不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

1958年「南極越冬記」

2019-07-16 | 本棚並べ
昭和32年の南極越冬の頃。
この前後の年が気になり、
三人の年譜を開いてみる。


まずは、
西堀栄三郎選集1巻(人生は探検なり)悠々社。
そこにある、西堀栄三郎年譜(1903年生)

1954(昭和29)年
  ――3月第二次マナスル登山隊、サマの反対で入山できず。
  11月デミング賞本賞受賞(品質管理普及の功により)

1955(昭和30)年
  ・・・・・・
  9月第二回南極会議ブリュッセルで開催、
  日本の南極観測参加を決定

1956(昭和31)年
  1月南極観測隊副隊長に任命される
  3月京都大学理学部教授(1958年5月まで)
  4月南極の資料収集のためオーストラリアに出張
  9月南極の資料収集のためアメリカに主張
  11月8日「宗谷」晴海を出航


1957(昭和32)年
  1月「宗谷」プリンス・ハラルド海岸に着く
  2月15日「宗谷」離岸、越冬始まる
  4月18~23日南極大陸偵察旅行
  8月28~23日カエル島犬ゾリ旅行
  11月25~12月9日オラフ海岸犬ゾリ旅行

1958年(昭和33)年
  3月24日南極より帰国



つぎは、桑原武夫(1904年生れ)。
桑原武夫集10(岩波書店)の略年譜から引用。


1955(昭和30)年51歳
 5、6月日本学術会議の学術視察団員としてソ連、中国へ旅行。
  8月「ソ連・中国の旅」(岩波写真文庫)を刊行。
  11月「ソ連・中国の印象」を人文書院より刊行。

1957(昭和32)年53歳
  9月東京、京都にて開催の国際ペン大会に高見順とともに
    日本代表として参加

1958(昭和33)年54歳
  3月「この人々」を刊行
  6月から9月まで 京大学士山岳会チョゴリザ遠征隊隊長として
  カラコルム(パキスタン)へ出張。チョゴリザ登頂に成功

1959(昭和34)年55歳
  3月「チョゴリザ登頂」を刊行。

ところで、
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書1958年7月)の
あとがきは、こうはじまっていたのでした。

「南極へ旅立つにあたって、
わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
もっともだと思う。・・・・
わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである。
この年になるまで、本というものをほとんど書いたことがない。
・・・彼の意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕のあった南極越冬中でさえ、何一つ書き
まとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中・・・・
らちのあかぬわたしをはげましながら、
桑原君は、いろいろと手配をし、指図をしてくれた。・・
ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコラムへ向け出発してしまった。しかし、
運のいいことには、ちょうどそのまえに、
東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
そして、桑原君からバトンをひきついで、
かれもまた帰国早々の忙しいなかを、わたしの本の
完成のために、ひじょうな努力をしてくれたのであった。」


この「南極越冬記」と梅棹忠夫とのかかわりは
梅棹忠夫著作集第16巻(山と旅)のp496に出てきます。


「西堀さんは元気にかえってこられたが、
それからがたいへんだった。
講演や座談会などにひっぱりだこだった。
越冬中の記録を一冊の本にして出版するという約束が、
岩波書店とのあいだにできていた。

ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、
『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ』という命令である。わたしは仰天した。

・・・・ところが、材料は山のようにあった。
大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
さまざまなエッセイの原稿があった。
このままのかたちではどうしようもないので、
全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
岩波新書一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。

わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある
岩波書店の別荘にこもった。全体としては、
越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、
いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
クリップでとめた原稿用紙をならべて、
それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章をなおしてゆくのである。

この作業は時間がかかり労力を要したが、
どうやらできあがった。
この別荘に1週間以上もとまりこんだように
記憶している。途中いちど、西堀さんが
陣中見舞にこられた。・・・・・・」


梅棹忠夫著作集別巻にある年譜をひらく。

1955(昭和30)年35歳
 5月14日京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。
ヒンズークシ支援人類学班に属し、モゴール族の調査研究を中心に
おこなう。自動車でカーブルから・・北インドを横断してカルカッタ
までもどる。11月11日帰国。

1956(昭和31)年36歳
 9月17日「モゴール族探検記」(岩波新書)
 10月25日「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)

1957(昭和32)年37歳
 2月1日「文明の生態史観序説」を「中央公論」2月号に発表
 10月29日第一次大阪市立大学東南アジア学術調査隊に隊長として
参加(タイ、カンボジア、南ベトナム、ラオス)。・・・

1958(昭和33)年38歳
  4月16日帰国。
 9月25日「タイ  学術調査の旅」(岩波写真文庫)
 9月25日「インドシナの旅 カンボジア、ベトナム、ラオス」
     (岩波写真文庫)


1958年(昭和33)年の三人はというと、

西堀栄三郎が、3月24日南極より帰国。

梅棹忠夫は、4月15日に東南アジア学術調査から帰国。

桑原武夫は、6月から9月まで 京大学士山岳会チョゴリザ遠征隊隊長
としてカラコルム(パキスタン)へ出張。チョゴリザ登頂に成功。



その2年前。

梅棹忠夫の1956(昭和31)年は
 9月17日「モゴール族探検記」(岩波新書)
 10月25日「アフガニスタンの旅」(岩波写真文庫)
が出版された年です。

小長谷有紀著「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」
に、こんな箇所があったのでした。

「漢字かなまじり文の日記で注目すべきは
1956年4月16日の記録である。
『桑原さんと6時ごろまで話す。
歴史家になりたい、という話をはじめてした』とある。
ずっと思っていたことをようやく話したという
ニュアンスのただよう書き方である。」(p56)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神輿(みこし)の源流へ。

2019-07-15 | 本棚並べ
昨日は、地域神社の神輿渡御がありました。
私は、交通係。巡査と交通安全協会の方々と、
国道で車の流れを受け持つ係でした(笑)。

