
PHP研究所の新刊。渡部昇一著
「朝日新聞と私の40年戦争」を購入。

はじまりは

「1960年(昭和35年)の日米安全保障条約改定は、
岸信介内閣に対する津波のようなデモで日本中を
驚かせました。
その日米安保条約が十年の期限を迎えて自動延長
に入る1970年(昭和45年)には、反対運動はさらに
凄まじいものになるであろう・・・そうした危機感
を背景に1968年(昭和43年)、林健太郎、福田恆存
らが中心となって京都大学名誉教授の田中美知太郎
を理事長として設立されたのが日本文化会議でした。
その事務局長・が・ヨーロッパから帰ったばかりの
私にも参加するよう誘ってくれました。
日本文化会議が設立された翌年(1969年)、
文藝春秋は論壇誌『諸君!』を創刊します。・・
『諸君!』の主な執筆陣は日本文化会議のメンバーでした。」
(p12~13)

ちなみに「はじめに」では

「私は元来、英語の教師です。」とはじまり、
「・・四十数年前、私ははからずも言論・論争の
世界に巻き込まれることになりました。その論争の
主たる相手が、巌のような朝日新聞だったわけです。
・・私が論争の世界に入った頃、朝日新聞は圧倒的な
権威であり、岩盤のような硬さと威厳を持っていました。」

その当時のことが、語られてゆきます。

たとえば、

「一つ確実に言えることは、新聞がそう報道することは、
事件の真偽にかかわらず、標的にされた人間の生活には
最高裁の判決が下ったと同じ働きをするということです。
そのことを記者たちは知っていたはずですし、
知らないですむことではありません。・・・
今ではインターネットで個人が反駁することも可能でしょうが、
当時は新聞に書かれれば書かれっぱなしで、
個人が反駁する手立てはほとんど皆無でした。」

「『朝日新聞』の虚構報道でデッチ上げられた
『渡部昇一はヒトラー礼賛者』であるというとんでもない
烙印は容易に消えず、私はしばらく『全体主義の手先』と
いった扱いを受けることになりました。」

「ただ、執拗に授業妨害を受けました。
とくにある障害者団体と団体は、
私が担当しているあらゆる授業に押しかけてきました。・・
当時、私は週六コマほど授業を受け持っていましたが、
すべての授業で妨害を受けるということが、
夏休み前後におよそ四カ月も続きました。
また、大学構内の最も目立つ場所に、『渡部教授を批判する』
という巨大な看板を立てられました。そこに書かれているのは
『朝日新聞』の虚構報道をもとにした私への罵詈雑言です。」


また、学校関係者の間でいかに『朝日新聞』の影響力が
大きいか、改めて思い知らされた。とp59にあります。
それは、四十年後の今、どうなのでしょう?

以後の「虚報常習犯の『朝日新聞』」(p90)を
ご自身に即して語られてゆきます。

見出しへの考察も歯切れがいい。

「たいていの読者は、
見出しを見るだけで記事を読んだ気になり、
実際に記事を丁寧に読むことはしません。」(p142)

この本を、丁寧に手に取る方のために
「見出し」に関する頁数を以下に。
p142・p143・p148・p149・p150・p151

「虚報で国際問題のきっかけをつくり、
『大スジ論』で逃げる『朝日新聞』の常套手段です。」(p203)


本文の最後には、
これからのテーマが語られておりました。

「『南京問題』でも北京と朝日新聞が一体となって
揺さぶりをかけてくるでしょう。日本政府は二度と
その圧力に屈してはなりません。・・
戦後は東京裁判史観にとらわれて、『シナ事変は
日本が悪かった』と思っている人が大半ですが、
私の世代はそう思いません。
そう思わなかった最後の首相が大平正芳氏で、
そう思った最初の首相が細川護○氏です。」
(p220)

いよいよ本の最後を引用。

「細川氏以前には東京裁判を認めるような
愚かな宰相はいませんでした。岸首相以来、
強烈な国家観を持つ宰相もまた、安倍首相が
出てくるまではいませんでした。それほど
安倍首相は確固たる国家観を持っています。
当然、朝日新聞は安倍首相を叩くでしょう。
私の朝日新聞との四十年戦争は、
まだまだ続きそうです。」(p221)


