昭和32年の南極越冬の頃。
この前後の年が気になり、
三人の年譜を開いてみる。
まずは、
西堀栄三郎選集1巻(人生は探検なり)悠々社。
そこにある、西堀栄三郎年譜(1903年生)
1954(昭和29)年
――3月第二次マナスル登山隊、サマの反対で入山できず。
11月デミング賞本賞受賞(品質管理普及の功により)
1955(昭和30)年
・・・・・・
9月第二回南極会議ブリュッセルで開催、
日本の南極観測参加を決定
1956(昭和31)年
1月南極観測隊副隊長に任命される
3月京都大学理学部教授(1958年5月まで)
4月南極の資料収集のためオーストラリアに出張
9月南極の資料収集のためアメリカに主張
11月8日「宗谷」晴海を出航
1957(昭和32)年
1月「宗谷」プリンス・ハラルド海岸に着く
2月15日「宗谷」離岸、越冬始まる
4月18~23日南極大陸偵察旅行
8月28~23日カエル島犬ゾリ旅行
11月25~12月9日オラフ海岸犬ゾリ旅行
1958年(昭和33)年
3月24日南極より帰国
つぎは、桑原武夫(1904年生れ)。
桑原武夫集10(岩波書店)の略年譜から引用。
1955(昭和30)年51歳
5、6月日本学術会議の学術視察団員としてソ連、中国へ旅行。
8月「ソ連・中国の旅」(岩波写真文庫)を刊行。
11月「ソ連・中国の印象」を人文書院より刊行。
1957(昭和32)年53歳
9月東京、京都にて開催の国際ペン大会に高見順とともに
日本代表として参加
1958(昭和33)年54歳
3月「この人々」を刊行
6月から9月まで 京大学士山岳会チョゴリザ遠征隊隊長として
カラコルム(パキスタン)へ出張。チョゴリザ登頂に成功
1959(昭和34)年55歳
3月「チョゴリザ登頂」を刊行。
ところで、
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書1958年7月)の
あとがきは、こうはじまっていたのでした。
「南極へ旅立つにあたって、
わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
もっともだと思う。・・・・
わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである。
この年になるまで、本というものをほとんど書いたことがない。
・・・彼の意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕のあった南極越冬中でさえ、何一つ書き
まとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中・・・・
らちのあかぬわたしをはげましながら、
桑原君は、いろいろと手配をし、指図をしてくれた。・・
ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコラムへ向け出発してしまった。しかし、
運のいいことには、ちょうどそのまえに、
東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
そして、桑原君からバトンをひきついで、
かれもまた帰国早々の忙しいなかを、わたしの本の
完成のために、ひじょうな努力をしてくれたのであった。」
この「南極越冬記」と梅棹忠夫とのかかわりは
梅棹忠夫著作集第16巻(山と旅)のp496に出てきます。
「西堀さんは元気にかえってこられたが、
それからがたいへんだった。
講演や座談会などにひっぱりだこだった。
越冬中の記録を一冊の本にして出版するという約束が、
岩波書店とのあいだにできていた。
ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、
『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ』という命令である。わたしは仰天した。
・・・・ところが、材料は山のようにあった。
大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
さまざまなエッセイの原稿があった。
このままのかたちではどうしようもないので、
全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
岩波新書一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。
わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある
岩波書店の別荘にこもった。全体としては、
越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、
いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
クリップでとめた原稿用紙をならべて、
それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章をなおしてゆくのである。
この作業は時間がかかり労力を要したが、
どうやらできあがった。
この別荘に1週間以上もとまりこんだように
記憶している。途中いちど、西堀さんが
陣中見舞にこられた。・・・・・・」
梅棹忠夫著作集別巻にある年譜をひらく。
1955(昭和30)年35歳
5月14日京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。
ヒンズークシ支援人類学班に属し、モゴール族の調査研究を中心に
おこなう。自動車でカーブルから・・北インドを横断してカルカッタ
までもどる。11月11日帰国。
1956(昭和31)年36歳
9月17日「モゴール族探検記」(岩波新書)
10月25日「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)
1957(昭和32)年37歳
2月1日「文明の生態史観序説」を「中央公論」2月号に発表
10月29日第一次大阪市立大学東南アジア学術調査隊に隊長として
参加(タイ、カンボジア、南ベトナム、ラオス)。・・・
1958(昭和33)年38歳
4月16日帰国。
9月25日「タイ 学術調査の旅」(岩波写真文庫)
9月25日「インドシナの旅 カンボジア、ベトナム、ラオス」
(岩波写真文庫)
1958年(昭和33)年の三人はというと、
西堀栄三郎が、3月24日南極より帰国。
梅棹忠夫は、4月15日に東南アジア学術調査から帰国。
桑原武夫は、6月から9月まで 京大学士山岳会チョゴリザ遠征隊隊長
としてカラコルム(パキスタン)へ出張。チョゴリザ登頂に成功。
その2年前。
梅棹忠夫の1956(昭和31)年は
9月17日「モゴール族探検記」(岩波新書)
10月25日「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)
が出版された年です。
小長谷有紀著「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」
に、こんな箇所があったのでした。
「漢字かなまじり文の日記で注目すべきは
1956年4月16日の記録である。
『桑原さんと6時ごろまで話す。
歴史家になりたい、という話をはじめてした』とある。
ずっと思っていたことをようやく話したという
ニュアンスのただよう書き方である。」(p56)