さてっと、今年は京都へ二泊三日の観光をたのしんだので、
神輿も、あらたな視点がひらけました。

宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)をひらく。
祇園の八坂神社の箇所を引用。

「祇園はいま八坂神社といっている。
その祭神はスサノオノ命といわれる。・・・・
この神まつりは忘れられがちになっていたようであるが、
そのためか貞観11年(869)に悪病がはやり、それが
牛頭天王の祭をおろそかにしているためだとの神示があり、
円如という坊さんがこの神を京都の八坂の地に移し、
神霊をしずめるための祭をおこなうことになった。
これを御霊会(ごりょうえ)といった。
まず神霊を輿に移して神泉苑に渡御し、
また国の数に準じて六六本の鉾をたてて、
これを神泉苑まで奉持し、ミソギをおこなった。
爾来、悪病のはやるたびにこの祭はおこなわれた・・
この祭には断絶がしばしばみられたが、
江戸時代の初めに今日のような祭の形式ができあがって
今日まで継続している。・・・・
とにかく民衆に信仰された神として、
また神輿渡御という日本の祭の一つの形式を
生み出した社として忘れることができないものがある。」
(p27~28)

はい。還暦すぎてからの私の京都旅行。
私の地域の祭のことと結びつけながら、
その源流を辿り直すような旅行だったと、
あらためて、京都を反芻しておりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この旅の翌年、1956年。

2019-07-13 | 本棚並べ
岩波写真文庫が数冊。古本で購入。


 京都案内 洛中 1954 監修梅棹忠夫
 アフガニスタンの旅  監修梅棹忠夫
 インドシナの旅    監修梅棹忠夫
 タイ 学術調査の旅  監修梅棹忠夫

とりあえず。本棚へ(笑)。
そういえば、もう一冊。

 ソ連・中国の旅    桑原武夫

というのも買いました。
こちらは、復刻版岩波写真文庫の特集で
「50年代を見つめる! 森まゆみセレクション」の一冊。
その「ソ連・中国の旅」のはじまりに、
「選者からのメッセージ」があり、
「社会主義が輝いてみえたころ」と題して、森まゆみさん。
このメッセージを読んでから、間違い探しのように、
見入る「ソ連・中国の旅」の写真です。
ということで、森まゆみさんの文をほぼ全文を引用。

「百歳までお元気だった元社会党代議士加藤シヅエさんに、
『二十世紀とはどんな時代だったのでしょう』と聞くと、
『社会主義国家が生れ、そして消滅した世紀です。
あんなに保たないとは思わなかったわ』と答えた。
たしかにまだ社会主義を標榜する国はある。
しかしその巨頭たるソ連、1917年のレーニンらの
二月革命で生れたソビエト社会主義共和国連邦は
東欧の国々とともに1989年に崩壊した。

本書は日本学術会議の視察団に加わり、50日間、
ソ連と中国を旅した仏文学者桑原武夫が、
小型カメラでとらえた民衆の素顔である。
写真の初心者とはいえ、ふつうの日本人は1955年に
鉄のカーテンの向う側を旅するわけにはいかなかったから、
カメラの目はみんなの代表のように、
ソ連の庶民をうつし出す。
・・・・・・
招待旅行だから、
ソ連側はいい所しか見せなかったのはたしか。
1953年にスターリンが死去、あとを継いだ
フルシチョフはこの旅の翌年、1956年2月に
共産党の秘密会議でスターリン批判を行い、
ソ連邦でいかなる人権抑圧が行われていたか、
が全世界に知らされた。・・・・

一方、中国では革命6年後、桑原は
古い文化と社会主義建設が混淆しているのを見た。
ここに登場する郭沫若は10年後、文化大革命で失脚する。
写ったもの、写ってないものを考えると、
これは比類ない歴史のシャッターといえよう。」


現在がスマホ映像の時代なら
つぎは、その映像の整理学。
この岩波写真文庫を見ながら、
知的生産の技術映像版を思う。

ということで、まあ本棚へ(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『猟師の目』。

2019-07-12 | 三題噺
梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)
「井上靖詩集」(旺文社文庫・新潮文庫)
「田村隆一詩集」

本3冊の断片が、つながるように思い浮かぶ。

はじめは、「日本探検」。
その「高崎山」の章から、引用。

「日本における
ナチュラル・ヒストリーの保持者は、日本の民衆であった。
とくに猟師は、ゆたかな資料の供給者であった。
猟師の自然観察は、まちがいもあるけれど、
しばしばひじょうに正確である。
学問のある都市的文化人よりも、むしろ
先入観がすくなく、自然科学者にちかい目をもっている。
  ・・・・・・・・・・・・
猟師などは、日本の思想史のうえでは、
問題にされたことはないけれど、わたしはやはり、
日本人の自然観についてかんがえるときには、このような
猟師的日本人というのをかんがえてみるべきだとおもう。
日本人の自然観といえば、すぐに
花鳥風月的詠嘆か、俳諧的四季感みたいなものがでてくる。
文献的・文学史的方法だけにたよるかぎり、
そういう都市文化人的見かたしかでてこないが、
民衆のあいだには、もっとドライな、
分析的な猟師の目があったのではいか。」(p313)

「猟師の目」といえば、私にまず思い浮かぶのが
井上靖の詩「猟銃」でした。
詩「猟銃」のはじまりは。

「なぜかその中年男は村人の顰蹙(ひんしゅく)を買い、
彼に集る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。
ある冬の朝、
私は、その人がかたく銃弾の腰帯(バンド)をしめ、
コールテンの上衣の上に猟銃を重くくいこませ、
長靴で霜柱を踏みしだきながら、
天城への間道の叢(くさむら)をゆっくりと
分け登ってゆくのを見たことがある。

それから二十余年、
その人はとうに故人になったが、
その時のその人の背後姿は
今でも私の瞼から消えない。・・・
私はいまでも都会の雑踏の中にある時、
ふと、あの猟人(ひと)のように
歩きたいと思うことがある。
・・・・」