ちなみに、
『私の世代はそう思いません』とありました。
渡部昇一氏は1930年生れ。
佐々淳行氏も1930年生れ。
佐々氏の新刊は
「私を通りすぎたマドンナたち」(文芸春秋)
その序言をここに引用。

「『私を通りすぎた政治家たち』・・その本の帯に
『最後の手記』と銘打っていたが、ちょうど本の
刊行前に、私は心臓の大手術を受けたりしていた
こともあって、その言葉に嘘はなかった。しかし、
手術後、小康状態を得て、足腰下半身は年相応以上に
不自由ではあるが、幸いにも臍(へそ)から上は
ほぼ健康を回復している。・・・」


「私には娘はおらず、男ばかり三人生まれた。
孫には女性もいる。この世代がちゃんとやっていける
日本を維持しつづけるためにも、『老兵』の忌憚(きたん)
なき思い出話も役に立つのではないかと考え、
重い腰をあげて、『ラストメッセージ』『最後の告白』
をまとめることにした。」


お二人の話を、聞ける喜び。
それを、新刊で買える幸せ。








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ヒドイ。ヒドイが、真実でもある。

2015-08-05 | 道しるべ
産経新聞2015年7月16日でした。
茂木健一郎著「東京藝大物語」(講談社)
を取り上げた北康利氏の書評が、
気になっておりました。
それで、今回新刊購入(笑)。

日本にある芸術大学遊園地へと
5年間の講師潜入を果たした記録小説?

この巨大遊園地へは、どう入るか?

「いえ、四浪しました。」

「いいえ、ぼ、ぼくは、一浪です!」


結果報告としては、

「何しろ、何十倍という入試をくぐり抜けて、
東京藝術大学に合格した彼らではあるが、
その中で、作品を売って食えるアーティストになるのは、
ほんの一握り。一説には、十年に一度出れば良い、
とも言う。・・それでも、成果が出るとは、
限らない。下手をすれば、東京藝術大学に合格した時が、
人生の頂点だった、ということになりかねない。
イヤ、実際、大抵はそうなのだろう。」(p33)


気になるのは、卒業制作。


「アーティストの卵たちは、芸術の『自由』を
『空気』のように吸って過ごしている。しかし、
その自在の空間から、いかに『作品』という
地面に着地するか、その間合いが難しい。・・
卒業制作とは、ふわふわと空を飛んでいた学生たちが、
卒業という大地に着地する、そのライディングの姿勢を
競う場なのだ。いろいろやらかしてきた彼らも、
いよいよ、『真実の瞬間』に自らの姿をさらして見せな
ければならない。
嗚呼、その『具体』の頼りなさ、切なさよ。
心細いね!」(p174~175)

ちなみに、p57には
こんな箇所が

「実際、インターネットの匿名掲示板には、
『東京藝術大学の卒業生の就職状況wwww』
『藝大就職、草生える』といったスレッドが立ち、
『油絵科。卒業生60人、就職0人、進学22人、
未定・他38人』といった『驚愕』のデータが
議論の対象になり・・・などと揶揄する書き込み
が行われているのであった。
ヒドイ。ヒドイが、真実でもある。
芸術の道は厳しい。
アーティストとして生きていくのは辛い。・・」


講師潜伏実況記録報告小説として読みました。
ひょっとして、現代の一遍上人は、
履歴書に東京藝大卒と書くのだろうか、それとも
東京藝大を受けて落ちると書いてあるかもしれない。
読後に、そんなことが思い浮かんだりして(笑)。


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見栄っぱりの、照れ性で。

2015-08-04 | 短文紹介
古本を購入。
大村彦次郎著「万太郎松太郎正太郎」
副題が「東京生まれの文人たち」(筑摩書房)


