和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

深代惇郎の「天声人語」。

2018-04-24 | 本棚並べ
こうしてブログを綴っていると、書くことがないと、
深代惇郎の『天声人語』を思い浮かべます(笑)。

と思って本棚から取りだすのですが、
私の本棚には「深代惇郎の天声人語」の隣に
坪内祐三著「考える人」(新潮社)が並んでいる。

まずは、掃き清めるように、
「考える人」のこの箇所から引用。

「今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針は
どうなっているのか知りませんが、当時、私の中学、
高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』
を読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、
毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約
が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で
出されました。・・・・
それがたまたま深代惇郎の担当期間に当たっていたの
ですから・・・それはとても幸福なことでした。

しかし、その結果『天声人語』イコール深代惇郎レベル
の文章という印象が体に深くしみついてしまったのは
不幸なことでした。

それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。」
(p125)


ちなみに、坪内祐三氏は1958年東京生まれでした。
はい。この前後の年代の方々が、学校で『天声人語』を
教えられて惚れてしまったのかもしれません。
いまでも、その幸福が続いている年齢層です。
ですから、「『天声人語』はろくなものじゃない。」
というのは、こういうブログを書く際の前口上にしないと、
つぎには、進めないわけです。


こうしてから、
あらためて、「深代惇郎の天声人語」をひらく。
お目当ては「ボルテージ」と題されたコラム。

それはこうはじまります。

「毎日、コラムを書くていると、
きょうは思うような材料が見当たらない
という日もある。」

そして、戒めのようにして
コラムの最後を読む。

「書くことがなくて、・・・雪月花にも
感慨がわかないときは、政治の悪口を書く
といってはふがいない話だが、そういう時もある。
本人は、ほかにないから書いているのであって、
そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、
コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、
自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。
ジャーナリズムには、
そういう気のひけるところがある。」
(昭和48年12月3日)


朝日新聞の「ボルテージ」。
その現在は?
SNSの炎上なんて、小さい小さい。
朝日新聞は毎日毎日六百万部。
昨日のこのブログで引用した箇所を
また繰り返せば

「そんなふうにして新聞が『世論』をつくるのである。
世論を誘導するのである。新聞が怪(け)しからぬ、
といえば読者大衆も怪しからぬ、と同調する。」

うん。朝日の『ボルテージ』を、
どなたが止めるのか。止められるのか。
というところまで来ているのだと思います。
はい。「新聞の悪口」を書きました。





コメント
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