ところで、
梅棹忠夫は、2010年7月3日に90歳でなくなっております。
それから、9年して今年私は梅棹忠夫著作集を古本で購入。

さてっと、井上靖の詩「猟銃」のつぎは
田村隆一の詩「細い線」から、この箇所

    きみの盲目のイメジには
    この世は荒涼とした猟場であり
    きみはひとつの心をたえず追いつめる
    冬のハンターだ

「猟師の自然観察」から詩「猟銃」・「細い線」とならべてみました。
その足跡をたどるように、おもむろに、梅棹忠夫著作集をひらきます。

ちなみに、
梅棹氏の両眼の視力喪失が1986年3月12日。
梅棹忠夫著作集は1989年刊行~1994年完結。
そうして90歳、2010年7月3日自宅にて逝去。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オモロイ考えやなぁー。

2019-07-11 | 本棚並べ
河合隼雄著「対話する家族」(潮出版社)。
古本で購入(300円)。カバー帯つき。
めくったことがないようなページ(笑)。

その「あとがき」(1997年7月)から
ここを引用。

「Ⅳは、『京都新聞』に『現代のことば』というコラムがあり、
多くの担当者が順番に二か月に一度ほどのペースで寄稿する。
他の執筆者のを読むのが楽しみで、これは現在もずーっと
続いている。・・・」

はい。京都とあると、反応する私がいます(笑)。

さてっと、その京都新聞に掲載された『標準語』。
正味2ページの文ですが、そこで河合氏は
こうはじめます。

「最近、ある出版社の企画で、『授業』の研究をしている。
小・中学校の授業をビデオで見て、・・討論する。」


そこでの、子どもたちの発表を見ながら、
『何かもの足りない』と思った河合さんは
こう指摘します。

「どこかつくりものの感じがして
生き生きとしていないのである。・・・・
ビデオというものは面白いもので、
発表が終わってしまってから席に帰ってゆくとき、
子どもたちが『うまく行ったぞ』という調子で
話し合ったりしているときは、その表情の輝きを
チャンととらえてくれるのである。

これはタテマエとホンネをあまりにも
分けすぎる日本人の欠点で、子どもたちに偉そうに言っても、
われわれ大人の方が・・無表情に味もそっけもないことを
言うのと同じことで、『授業』を見ていると、『日本文化』の
原型がわかる・・・と大人の方も反省させられた。

・・・
もうひとつ問題になったのは『標準語』ということである。
・・・お国の言葉で言うと、言っていることに感情が伴う。
子どもが『今の意見は、よかったと思います』というのと、
『オモロイ考えやなぁー』というのとでは随分感じが
違うのではなかろうか。」

さてっと、このあとが京都新聞だから、
ごく自然に語られた箇所じゃないかと
ついつい思ってしまう私がおります。
では、その箇所を引用。

「私自身は意図してやっているわけではないが、
いつでも関西弁になってしまう。
テレビにはじめて出演したとき、張り切って
45分間を『標準語』で話すように
集中してやり抜き、終わってほっとしていると、
ディレクターがにこにこしてやってきて
『先生の関西弁はよかったですね』と言われて、
参ったことがあった。
それ以後ともかく、普通にしゃべることにして、
無理に標準語で話そうなどとは思わないことにした。」
(p313~315)


さてっと、これを読んだ京都新聞の読者。
そうして、「現代のことば」のコラム寄稿者の方々は、
そうそう、と読んだような気がしてくるじゃないですか。
うんうん。『オモロイ考えやなぁー』とつぶやいたかなあ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短文明快、三都物語。

2019-07-10 | 本棚並べ
梅棹忠夫編「日本文明77の鍵」(創元社)。
これを古本で購入(300円)。
カバー帯つき。しかもきれい。
帯には
「あなたは、『不可解なニッポン』を
 外国人に、どう説明しますか。」

とあります。
1988年5月第1版第1刷。それで買った古本は、
1992年10月第1版第8刷。
ちなみに、2005年には
文春新書で「日本文明77の鍵」が出ております。

それはそうと、
ちょっと引用。『大阪』の箇所はこうはじまります。

「江戸時代の日本を代表する大都市は、
江戸・京都・大阪の三つであった。人口でいえば、
江戸は100万以上、大阪・京都はともに40‐50万程度・・
当時、人びとは、この三都市を『三都』とよんだ。
日本には、都が三つもあったようないいぶりである。
それほど、この三都市は、他を圧した存在であった。
このうち、江戸は幕府の所在地として政治の中心であり、
京都は朝廷があり伝統的な文化都市であったのに対して、
大阪は経済活動によって特色づけられていた。
そのため『天下の台所』という異名さえあった。」

こうはじまる、3頁ほどの紹介文。
あと、三都ということで、ここも引用しておきます。

「俗に『大江戸八百八町』、『京都八百八寺』、
『大阪八百八橋』という。
江戸は都市の規模のおおきさが印象的であり、
京都は寺院のおおさが特徴、
大阪は橋の数だというわけ・・・・」


これが、『大阪』の項目。
それじゃ、『京都』はどうか?

「・・・京都に都がおかれたのは、794年であるが、
その後、東京に遷都されるまで1000年以上首都として
存在しつづけた。あたらしい都は平安京とよばれ
・・・このあたらしい都をつくる計画は、従来とは
まったくちがう条件でおこなわれた。それは本来国が
やるべき仕事に、民間の資金と能力を導入する方法で、
現代日本の都市再開発計画や工業地域開発にとりいれ
られている第三セクター方式にちかいものがあった。


・・・現地豪族は企業家的性格がつよく、
広大な私有地をもつとともに、はやくから養蚕、絹織物
などの殖産振興によって豊かな財力をもっていた。
新京建設計画に協力し、その豪族は政府財源を導入することで、
自領の開発をさらにおおきくすすめるという、
経済的利益を期待していたようである。
新京は、選地から遷都まで約1年という速さでつくられた。
そして、空前の規模をもつ都の建設であったにもかかわらず、
労役民の動員数や資材量など、工事の経過をしめす記録のないことも、
工事のおおくが民間の手でおこなわれたことをしめしているようだ。
また、民間との合同計画であったため、
平安京の建設は柔軟性があり実利的である。
たとえば宮殿は建設にながい期間をかけ、その間、
事務や儀式は既存の建物を利用しながらおこなっている。
町の部分では、低湿地だった右京部分をしいて利用せず、
高燥は左京を中心に、南部や東の山麓部に居住区を
ひろげていったことにそれがうかがえる。
このように京都はその当初から、人工的である一方、
都市として、民間人による、自律的発達のうごきを
内包していたのである。・・・」