この前後の年が気になり、
三人の年譜を開いてみる。
まずは、
西堀栄三郎選集1巻(人生は探検なり)悠々社。
そこにある、西堀栄三郎年譜(1903年生)
1954(昭和29)年
――3月第二次マナスル登山隊、サマの反対で入山できず。
11月デミング賞本賞受賞(品質管理普及の功により)
1955(昭和30)年
・・・・・・
9月第二回南極会議ブリュッセルで開催、
日本の南極観測参加を決定
1956(昭和31)年
1月南極観測隊副隊長に任命される
3月京都大学理学部教授(1958年5月まで)
4月南極の資料収集のためオーストラリアに出張
9月南極の資料収集のためアメリカに主張
11月8日「宗谷」晴海を出航
1957(昭和32)年
1月「宗谷」プリンス・ハラルド海岸に着く
2月15日「宗谷」離岸、越冬始まる
4月18~23日南極大陸偵察旅行
8月28~23日カエル島犬ゾリ旅行
11月25~12月9日オラフ海岸犬ゾリ旅行
1958年(昭和33)年
3月24日南極より帰国
つぎは、桑原武夫(1904年生れ)。
桑原武夫集10(岩波書店)の略年譜から引用。
1955(昭和30)年51歳
5、6月日本学術会議の学術視察団員としてソ連、中国へ旅行。
8月「ソ連・中国の旅」(岩波写真文庫)を刊行。
11月「ソ連・中国の印象」を人文書院より刊行。
1957(昭和32)年53歳
9月東京、京都にて開催の国際ペン大会に高見順とともに
日本代表として参加
1958(昭和33)年54歳
3月「この人々」を刊行
6月から9月まで 京大学士山岳会チョゴリザ遠征隊隊長として
カラコルム(パキスタン)へ出張。チョゴリザ登頂に成功
1959(昭和34)年55歳
3月「チョゴリザ登頂」を刊行。
ところで、
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書1958年7月)の
あとがきは、こうはじまっていたのでした。
「南極へ旅立つにあたって、
わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
もっともだと思う。・・・・
わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである。
この年になるまで、本というものをほとんど書いたことがない。
・・・彼の意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕のあった南極越冬中でさえ、何一つ書き
まとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中・・・・
らちのあかぬわたしをはげましながら、
桑原君は、いろいろと手配をし、指図をしてくれた。・・
ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコラムへ向け出発してしまった。しかし、
運のいいことには、ちょうどそのまえに、
東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
そして、桑原君からバトンをひきついで、
かれもまた帰国早々の忙しいなかを、わたしの本の
完成のために、ひじょうな努力をしてくれたのであった。」
この「南極越冬記」と梅棹忠夫とのかかわりは
梅棹忠夫著作集第16巻(山と旅)のp496に出てきます。
「西堀さんは元気にかえってこられたが、
それからがたいへんだった。
講演や座談会などにひっぱりだこだった。
越冬中の記録を一冊の本にして出版するという約束が、
岩波書店とのあいだにできていた。
ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、
『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ』という命令である。わたしは仰天した。
・・・・ところが、材料は山のようにあった。
大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
さまざまなエッセイの原稿があった。
このままのかたちではどうしようもないので、
全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
岩波新書一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。
わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある
岩波書店の別荘にこもった。全体としては、
越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、
いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
クリップでとめた原稿用紙をならべて、
それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章をなおしてゆくのである。
この作業は時間がかかり労力を要したが、
どうやらできあがった。
この別荘に1週間以上もとまりこんだように
記憶している。途中いちど、西堀さんが
陣中見舞にこられた。・・・・・・」
梅棹忠夫著作集別巻にある年譜をひらく。
1955(昭和30)年35歳
5月14日京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。
ヒンズークシ支援人類学班に属し、モゴール族の調査研究を中心に
おこなう。自動車でカーブルから・・北インドを横断してカルカッタ
までもどる。11月11日帰国。
1956(昭和31)年36歳
9月17日「モゴール族探検記」(岩波新書)
10月25日「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)
1957(昭和32)年37歳
2月1日「文明の生態史観序説」を「中央公論」2月号に発表
10月29日第一次大阪市立大学東南アジア学術調査隊に隊長として
参加(タイ、カンボジア、南ベトナム、ラオス)。・・・
1958(昭和33)年38歳
4月16日帰国。
9月25日「タイ 学術調査の旅」(岩波写真文庫)
9月25日「インドシナの旅 カンボジア、ベトナム、ラオス」
(岩波写真文庫)
1958年(昭和33)年の三人はというと、
西堀栄三郎が、3月24日南極より帰国。
梅棹忠夫は、4月15日に東南アジア学術調査から帰国。
桑原武夫は、6月から9月まで 京大学士山岳会チョゴリザ遠征隊隊長
としてカラコルム(パキスタン)へ出張。チョゴリザ登頂に成功。
その2年前。
梅棹忠夫の1956(昭和31)年は
9月17日「モゴール族探検記」(岩波新書)
10月25日「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)
が出版された年です。
小長谷有紀著「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」
に、こんな箇所があったのでした。
「漢字かなまじり文の日記で注目すべきは
1956年4月16日の記録である。
『桑原さんと6時ごろまで話す。
歴史家になりたい、という話をはじめてした』とある。
ずっと思っていたことをようやく話したという
ニュアンスのただよう書き方である。」(p56)