本は読まないけど、本を買い本を並べ換えるのは好きです。
本棚の本をあちこち移動させ、それがパズルを解くような
快感を感じる時があります(笑)。
うん。最近も、そのならべかえをしてたら、
河合隼雄著「書物との対話」(潮出版社・1993年)が
出てくる。ひらくと「古典と現代人の心」と題する
6ページほどの文がありました。
そこに今昔物語の例が紹介されていたので、引用。
「最近は『今昔物語』をよく読んでいるが、そのなかに
『本朝世俗部巻第24の第24、玄象の琵琶、鬼の為に取らるる語』
について考えてみる。これは村上天皇の御代に玄象という琵琶の
名器がなくなり、源博雅がふと聞えてくる琵琶の音を玄象の音と知り、
そこへ訪ねて行く、すると、それを盗っていた鬼が、二階から玄象に
縄をつけて下ろし、博雅に返してくれ、彼は天皇のおほめにあずかる、
という話である。・・・・・・
・・・筆者はこの物語を読んでいて、筆者のもとに相談に来た、
ある中年の女性のことを思い出した。彼女は有能な職業人であったが、
急にうつ病に襲われ、仕事をする気がまったくなくなった。そして、
彼女の言によると、彼女を支えていた趣味である『歌を歌う』ことが、
どうしても出来ない。・・・・・合唱団で活躍していた彼女にとって、
歌は単なる趣味をこえて、彼女の生きることの支えであった。しかし、
歌がまったく彼女の心のなかから消え去ったのだ。そして、
彼女は何故にそうなったのか、まったくわからないのである。
このような不可解なことは、いろいろなノイローゼという形で
現代人によく生じるのだ。こんなとき、彼女の心のなかの『玄象』が、
ふとある日消え失せてしまったのだと考えると、よくその現象に
マッチするのではなかろうか。そして、われわれ心理療法家の役割は、
彼女の心のなかから聞こえてくる秘かな音のなかで、『玄象』の音を
聞きわけ、そこへ訪ねて行き、それを盗んだ『鬼』に向かって、楽器
の返却を交渉することではなかろうか。このことを、現代風に言えば、
『心の深層の分析』とか言うことになるのではなかろうか。博雅の場合、
鬼は簡単に返してくれたが、すべての鬼がそれほど大人しいとは限らない。
とすると、われわれは『無意識の分析』をなしつつ、
それに伴う危険性についての、十分な覚悟と準備が必要となる。
このように考えると、『今昔物語』のなかに語られる、
多くの鬼の話が、無意識と対決するときの方法について、
いろいろな示唆を与えてくれるものとして読みとれるのである。
・・・」(p72~74)
あとは、パラパラと引用。
「現代に生きる、ということは、近代をどうこえてゆくか
ということになる。自分から切り離したものとして対象化された
ことに関する知を、われわれは豊富に持っているが、それと共に、
自分をも組みこんだ、自分にとっての知を、普遍性に至るひとつの
道として探し出してゆくこともしなくてはならない。深層心理学は、
後者のような意味での心に関する知を確立しようとする。・・・」
(p75)
「・・『明恵 夢を生きる』という本を出版したが、これを書く
については、明恵の生きた時代の人々の様子を知る必要があり、
そのために、はじめに述べたような『今昔物語』などをつぎつぎと
読むことになった。ところが、そのどれもがやたらに面白いのである。
心の現実に関する知の宝庫と言っていいだろう。
実際、日本の古典がこんなに凄いものとは、
筆者はこの年になるまで知らなかった。・・・」(p76)
「このような古典について・・・ともかくそれについて
『語る』ことの重要性ということを痛感するようになった。
分析とか解釈などという前に、それを語ること、それに
聴きいることが大切だ。それは、既に述べたように、
われわれはそれを対象化して得る知ではなく、自らが
かかわることによって得る知を必要としているからである。
夢にしても、それを冷たく分析する前に、
『夢を生きる』ことが大切なのである。」(p77)
うん。自分で線を引いてあるので、以前に読んだはずなのに、
すっかり読んだことすら忘れておりました。読んだ時は、ここから、
河合隼雄をいろいろ読んでみようと、そう思った気がします。
そう思ったままに、興味は、ほかへと移ってしまっておりました。
本をひらくと、ふらりと舞い戻ってきたような、そんな本棚並べ。
日本の古典ということで、河合隼雄ともつながっておりました。