へ~。こんなことが書いてあったのかあ。
この本は英文訳でもあるので、
案外に、これを読んだ外国人の方が、
日本のことをよく知っている。ということがおきる。

日本に住んでいる癖して、ボーッとしてるんじゃないよ。
と、5歳児に言われそうな気がします(笑)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都今西塾のことわざ。

2019-07-09 | 本棚並べ
梅棹忠夫の今西錦司追悼「ひとつの時代のおわり」。
これを再読。

うん。ここを引用。

「・・・今西は田夫野人のたぐいではまったくなかった。
かれは京都というもっとも都市的な都市のなかで
人間形成をおこなった、まったくの都会人である。

虚飾や見栄にはしることはなく、
率直な人がらではあったが、きわめて礼儀ただしく、
市民感覚にあふれていた。同僚の大学教授などには、
しばしば、市民たちに対して横柄な口のききかたしか
できないひとがいたのをわたしはしっているが、
今西はそういうことがまったくなかった。
かれはうまれながらの自由なる近代的市民だったのである。

人事にかかずらわることなし、というのが、
今西の生きかたであった。たくさんの弟子たちの
個人的な人生には、まったく介入することがなかった。
結婚や就職についても、今西はそれの世話をすることはなかった。
わたしの結婚も、媒酌人は今西だが、
今西の口ききによるものではない。
就職も今西の世話によったのではない。
わたしたちの世代はすべてそうだった。・・・・


わたしたちは、たしかに今西を中心とする
グループを形成していた。それはいわば
今西塾とでもいえる存在であった。
学科をこえ、学部をこえ、ときには大学をこえて、
グループはひろがっていた。
今西は教授でもなかったから、講座も主宰していなかった。
そんな先生についても、学生はなんの得もない。
それでも学生たちはあつまってきた。
その若者たちに対して、今西はなんの恩恵もあたえず、
いわば野ばなしであった。・・・・
今西は情によってチームをひきいるリーダーではなく、
いつでも、そのメンバーたちをつきはなしてみていた。
その関係はきわめてドライであり、
まことにさわやかであった。
わかいメンバーのあいだでは、しばしば
『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』
ということわざが流行した。


・・・わたしは永年の交際のなかで、
今西がひとを面罵するのをみたことがない。
また、わたしは皮肉をいわれたことがない。
面罵や皮肉はひとの心をきずつけるものである。

批判すべき行動に対しては、
あとからピシッと注意されるのであるが、
いつもまことにあと味のさわやかなものであった。
なにをいわれても、今西にはなにについても
利己的なところがなく、私心がなかった。
それがわかっているから、安心してしたがうことができた。」


うん。今西塾のことわざ。
『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』。
こんなことわざが通用する世界があった。

追悼文のさいごは、こうなっておりました。

「わたしが師とあおいだ先学はすくなくない。
桑原武夫、西堀栄三郎、宮地伝三郎、貝塚茂樹、湯川秀樹
の人たちである。・・・・
みんないなくなってしまった。・・・
ひとつの時代がおわったのである。」


ちなみに、梅棹忠夫が「書けない」のはというと、
梅棹忠夫編「追悼の司馬遼太郎」に、こんな箇所。


梅棹】・・私は彼(司馬)の追悼文を書こうと
思っているのですが、書けないのですよ。

・・・ひとつはね、こういうことがあったんです。
今西錦司先生が92歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、
司馬さんからすぐ手紙が来て、
『これぞまことの文学』というほめ言葉で
激賞してもらった。そういうことがあった
・・・ですが、書けない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史学者はあかんのです。

2019-07-08 | 本棚並べ
「桑原武夫集」第2巻の月報に、
高田宏氏が書いておりました。

そこに、桑原武夫の「洛北のお宅をたずね」る
までの場面が描かれておりました。

「私の編集していた雑誌で、桑原さんに川添登さんと
対談してもらう企画をたてた。・・・
おねがいにあがる段になって私は気おくれしてしまった。
おなじ京都の先生でも・・桑原武夫だけは別だった。・・
どういうふうにたずねたらいいのか、ひるんでしまった。

珍妙なことだが、対談の相手の川添さんに同行してもらった
のである。桑原さんの教え子ではない川添さんが、
いちおうは教え子の一人である私の介添をして、
洛北のお宅をたずねた。
『高田君は京大仏文の出で、桑原さんに教えられた
ことがあるんですよ』という川添さんの紹介に、
私は冷汗をかいていた。・・・・・

桑原武夫にはひとを畏怖させるところがあるのか。
そうではないだろう。・・・しかし、
歴史学者はだめだと公言するような、
その種のおそろしさはある。
気魄と言ってもいい。」


ちなみに、高田宏氏の月報の文のはじまりは、
大学の三回生で聞いた桑原武夫教授の講義が
かたられていました。

「『だから日本の歴史学者はあかんのです』
ということであった。『だから』にいたる論理は
いまはたどれないが、私はそのとき以来、
歴史学者はあかんと思いこんでいる。・・

桑原さんの日本史談義がとりわけおもしろかった。
眼鏡を机の上に置いて、日本史学者はあかんと
断言する桑原教授のちょっと得意げで皮肉な目つきが、
私には痛快であった。私はいまも日本史の本なり
論文なりを読むときに、まず疑ってかかる。
 ・・・・
二足のわらじをはくべしという話もあった。・・・
日本史学者は日本史という専門の枠のなかでしか考えない。
それではだめなんですねえ、アジアの歴史や世界の歴史の
なかで考えなくてはいけません。それにまた、
文学者の目や社会学者の目も持たないと、
歴史はほんとには読めんでしょう。・・」