佐藤書店(北九州市門司区栄町)
500円+送料350円=850円


さっそく久保田万太郎の箇所をひらく。

「同じ遅筆でも、葛西善蔵は酒と結核で仆れたが、
万太郎はしぶとく生き抜いた。彼の作品には、
しばしば遠慮ぶかい、人の気をかねる人物が登場したが、
作者としての万太郎はどこまでも自分流儀を
ふてぶてしく押し通し、ジャーナリズムに妥協しなかった。
作品を書くにさいしては、素材の選択にきびしく、
柄に合わないものには決して手を出さなかった。
自分の世界を崩さず、東京下町の、自分の作り上げた
浅草という仮構(フィクション)の空間に限定した。・・
自分の場所は動かさず、微動だにしなかった。
しかも、若年にして、みずからの独自な文体を造り上げた。
万太郎作品の特色は吟味されたセリフにあった。
日常語、俗語を自在に駆使し、仕方噺でも演ずるように、
文章の間のとりかたは絶妙であった。
ひらがなや句読点の使いかたに気を配り、
『・・・』を多用し、作者の吐息までが読者の
目や耳や肌にじかに伝わるようにした。
ときに小説一篇を会話で大半構成する、という
離れ技を演じたこともあった。」(p22~23)


以下は、
酒に関する箇所が興味深かったので引用することに、


「祖母に溺愛されて育った万太郎の性格には、
複雑に屈折し、矛盾したものがあった。気むずかしい半面、
人付き合いは決してわるくなかった。
それは下町っ子に共通した習癖でもあったが、
とりわけ万太郎は見栄っぱりの、照れ性で、
気心の知れない相手には、人見知りがはげしかった。
・・・・
自分の身の置きどころに窮すると、
すぐ酒盃を手にした。熱燗の酒を好み、
猪口(ちょこ)に注いだ酒をパッと空けると、
すぐ相手に差し、そのあと返盃を求めた。
とにかく献酬のピッチが早かった。
酒の銘柄など選ばず、味わうよりも酩酊するための酒だった。
酔えば照れ性や人見知りが消えた。そして度胸がついた。
介添役をそばに置き、正体もなく酔っ払った。
親しい者には溺れるように甘えかかり、
見境いもなく泣いたり、掻き口説いたりした。
そういう酒の酔いかたがいつしか彼の流儀となり、
周囲がまたそれを許した。」(p29~30)


「万太郎は東京の浅草生まれにも拘らず、
刺身などのナマモノや酒飲みの喜びそうな、
うに、からすみ、このわた、塩辛などの類は
一切口にしなかった。その代り
玉子焼き、豆腐のあんかけ、柳川鍋などが好物で、
他にトンカツをよく食べた。
家庭料理はシチューとライスカレーで、
味つけから煮炊きまで自分でした。
衛生にうるさい昔気質の祖母に躾けられた
幼児性が飲食の好みにも残っていた。」(p43)


うん。ここも引用しておかないと、片手落ち。

「万太郎は酒が入ると、放縦になり、
手に負えなかったが、シラフのときは下町の
商家育ちらしく、朝は誰よりも早く出勤し、
夜は遅くまで居残って、仕事をするのを厭わなかった。
わが儘なようでいて、周囲には満遍なく気を配り、
勤め人の環境にも無理なく順応した。」(p12)

本文はまだまだ、いろいろあるのですが、
一応、私が興味のある箇所を引用しました(笑)。

それから、小泉信三と久保田万太郎との
接点が興味深く。本には別の箇所で、
小泉信三氏の紹介もでてきます。

さてっと、
久保田万太郎の作品を、
この夏、すこしでも読めますように。
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とんぼとぶとぶ。

2015-08-03 | 手紙
郵便局の「かもめ~る」。
その宣伝文句に

 この夏、
 一番伝えたいこと。
 「かもめ~る」で送ろう。

ブログを更新はしても、
恥ずかしながら、不義理ばかりで、
手紙を書かない私です。
そういうことも、すっかりと、
忘れているわけですが、
句集を読んでいたら、
出会う手紙の句。

久保田万太郎に

 手紙書くひまのできたる単衣かな

 よみにくき手紙よむなり花曇



「定本 種田山頭火句集」より

 ひなたへ机を、長い長い手紙を書く

 大根漬けてから長い手紙をかく

 

 しぐるるや郵便やさん遠く来てくれた

 こほろぎそこで郵便函で鳴いてゐる月夜

 今日も郵便が来ないとんぼとぶとぶ

 赤きポストに都会の埃風吹けり

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