うん。もう少し引用したいのはやまやまですが、
これくらいでカット(笑)。

高田宏氏は1932年生まれ。
ということは、留年などしなければ、1953年ごろに
桑原先生の講義を、教室のうしろの方で聞いていた
ことになります(笑)。

その1950年代のことが、
小長谷有紀著「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」に
出てきて、オヤっと思いました。
そこを引用。


「1955年、梅棹は京都大学カラコルム・ヒンズークシ
学術探検隊に参加し、モゴール族の調査をおこなった。
帰路、カーブルからカイバル峠を越え、カルカッタまで
自動車で走り抜け、その踏査型フィールドワークから
『文明の生態史観』が生まれた。そして帰国・・・

帰国後の漢字かなまじり文の日記で注目すべきは
1956年4月16日の記録である。
『桑原さんと6時ごろまで話す。
歴史家になりたい、という話をはじめてした』とある。
ずっと思っていたことをようやく話したという
ニュアンスのただよう書き方である。
残念ながら、桑原武夫が何と応えたかは記されていない。」
(p56)


あとは、桑原武夫と梅棹忠夫の関係を引用。


「桑原武夫傅習録」(潮出版社)が、わかりやすい。
そこから引用。

「・・桑原先生は中学校、高等学校、大学を通じて、
わたしの直系の先輩にあたる。わたし自身も登山を
やっていたから、山においても先輩である。のちに、
わたしが人文科学研究所に勤務するようになってからは、
直属の上司であり、指導者であった。
しかし、そういう官職上のつながりを生ずるまえから、
わたしは、桑原先生からさまざまな指導をうけている。
こういう大知識人にめぐりあって、その指導をうける
ことができたことを、わたしは一生のしあわせとおもっている。
もし桑原先生の推挙とそそのかしがなかったら、
わたしは文筆の道などにはふみこむことはなかったであろう。
そして、視野のせまい一自然科学者として一生をおくる
ことになったであろう。だから、わたしが自然科学から
人文科学にのりかえて、理学部から人文科学研究所にうつった
というのは、桑原先生から影響をうける原因なのではなくて、
むしろ影響をうけた結果なのである。・・・」
(p3~4)

ちなみに、「桑原武夫傅習録」には
「明晰すぎるほどの大きな思想家」と題して、
司馬遼太郎の文も掲載されております。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あまりうれなかった」始末記。

2019-07-07 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)。
そこに「『日本探検』始末記」が載っている。
本について、考えさせられるのでした。

「この本は、刊行されてまもなく、
新聞や雑誌にたくさんの書評がでた。
いずれも好評であった。ところが、
この本はあまりうれなかった。けっきょく、
初刷だけで、重版されることはなかった。
文庫版もつくられなかった。したがって、
本として読者の目にふれるのは、
この『著作集』が二ど目である。」(p420)

『著作集』は第7巻にはいっておりました。
三ど目が、2014年に講談社学術文庫。
そして、それを私は、読んでいる。


「もしこの
『増補改訂日本探検』と英語版が出版されていたら、
この『日本探検』の仕事は、わたしの著作のなかでも
主著のひとつとなったであろう。」(p426)

なんて、言葉も読めるのでした(笑)。


この始末記には、
1960年『日本探検』表紙カバー袖に
載せられた桑原武夫の言葉が、再録されております。

その桑原武夫氏の言葉を、
カットして引用。

「・・・・
私はできれば本を読まずにすませたい、
という意味のことを、かつて彼はかいて、
いささかヒンシュクをかった。

学問とは本を読むこと、
思想とは本のなかから見つけ出すもの、
と思いこんでいる人が主流をなしているからである。

彼は現実から考えるように見える。しかし、
手ぶらで現実にのりこんで成果があがるはずはない。
彼はたくさん本を読む。
ただ、それを丸のみにせず、現実でたしかめ、
現実をして書物とはちがう本音をはかしめようとする。
そして彼は現実と仲よくなることが巧みだ。
つまり古来の学問の正道を歩んでいるにすぎない
・・・・」(p426~427)

「古来の学問の正道」って何?

板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)
を本棚からとりだしてくる。
板坂元氏は国文学で、江戸文学を専攻。
そこに、こんな箇所。

「わたくしどもの日本古典の分野では、
活字の本でやる勉強は、勉強のうちに入らない。
入らないことはないけれども、活字になった本
だけでは資料が不十分で、どうしても昔の写本
やら刊本を読まなければ事足りないのだ。・・」
(p199)

うん。もどって『日本探検』のなかの
『高崎山』には

ラボラトリアン(実験室科学者)が
フィールド・ワーカー(野外研究者)と組む場面が
ありました。

「東京のラボラトリアンたちは、大挙して京都にやってきて、
京都のフィールド・ワーカーたちと見あいをした。
一匹もみることができなかった野生のニホンザルのむれのことを、
日常茶飯事のようにはなす京都の連中の話をきいて、
東京勢は驚嘆した。見あいは成功し、両者の結婚が成立した。

霊長類グループは、とくに研究資金の点で、
悪戦苦闘をつづけていた。地元にたのんだり、
さまざまなやりくりをしていたが、
財政はいつも破局的状態にあった。
そこへ、かなりの文部省試験研究費をもった
実験動物グループがあらわれたのである。

おかげで、野外研究は順調にそだっていった。
市木石波の海岸には、研究用の小舟が一そうできた。
伊谷君や徳田君は、もう三角波の海峡をおよいで
島へわたらなくてもよくなった。
試験研究費は、その後五年にわたって、交付されたのである。」
(p293)


うん。あまり売れなかったこの本。
現在は、講談社学術文庫で読めます(笑)。
ありがたいなあ。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あと2、30年もたったら。

2019-07-06 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)。
そこに
「中央公論社刊『日本探検』のためのあとがき」
がありました。3頁の文です。そこから引用。


「・・わたしは、いままでどちらかというと、
国外での未開民族の人類学的探検こそは、
じぶんのなすべき仕事であるとおもいさだめてきた。
しかし、なんどかの学術探検隊にくわわって各地を旅するうちに、
問題は、未開地・未開民族にかぎらないことに気がついた。

よくしられているはずの民族や社会にも、あたらしい見方
にたって、かんがえなおすべきことがたくさんある。
わたしは、じぶんの意識を比較文明論というところにまで
拡大し、すべてを人類史のおおきなながれのなかにおいて
理解できるようになりたいとのぞむようになった。

1958年、東南アジアからかえってから、
しばらく日本にいるあいだに、まず手はじめに、
じぶんの国をみなおしてみようとかんがえた。

 ・・・・・・・・

とりあげた主題は、一見それぞれまるでばらばらである。
しかし、わたしとしては一貫して、現代日本の文明史的
課題を追求しつづけているつもりである。
説きつくされた日本の歴史も、比較文明論の立場からみれば、
またいくらかはあたらしい見かたもでてくるであろう。
未来のことをいうならば、人類史の未来に
日本文明はなにかを寄与しうるか、あるいはまた、
日本文明におけるあたらしい可能性はなにか、
というのがわたしのほんとうの主題である。・・・」
(p324~325)



さてっと(笑)。
季刊民族学という雑誌。気になったので、
その100号(2002年春)をひらくことに。
そこの特集対談は
石毛直道と梅棹忠夫でした。
そこからの引用。

事務局】 この『季刊民族学』というのは『友の会』の
機関誌ですが、これを最初に家庭学術雑誌と名づけた点を、
いま一度ご解説いただきたいのですが。

梅棹】 これは民族学の普及が目的ですね。
専門家だけのものとか、大学の講座だけではなくて、
国民大衆に民族学の知識をできるだけひろく理解してもらおう
というので、家庭学術雑誌という名前を考えたわけです。

石毛】 家庭で理解するということが、これからますます
重要になってくると思います。というのは、わたしにいわせれたら、
あと2、30年もたったら、日本も多民族国家化しているだろうと。
そうすると、隣りの家に外国出身の人が住んでいるというのが
当たり前になる。これは好むと好まざるとにかかわらず、
そうなってくるわけです。
それで、残念ながら、われわれの社会というのは、
外国出身の人を隣人として生きていく、
そういった経験がほんとうにすくないんですよね。
いろんな問題がこれからでてくる。
その時、『季刊民族学』などを通じて、
民族学的なものの見方だとか、
そういったものを知ってもらってたら、
たいへん意味があることになるだろうと思います。
(p22)

 対談の最後の方の梅棹さんの言葉も引用。

梅棹】 昨年(2001年)9月11日におこった
アメリカ同時多発テロ以来の一連の問題についての
動きを新聞記事でみていても、民族学の知識があったら
どんなによくわかるかということは、皆さん、
感じているんじゃないですか。そういう点で、
世界が民族学的知識を要求するようになっている
んだと思うんです。
アフガニスタンの問題については、わたしは、
あの国に半年間ほどいたので、手に取るように動きがわかる。
一般にはあの国の民族事情が知られていませんから、
ひじょうにわかりにくいんじゃないかと思うんです。
不安定な国情のところでは、
民族学の現地調査をすることはほとんど不可能ですが、
こんなことも『季刊民族学』で解説してあげたいですな。
今日の世界情勢は、民族学の知識なくしては
ほとんどわからないんです。そういう点で
いま民族学が要求されてる時代だと思いますね。
(p24~25)

この雑誌のあとの方をひらいていたら、振込用紙があって
そこには
「『季刊民族学』をご購読いただくには
『国立民族学博物館友の会』へご入会ください」
とありました。
なになに、年会費が13000円。
会員特典(一年間)として
『季刊民族学』(4冊)
『月刊みんぱく』(12冊)
『友の会ニュース』(6回)が送られ、
そのほか、催しもののご案内などの特典。


うんうん。一年間で13000円ですか。
さて、ここからが本題(笑)。

日本の古本屋でネット検索していたら、
「季刊民族学 セット 1~114号 (114冊)」
これが10000円で出ている。
送料が2268円。合計で12268円。
友の会の年会費でおつりがくる。
計算すれば、季刊雑誌一冊が約108円。


はい。注文しました。
真理書房(名古屋市緑区鳴子町)。
それが昨日雨の中、とどきました。
クロネコヤマト便で6箱にわけて届きました。
本棚に並べて、まずは、100号を開いてみた。


そうそう。100号の対談の中には、
こうもありました。

事務局】 いま、『友の会』の会員の分布をみますと、
一位が大阪府、二位が東京都で三位が兵庫県です。それから
四位に京都府、五位が神奈川県、六位が愛知県なんです。
近畿圏、首都圏などで半数を超えます・・・・(p23)


はい。六位の愛知県から114冊の
きれいな雑誌がとどきました。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山ぎは、すこしあかりて。

2019-07-05 | 本棚並べ
高野澄著「古典と名作で歩く本物の京都」(祥伝社黄金文庫)。

はい。古本で「京都」とあると触手が動き、
この本を買いました(笑)。

はい。はじまりの方と、あとがきとを紹介。


「京都の朝は東山の裏側から明けてくる。
 上空がかなり明るくなってきても、
 京都のひとびとの顔には、まだ陽光はささない。
 京都は盆地だから夜があけるのはおそいということを、
 京都にすむひとは意外に知らない。

 そのかわりに、とでもいうように、
 上空が明るくなるにつれて 
 東山の稜線があざやかになってくる。
 それを清少納言は
 『山ぎは、すこしあかりて』と表現した。

 むかしもいまも、
 京都に住むひとは自分だけの
 東山の色彩のイメージをもっている。
 ・・・・」(p12)


はい。夜明けの京都の東山。



つぎは、「あとがき」。
こうはじまっておりました。

「 京都に住みたいと考え、あれこれと計画し、
  やってきてから38年目の『文学でめぐる京都』
  には、熱い思いをそそぐことができた。
  過熱しないよう、自分をおさえるのに苦労があった。」


ちなみに、
高野澄著「文学でめぐる京都」(岩波ジュニア新書・1995年)。
そして「古典と名作で歩く本物の京都」(祥伝社黄金文庫)は
平成28年に「あれからさらに20年がすぎ、改題して復刊・・」
とあります。岩波ジュニア新書の改題復刊の文庫のようです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主人公が目の前を歩いているような。

2019-07-04 | 本棚並べ
「梅棹忠夫語る」(聞き手・小山修三)に

梅棹】どこかでだれかが書いていたんだけど、
『梅棹忠夫の言ってることは、単なる思いつきにすぎない』
って、それはわたしに言わせたら
『思いつきこそ独創や。思いつきがないものは、
要するに本の引用、ひとまねということやないか』
ということ。それを思いつきにすぎないとは、何事か。
 ・・・・
『単なる思いつきです』って言う人はどこにもいない。
それでわたしが、『悔しかったら思いついてみい』
って言ってやるわけ(笑)。
 ・・・・・
・・学問とは、ひとの本を読んで引用することだと
思っている人が多い。(p104~105)



それを、わたしがこうして
引用しているんだから、
何だかおかしい(笑)。



梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)の
あとのほうに、「『日本探検』始末記」がある。

「この一連の著作は、その企画のはじめから
原稿の完成まで、すべてわたしひとりでおこなった。
現地との交渉から、文献の探索なども、わたし自身で
おこなった。通例、現地探訪には出版社から編集者が
同行するものであるが、この場合、妻以外の同行者はない。
自動車でいった場合は、わたしが自分で運転した。
ただし、旅費はもちろん、文献購入などをふくめて、
必要な経費はすべて中央公論社が負担した。

現地へのアプローチは、すべて知人の紹介によっている。
なにもかも個人の資格でおこない、組織や権威の背景なしに、
パーソナルなつてをたぐるというやりかたは、
成功であったとおもう。この意味からも、わたしは、
わたしのやりかたを、いわゆる取材といわれたくないのである。
いうならば、わたしがむかしからフィールド・ワークで
まもってきた接近法なのである。このやりかたで、
ことの深層にある程度せまることができたであろうか。」
(p428~429)

うん。梅棹忠夫著「日本探検」を読んでいると、
この始末記が、しごく当然な発言だと思えてきます。


そういえば、司馬遼太郎が思い浮かびました。
イマジネーションの源泉が語られている場面。


谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP)を本棚からとりだす。
渡部昇一氏と谷沢さんとの対談があり、
そこにこんな箇所が

谷沢】 それが大体『国盗り物語』の後半くらいから、
いわば本当に歴史密着になるんですが、高山書店から
ドカドカドカーッと本が来るんですよ。
それに全部自分で目を通す。ある時、あまり司馬さんが
多方面に作品を書くもんだから、助手の方を置いて、
その方がたに下調べしてもらっているんじゃないか
という評が立ったんですね。

司馬さんは憤然として、
私にこういいましたね。
『人に読んでもらって、
それで自分が聞いて、イマジネーションが湧きますか』、と。
『作家はイメージで書くんです。
そのイメージというものは自分で読んで、
そこから自分で引っぱりだしてこなければ、
イメージとして固まらないんだ』、と。
主人公が自分の目の前を歩いているような感覚に
なった時に筆を下ろす。それまでずーっと
その資料調べによってイメージを醸し出すんですね。

ある作品を書こうとして、パパッと調べて、
サッと書くということをしないんです。
・・ずーっとその用意をする。そしてその
送ってきた本は玉石混淆という言葉がありますが、
玉石石石なんですね(笑)。

渡部】 たまに玉がある、と(笑)。

谷沢】 そのたまの玉を自分の目でしっかと探し出す。
(p33)



う~ん。
梅棹忠夫と司馬遼太郎の
『悔しかったら思いついてみい』でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古本で買う「家庭学術雑誌」。

2019-07-04 | 本棚並べ
わたしは、はじめて
季刊民族学の一冊を古本で購入したのですが、
目次の裏に、こんな言葉がありました。

「雑誌『季刊民族学』は、
『国立民族学博物館友の会』の会員であるところの、
教養ある市民の家庭に、世界の諸民族の社会と文化
に関する正確な情報を、学術研究の成果にもとづきつつ、
平易で興味ぶかい表現で提供しようとするものである。
いうならばそれは、『家庭学術雑誌』ともいうべき、
あたらしいジャンルの刊行物となることを目ざしている。

現代の市民の意識において、
社会人たると家庭人たるとをとわず、
世界に対する関心はますますひろく、
ふかいものとなりつつある。
その知的要求にこたえるためには、
その表現において興味ぶかく理解しやすい
ものであらねばならないことはいうまでもないが、

その内容においては、つねに正確で
たかい水準の維持につとめなければならない。
同時に、読者に対しては
通俗的好奇心を予想すべきではなく、
品格ある教養と知的関心のつよさをこそ期待すべきであろう。
雑誌『季刊民族学』は、そのようなメディアでありたい
とねがっている。

雑誌『季刊民族学』のあつかう内容は、
単なる客観的な世界の紹介ではない。
それは、全世界を舞台に行動しつつある現代日本人の、
世界意識、世界体験の反映でありたいのである。

こんにちの世界において、日本人は
ますますつよい国際性を要求されつつある。
ゆたかな世界感覚は、日ごろから、あるいは
年少のころからの読書と経験によってやしなわれる。

雑誌『季刊民族学』は、
成人の日常的な教養の源泉であるとともに、
次代の市民たる少年少女たちへの教育の資料としても、
すぐれた効果を発揮できるものでありたいとねがっている。

・・・・・・・    1977・10・20  」


はい。刊行の言葉でしょうか。
その、4分の3を引用してしまいました。

こういう雑誌があることを、
情報としては知っていたのですが、
実際に目にするのははじめてでした。

わたしがひらいた一冊は
季刊民族学53号で、1990(平成2)年となっており、
価格は、会員頒布価格は本体2000円となってます。
広告は、表紙裏と裏表紙とにあるだけでした。

この値段なら、私の視野には存在しなかったわけです。
それが今なら、古本で手ごろな値段で手に入る嬉しさ。

おかげで
還暦をすぎた「少年少女たちへの教育の資料」として
やっと手にすることができました(笑)。


そういえば、梅棹忠夫年譜をめくると、

1956年(昭和31)36歳 『モゴール族探検記』(岩波新書)
とあり、同じ年に   『アフガニスタンの旅』(岩波写真文庫)
が出ております。そして

1958年(昭和33)38歳 『タイ - 学術調査の旅』(岩波写真文庫)
『インドシナの旅 - カンボジア、ベトナム、ラオス』(岩波写真文庫)


梅棹忠夫監修の、写真文庫が3冊でている。
どうやら、『季刊民族学』のルーツみたい。
こちらも、古本で購入することにしました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の京都のお地蔵さま。

2019-07-03 | 本棚並べ
季刊民族学53(第14巻第3号)1990夏。

この雑誌を古本で注文。昨日届く。
小長谷有紀著「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」
のp23に、こんな箇所がありました。

「1989年の夏だったように思う。
当時、私は西陣の一角にある公団住宅に住んでいて、
アパートの管理人をしているお宅の子どもたちと一緒に
上京区のお地蔵さんを毎朝たずねあるいた。どこにどんな
地蔵がまつられているか、その形状を写真にとり、
地図に記載していった
(利光(=小長谷)有紀「京都のお地蔵さま
(わたしたちのまち探検)」『季刊民族学』14巻三号、1990年)。」

気になるので、古本で検索すると、
ありました。注文して昨日届きました。
居ながらに、本が届くありがたさ(笑)。

A4サイズの季刊雑誌に
お目当ての「京都のお地蔵さま」は
カラー写真入りで11ページにわたって掲載されて、
地図もはいって読み応えがあるのでした。

はじめて手にした「季刊民族学」は
カラー写真がふんだんにあって、
活字とあいまってのテンコ盛り。

目次をすこし引用。

ガダールの飛翔 ・・・  文・梅棹忠夫
ヒョウタンの一生 ・・・ 保坂実千代
モースのあつめた〈もの〉 ・・・ 守屋毅
気仙大工 ・・・・・・  安藤邦廣
 
 まだまだあるのですが、そのなかに

京都のお地蔵さま ・・・ 利光有紀

がありました。
活字を追うのももどかしく、
写真に目移りしてゆきます。

はい。雑誌のページを開くと、
そのつど、世界がこぼれ出る。

うん。私はこの雑誌一冊でもう満腹。
消化には、だいぶ時間がかかりそう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷里から広い世界を見る。

2019-07-02 | 本棚並べ
宮本常一著「民俗学の旅」(講談社学術文庫)。

思い出してひらいた箇所は、

「郷里から広い世界を見る。
動く世界を見る。いろいろの問題を考える。
私のように生まれ育ってきた者にとっては、
それ以外に自分に納得のいく物の見方はできないのである。
足が地についていないと物の見方考え方に定まるところがない。
戦後のひととき転向ということが問題にされた。
しかし転向を必要としないような物の見方もあっていい
のではないかと思う。ふるさとは私に物の見方、考え方、
そして行動の仕方を教えてくれた。
ふるさとがすぐれているからというのではない。
人それぞれ生きてゆく道があるが、
自分を育て自分の深くかかわりあっている世界を、
きめこまかに見ることによって、いろいろの
未解決のもんだいも見つけ、それを拡大して考える
こともできるようになるのではないかと思う。
・・・・」(p59)

ちょうど、
梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)を
ひらいて読みはじめたところなのですが、
それをパラパラ読みしていたら、「民族学の旅」の
この箇所が思い浮かんだというわけです(笑)。

ちょうど、「日本探検」の二番目が「大本教」でした。
まず、そのご自身による解説には
「大本教については、わたしはほとんどなんの予備知識も
なかったが、世界連邦運動に熱心であり、日本における
エスペラント運動のひとつの推進力になっているというので、
興味をおぼえたのである。わたし自身がエスぺランチストなので、
そのほうのつてをたぐって、大本教に接近した。・・・」

本文のなかにも、

「わたしは、じつは弾圧まえの天恩郷をしっている。
子どものときに父につれられてきたことがある。
父は大本教徒ではなかったが、ここをみにくることは、
当時の京都市民の流行だったのだろう・・・」(p96)

「・・・おもいあたるところがある。
大正のなかばごろであろうか。京都北野の武徳殿へ、
剣道をならいにかよっていた娘さんがあった。
男の子のようなかっこうをして、竹刀をかついで、
中立売通りを闊歩していたそうだ。男装の女性は
よほどめずらしかったのだろう、父や叔母は、
ずっと後年まで、このひとのことをよく話題にしたものだ。
父は、その娘さんはなんでも大本教のひとだときいた、
とはなしていた。・・・・」(p97)

それはそうと、
梅棹忠夫の「日本探検」の各章には
梅棹氏ご自身の解説がついている。
そこには、いろいろな関連がみてとれるのでした。

「福山誠之館」の解説では

「誠之館の取材にあたっては、小川房人君のお世話になった。
かれは植物生態学社で、大阪市立大学理学部生物学教室における
わたしの同僚であり、わたしが隊長をつとめた1957-58年の
大阪市立大学東南アジア学術調査隊の隊員であった。
かれは誠之館の出身者である。ご両親が、
福山市郊外の深安郡神辺町に在住されていて・・・」

「高崎山」の解説はこうはじまります。

「京都大学の霊長類研究グループとは、
わたしは永年ふかい接触をたもってきた。
その霊長類研究は、戦後大発展をとげたのであるが、
わたしはかれらの研究を素材として、日本の自然科学の
ありかた、ひいては日本人の自然観というようなことに
ついてかいてみたいとおもった。
髙崎山、幸島、犬山をおとずれたのは、1960年の初夏であった。
かれら霊長類研究グループの発展の足どりについては、
すでにそうとうの材料の蓄積があったので、
それらにもとづいて一気にかきおろした。」

うん。全部の解説を引用しなくてもいいでしょう(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする