和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

切手と手紙。

2020-10-16 | 本棚並べ
ネットのニュースで、どうも、来年から正式に
郵便局では、ハガキ手紙などの土曜日配達もなくなる。
というような法案が出されるようです。

うん。手紙は、ますます肩身が狭くなってくる。
そんな時代となりました。そういえば、
切手といえば、日本の古本屋で、古本を注文すると、
ときどき、切手が貼られて送られてくることがあります。
本がまとまると、切手がたくさん貼られて壮観です。

さてっと、義理の父が亡くなって部屋の整理をすると、
その中に、切手の収集品がたくさん出てきました。
どうするか。
この切手をつかって、手紙を書こうと思いました。
はい。思っただけですが、今でも、思っています。
ということで、本棚に切手帳がふえました。


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和歌や能の馬場さん。

2020-10-15 | 本棚並べ
注文してあった、ちくま文庫が届く。
馬場あき子著「鬼の研究」。
本文を読まずに、最後の解説をみる。
谷川健一氏が解説を書いておりました。
そこから引用することに。

「世間並のありふれた心情の吐露、それは『あわれ』ではない。
真の歌の道は
鬼神(ものおに)までもあわれと思わせるような歌でなければならない、
と紀貫之は『古今集仮名序』で述べている。
また世阿弥も『風姿花伝』の中で
『鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し』と
言い放って、能の心得を説いている。
 ・・・・・・

こうして鬼は風雅の道に縁がないどころか、
むしろ歌や能のめざす道標として存在してきた。
若年にしてはやくも和歌や能の道を志してきた馬場さんが、
鬼を自分の古典研究の主題としてとりあげたことは、いかにも自然である。
和歌や能などの風雅の道とむすびつけた鬼の研究は
本書の著者以外に誰もなし得ない仕事であった。

鬼を人間的なエネルギイの発散者であるという視点、
それは美の主題にも通うものがある・・・・・」

うん。本文は未読。
毎日くる新聞の見出しだけパラパラ読みするように、
文庫の解説を読むようになった横着な私がおります。
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高校教師。高校一年生。

2020-10-14 | 本棚並べ
新潮文庫に
「日本少国民文庫 世界名作選(一)」(平成15年)が
入った時に、その解説を河合隼雄氏が書いておりました。

うん。本文は読まないので、河合さんの解説を
パラリとめくる。あれれ、こんな箇所がありました。
それは、隼雄さんの上の兄弟から、この本の読み方を
教えてもらって、その範囲で読んでいたことを語ったあとに
あるのでした。

「『一生、高校の教師をする』などと口走っていただけあって、
私は教師という職業が好きなのだが、そんなときに
『ジャン・クリストフ』に出てくる、行商人の小父の
ゴットフリートが、理想の教師像としてよく思い出されるのだった。
この世の地位や名誉にかかわりなく、真実を知り、それを子どもに
伝えようとする人。子どもにおもねることなく、自分の正しいと
感じることをを、力づくでなく自然のうちに感得させようとする。
教師の理想像などと言っても到底及びもつかないのだが。
自分が教師になって、やたらに張切ろうとするとき、
子ども時代に読んだ書物のなかの人物が、頭を冷やすために
ときどき出現するなどというのは、やはり有難いことである。」
(「復刊にあたっての解説」p366~367)

うん。ちょっと解説の脇道にそれるようにして
語られておりました。
ここに、「一生、高校の教師をする」とあったのでした。
ならば、高校の教師から、一生学ぶようにして、
河合隼雄の本を読んでいけばいいのだ。ということで、
本棚の見やすい場所に河合隼雄氏の本を並べてみる。

え~と。高校といえば、
思い出される言葉がありました。
講談社現代新書の板坂元の著作で
「続 考える技術・書く技術」(1977年)
その第7章でした。はじまりは
「この最後の章では、文を書くための態度と
その社会的責任について述べておきたい。」
とはじまっておりました。

「・・・私たちが英文の百科事典を作るために書いた
著者向けの執筆要領のことだ。英米の百科事典をいろいろと
参考にして作った執筆要領の草稿は、日本のえらい先生から
きびしい批判を受けた。その草稿の中に
『高校一年生にも分かるように書いて欲しい』
という箇所があって、そこが問題になった。
『高校一年生とは情けない。せめてブリタニカ程度のものにすべきだ』
という批評だった。これには閉口した。
アメリカでは、百科事典を買うためのガイドブックが出ていて
それぞれの百科事典のレベルが示してある。それによると、
ブリタニカやアメリカーナなどの有名なものは、
すべて高校一年生以上に適するとなっている。
私たちも、それにならったのだった。
おそらく、えらい先生がたは、ブリタニカやアメリカーナが、
大学生かそれ以上の知識人のためのものと信じておられたのだろう。
 ・・・・・
そろそろ、そういう後進国根性を捨てて、
文章も読みやすく分かりやすいものにしてもよい時代ではなかろうか。」
(p170~171・ちなみにこの新書「続考える・・」は再版されておらず、
「考える技術・書く技術」だけしか手に入らないので、古本でお探しください)

はい。高校一年生にもよめる、河合隼雄氏の本を本棚に並べてみる。



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孝行のしたい時。

2020-10-13 | 本棚並べ
集英社の「わたしの古典⑳」は
「岩橋邦枝の誹風柳多留」(1987年)でした。
その序章のはじまりを引用。

「川柳は、18世紀後半の江戸ではじまった庶民文芸である。
・・・・・・中から、現代の私たちにもなじみ深い一句を
まず挙げてみよう。

 孝行のしたい時分に親はなし

いまでは格言で通用するほど、日本人の生活にとけこんだ
句になっている。またたとえば、俗によく使われる
  
  目は口ほどにものを言い
  川の字に寝る
  知らぬは亭主ばかりなり

なども、出典は『柳多留』や同じ江戸生まれの川柳集である。
こうして垣間見ただけでもうかがえるとおり、『柳多留』に
はじまった川柳には、時代の移り変わりを越えて万人の共感や
笑いをさそう人間臭さが横溢している。・・・・」

ちなみに、本のはじまりの「わたしと『誹風柳多留』」には
こんな箇所がありました。

「じっさいに『誹風柳多留』の句にふれてみることである。
敬遠していたのでは、面白さもわからない。じつは私も、
学生時代には敬遠派の一人だった。だが、熱心な友人に
手引きされて句を拾い読みするうちに、作者たちや
編者呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)にも関心が生じ、
句の作者を想像してみたり作者といっしょにあそびながら
読んだりするたのしみをおぼえた。・・・・」


はい。楽しそうですが、私のパラパラ読み紹介はここまで(笑)。
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古典の教養。

2020-10-12 | 本棚並べ
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋・昭和54年)を
本棚からとりだす。謡曲を語るドナルド・キーンさんの言葉を、
あらためて読みたかったのでした。

「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが、
私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、
連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。

謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。
そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。
私は読むたびに感激する。

私ひとりがそう思うのではない、コロンビア大学で教え始めて
から少なくとも7回か8回、学生とともに『松風』を読んだが、
感激しない学生は、いままでに一人もいない。
異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。
・・・・」(p57)

今回、私が読み直したかったのは、キーン氏を教えた
大学の角田柳作先生の登場する箇所でした。

「その講義は、角田先生が代行していた。さらに思想史を
教えるかたわら、仏教文学も取り上げ、『往生要集』を講読していた。
私たちは、多忙をきわめる先生にせがんで、そのうえに
『源氏物語』の須磨と明石の巻、謡曲『松風』と『卒塔婆小町』、
『徒然草』、さらに江戸期に入って『好色五人女』や
『奥の細道』を習った。

明治20年代の日本で教育を受けた角田先生は、その時代の
日本インテリの常として、家庭で注釈のない『源氏』を読んで
十分に楽しさを感じるほどの基礎的な古典の教養があったから、
私たちのむりな要求にも応じることができたわけである。ただ、
週に二十数時間もの授業は、下調べの努力もいることだし、
さすがの先生にとっても相当な重荷だった。

あとからわかったのだが、戦後のあの時代に、先生が
コロンビア大学で八面六臂の活躍をしたのは、先生に
とってかえって非常にいいことだった。祖国の敗北で
憂鬱になっていた先生にとって、多忙であることのほうが、
ひまなのよりよほどよかったのである。・・・・・・」


「教えられる側から言っても、角田先生のような広い教養の
持ち主に習ったのは、非常によかった。たとえば『松風』を、
謡曲専門の学者に学ぶよりは、はるかに面白かった。
いまの若い学者は、きっとそのような方法を、時代おくれときめ
つけるだろうが、勉強のしかたがいまの人とは全然違ったのである。

ただテキストの文章が印刷してあるだけの有朋堂文庫を開いて、
私たちは苦労したが、角田先生にとってはそれが他愛もなく読めた。
先生は、注釈のついた古典文学の本に、むしろ全然関心がなかった。
なんのために注釈があるかわからないくらいで、わかりきったことを
なぜ苦しむのかという態度で、私たちを見ていた。

何時間かけて調べても、どうしてもわからない表現がある。
やむをえず先生に教えを乞うと、『きみ、こうだよ』と、
笑いながら説明してくれた。私たちがなぜもう少し頭を使わないか、
不思議でならないらしかった。『源氏』から『五人女』まで
そんな調子で、おかげで講読は先へ先へと進んだ。

角田先生という人は、それほどまで古典と親密に付き合う
ことのできる、明治の学者だったのである。
師に人を得た日本文学の講義は面白かった。・・・・」
(p50~52)


ドナルド・キーンは、1922年生まれ。
それではと、集英社の「わたしの古典」シリーズを
現代語訳されている女性陣の年齢はどうかと調べてみました。

生方たつゑ、1905年生まれ
円地文子、1905年生まれ
山本藤枝、1910年生まれ
池田みち子、1910年生まれ
阿部光子、1912年生まれ
大原富枝、1912年生まれ

これから、ドナルド・キーン氏と同じ
1920年代の生まれの方を紹介。

清川妙、1921年生まれ
もろさわようこ、1925年生まれ
杉本苑子、1925年生まれ
永井路子、1925年生まれ
尾崎左永子、1927年生まれ
安西篤子、1927年生まれ
田辺聖子、1928年生まれ
馬場あき子、1928年生まれ
竹西寛子、1929年生まれ
三枝和子、1929年生まれ
大庭みな子、1930年生まれ

うん。あとはいいでしょう(笑)。
この方々を教えられた古文の先生方、
血肉化した古典の教養のありがたさ。





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今よりは秋風寒く。

2020-10-11 | 本棚並べ
せっかくなので「清川妙の萬葉集」(集英社)から、
その第2章「挽歌」の最後「弟への挽歌」を引用。
パラリとひらいた箇所が、そこだったのでした(笑)。

「・・大伴家持(おおとものやかもち)にも、また、
すぐれた挽歌がある。天平11年(739)、家持が20歳を
越えたばかりのころ、彼が愛したひとりの侍女がこの世を去った。

今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む

・・・・秋になると、邸の階段の前の石だたみのそばに、
なでしこの花が咲いた。その花を見れば、家持はまた
こう歌わずにはいられなかった。

秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも

『秋さらば』は秋になったら。秋になったら、この花を見て
私のことを思い出してねと、あの人が植えた庭のなでしこが咲いた。
家持の挽歌は、まだ青春の純情さをそのままに、率直に歌いあげられ
ている。・・彼女に捧げた挽歌を、家持は、このとき長歌一首と
短歌十一首も詠んでいる。
29歳のとき、家持は越中守として、越中国庁のある今の富山県
高岡市に赴いた。弟書持(ふみもち)も途中間まで兄を送るといって、
奈良山を越え、泉河の河原までついてきた。・・・・・

別れた家持は、ある日突然、愛する弟の死の知らせを受けとったのだ。
石竹(なでしこ)の咲く秋に、兄の恋人の死をともに嘆いてくれた弟。
その弟もまた、時もあろうに、穂のすすきがそよぎ萩の花が色づく秋に、
それらを愛でることもなく逝ってしまった。家持は長歌を作り、その
註として、【この人、人となり花草花樹を愛でて、多(さは)に
書院の庭に植う】とも記している。

かからむとかねて知りせば越の海の荒磯(ありそ)の波も見せしものを

こんなことになろうと前からわかっていれば、越の海の荒磯(あらいそ)
の波も見せるのだったのに、海のない奈良の都に育った弟には、
この日本海の荒々しい波は、さぞ珍しかったであろうに、
この家持の思いは、だれでも味わうものである。

私は今、この原稿を、信州の静かな山の宿で書いているが、うっすら
と色づきかけた秋の山、たぎり落ちる渓流を眺めながらこう思う。
ああ、母の生きているときに、一度ここに連れてきておけばよかった。
瀬戸内海に近い村で育った母は、信州の山の風景をどんなにか珍しがり、
喜んでくれただろうに。【かからむとかねて知りせば】ーーこのことばは、
愛する人を亡くしたすべての人の心の共通項ではなかろうか。」

このあとに、作者不明の挽歌を三首ならべておられるのですが、
ここには、その最後の一首を引用することにします。

「・・・・・リアリズムでしめよう。

幸(さき)はひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く

いったい、どんなしあわせ者なのか。黒髪が白くなるまで、
妻の声が聞ける人とは。自分自身は、早く妻を亡くしてしまった人の
なまの声である。
遠い昔の万葉の時代も、人の心の喜怒哀楽は今の時代と変わりはない。
この歌なども、早く妻を亡くした人の嘆きの声も、その裏返しの、
共白髪の喜びも、今の世にそっくりそのまま通じるものである。」
(~p150)


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「清川妙の萬葉集」

2020-10-10 | 本棚並べ
集英社「わたしの古典②」は、「清川妙の萬葉集」(1986年)。
はじまりの「わたしと『萬葉集』」から引用。

「『萬葉集』は、私の、娘時代からの大切な愛読書です。
日本最古の歌集であるこの古典と、私は、きわめて自然な
めぐりあいを持ちました。昭和13年の春、いまの奈良女子
大学の前身、奈良女子高等師範学校に入学した私は、
万葉のふるさとのただ中に身を置きました。春日(かすが)の
山を望み、佐保川(さほがわ)の瀬音を聴くこの学校で、
私は、『萬葉集』を深く愛しておられた木枝増一先生から、
教えを受けました。【「萬葉集」はすばらしい。一日一首ずつ
でもいいから読みつづけていきなさい】先生に傾倒していた私は、
そのことばに従い、放課後いつも学校の図書館に寄って、
一首一首『萬葉集』を読み辿っていったのでした。
もともと幼い頃から、韻律のあるもの大好きだった私は、
たちまち、『萬葉集』の魅力に捉えられていきました。
 ・・・・・・・
木枝先生は、私の卒業後しばらくして、世を去られました。
しかし、その『萬葉集』への情熱は、私の人生に残してくだ
さいました。30代の終わりから、私はものを書く仕事に携わり
ましたが、そのかたわら、『萬葉集』を同好のかたと読む
こともはじめ、その会もはや20年近くつづいています。
 ・・・・・・・・
私は、この『萬葉集』を書き下ろすというかぎりない喜びの中に、
草かげの花への愛憐も溶かしこみました。若い日に国文学を専攻
したとはいえ、その後専門の研究を続けたのでもない私は、この
本を書くために、諸先生がたの書かれたたくさんの本を読み、
猛勉強をいたしました。
 ・・・・・・・・
ともあれ、私の、『萬葉集』への心熱い思い入れが、
読者のみなさまにお伝えできれば、この上なく
うれしゅうございます。どうぞ、この本がたくさんの
かたに読まれ、愛していただけますように。」

うん。これだけで、私はもう満腹。
なので、これ以上引用はなしです。
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鬼の夢。

2020-10-09 | 本棚並べ
本は読まないけど、本を買い本を並べ換えるのは好きです。
本棚の本をあちこち移動させ、それがパズルを解くような
快感を感じる時があります(笑)。

うん。最近も、そのならべかえをしてたら、
河合隼雄著「書物との対話」(潮出版社・1993年)が
出てくる。ひらくと「古典と現代人の心」と題する
6ページほどの文がありました。

そこに今昔物語の例が紹介されていたので、引用。

「最近は『今昔物語』をよく読んでいるが、そのなかに
『本朝世俗部巻第24の第24、玄象の琵琶、鬼の為に取らるる語』
について考えてみる。これは村上天皇の御代に玄象という琵琶の
名器がなくなり、源博雅がふと聞えてくる琵琶の音を玄象の音と知り、
そこへ訪ねて行く、すると、それを盗っていた鬼が、二階から玄象に
縄をつけて下ろし、博雅に返してくれ、彼は天皇のおほめにあずかる、
という話である。・・・・・・

・・・筆者はこの物語を読んでいて、筆者のもとに相談に来た、
ある中年の女性のことを思い出した。彼女は有能な職業人であったが、
急にうつ病に襲われ、仕事をする気がまったくなくなった。そして、
彼女の言によると、彼女を支えていた趣味である『歌を歌う』ことが、
どうしても出来ない。・・・・・合唱団で活躍していた彼女にとって、
歌は単なる趣味をこえて、彼女の生きることの支えであった。しかし、
歌がまったく彼女の心のなかから消え去ったのだ。そして、
彼女は何故にそうなったのか、まったくわからないのである。

このような不可解なことは、いろいろなノイローゼという形で
現代人によく生じるのだ。こんなとき、彼女の心のなかの『玄象』が、
ふとある日消え失せてしまったのだと考えると、よくその現象に
マッチするのではなかろうか。そして、われわれ心理療法家の役割は、
彼女の心のなかから聞こえてくる秘かな音のなかで、『玄象』の音を
聞きわけ、そこへ訪ねて行き、それを盗んだ『鬼』に向かって、楽器
の返却を交渉することではなかろうか。このことを、現代風に言えば、
『心の深層の分析』とか言うことになるのではなかろうか。博雅の場合、
鬼は簡単に返してくれたが、すべての鬼がそれほど大人しいとは限らない。

とすると、われわれは『無意識の分析』をなしつつ、
それに伴う危険性についての、十分な覚悟と準備が必要となる。
このように考えると、『今昔物語』のなかに語られる、
多くの鬼の話が、無意識と対決するときの方法について、
いろいろな示唆を与えてくれるものとして読みとれるのである。
・・・」(p72~74)

あとは、パラパラと引用。

「現代に生きる、ということは、近代をどうこえてゆくか
ということになる。自分から切り離したものとして対象化された
ことに関する知を、われわれは豊富に持っているが、それと共に、
自分をも組みこんだ、自分にとっての知を、普遍性に至るひとつの
道として探し出してゆくこともしなくてはならない。深層心理学は、
後者のような意味での心に関する知を確立しようとする。・・・」
(p75)

「・・『明恵 夢を生きる』という本を出版したが、これを書く
については、明恵の生きた時代の人々の様子を知る必要があり、
そのために、はじめに述べたような『今昔物語』などをつぎつぎと
読むことになった。ところが、そのどれもがやたらに面白いのである。
心の現実に関する知の宝庫と言っていいだろう。
実際、日本の古典がこんなに凄いものとは、
筆者はこの年になるまで知らなかった。・・・」(p76)

「このような古典について・・・ともかくそれについて
『語る』ことの重要性ということを痛感するようになった。
分析とか解釈などという前に、それを語ること、それに
聴きいることが大切だ。それは、既に述べたように、
われわれはそれを対象化して得る知ではなく、自らが
かかわることによって得る知を必要としているからである。
夢にしても、それを冷たく分析する前に、
『夢を生きる』ことが大切なのである。」(p77)


うん。自分で線を引いてあるので、以前に読んだはずなのに、
すっかり読んだことすら忘れておりました。読んだ時は、ここから、
河合隼雄をいろいろ読んでみようと、そう思った気がします。
そう思ったままに、興味は、ほかへと移ってしまっておりました。
本をひらくと、ふらりと舞い戻ってきたような、そんな本棚並べ。
日本の古典ということで、河合隼雄ともつながっておりました。

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今昔物語集の魅力。

2020-10-08 | 本棚並べ
集英社の「わたしの古典⑪」は
「もろさわようこの今昔物語集」(1986年)。
この本の最後、山口仲美さんが解説をしておりました。
そのはじまりを引用。

「『今昔物語集』は、ふしぎに作家の創作意欲を刺激する作品である。
かつて、芥川龍之介が原典・・所収の説話を素材にして・・・
短編小説を書いたことは、有名である。・・・・
芥川は、原典・・には見られない内面描写に重点をおき、
普遍的な人間性をシニカルに描き出した。
もろさわようこ氏の『今昔物語集』も、原典をもとに、
氏独自の解釈を施して書き下ろした短編小説集である。・・・」

「原典『今昔物語集』には、こうしようかああしようかと
思い迷う心理の記述は見られない。外から見える行動と会話で、
話が展開していく。つまり、一貫した外面描写で即物的に語る、
これが、『今昔物語集』の基本的な叙述態度である。・・・」

ここからは、山口仲美さんの本の紹介。
山口仲美著「日本語の歴史」(岩波新書・2006年)に

「『今昔物語集』ほど、魅力的な古典はそんなに多くありません。
漢文訓読に用いる硬い言葉や言い回しでストレートに物事を描写する。
それが、ごつごつした漢字カタカナ交じり文とマッチして、効果を
あげているのです。私は、『今昔物語集』の虜になってしまい、
『平安朝«元気印»列伝』(丸善ライブラリー)や
『すらすら読める今昔物語集』(講談社)を書いています・・・」
(p64)

ちなみに、『平安朝«元気印»列伝』は
副題が「『今昔物語』の女たち」となっており、
こちらは、1992年に出版されており、
『すらすら読める今昔物語集』が、2004年に出ております。
『すらすら読める‥』のはじめにで、山口仲美さんは
こう指摘されておりました。

「現代の私たちに生きる力を与えてくれる話を選んで
この本にとりあげることにした。現代人は、わたしを含め、
ストレスを受けすぎて、人間の持つ本来の力強さ、生命力が
萎えているように思える。多くの人は、しょんぼりと肩を
落として道を歩いている。

そんな時に、生きるか死ぬかの瀬戸際で知恵と勇気を振り絞って
生きのびていく話、苦しみあがいているうちに光明を見出す話、
日常のしくじりを好転させる話、降りかかった災難を弁舌の力や
夫婦の力で払いのけていく話、などを読むと、不思議に癒され、
生きる力がわいてくる。・・・」


ちなみに、
『すらすら読める今昔物語集』は
ふりがな付原文のページ下に山口さんの訳。
各話のあとに、解説がつきます。

『平安朝«元気印»列伝』は新書で絵巻や原文の写真入りで、
山口さんが内容を語ってゆく読みやすさ。

はじめての人に、私のおすすめは
岩波少年文庫にはいっている
杉浦明平著「今昔ものがたり」(1995年)が
簡単・簡素で、スラスラ読めちゃうすぐれもの(笑)。






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謡曲集・狂言集。

2020-10-07 | 本棚並べ
集英社の「わたしの古典⑮」は、
「馬場あき子の謡曲集・三枝和子の狂言集」(1987年)。
ちなみに、この本の最後の解説は寿岳章子。

はい。ここでは、3人の方の言葉をちょっと引用することに。
はじめは、馬場あき子さん。

「能と出会って四十年、日常の折々の中でふと口ずさむ
謡(うたい)の節や詞章に、しぜんとその時々の心情に
ふさわしいものをえらんでいるのに微笑を覚えることが
しばしばである。けれど、それを口語訳しようと思ったことは
一度もなかった。口語に置きかえることによって、文語の
格調や韻律の張りを消してしまい、謡曲のもっている詩魂を
いたく冒瀆(ぼうとく)するように思えたからである。

けれど、謡曲の世界を文学として多くの人に知ってほしい
という気持ちは私の内がわに年々に濃くなっていくようだ。
・・・」(「わたしと謡曲」p7)


つぎは、三枝和子さん

「狂言は大好きである。第一、声が良い。底抜けに明るく、
曇りなく、あれは人間が出せる最高の声である。

はじめて狂言を観たのは、戦前、女学校低学年のとき、
大きな笑い声に驚きながらも、とてもすがすがしい気持ちになった。
それが不思議だった。・・・狂言はその発生において
農耕社会の宗教的祭祀儀礼と深くかかわりを持っていた
ことを知り、なるほど、と納得したのであった。

そのうえ、主人も家来も、亭主も女房も、
たてまえを捨て本音でつきあうところがあり、
ときには家来が主人を、女房が亭主をこてんぱんに
やっつけるところがあり、その全体がゆとりのある
笑いに包まれているのが快い。

狂言は、能と深いかかわりを持ちながら完成されてきた
芸能である。・・・」
(「わたしと狂言」p149)


さいごは、寿岳章子さん。

「・・もともと日本古来の芸能に『猿楽』という芸能があった。
平安時代というと、『源氏物語』だの『枕草子』だのという
イメージで、優雅とか、十二単衣とか、和歌とか、そんな世界
ばかりが念頭に浮かぶかもしれない。せいぜい芸能といっても、
京都の葵祭の折、上賀茂神社で演ぜられる舞楽のような、
やはりどこやら荘重でおどろおどろしいものを
思うにとどまるかもしれない。

しかし民衆はたくましくて陽気で、おもしろいものを求める。
そうした民衆の要望にこたえる芸能が、たとえば猿楽だったに
ちがいない。物まねやら言葉芸やらで、見ても聞いてもとても
楽しいものだったらしい。少しばかり品が悪かったり、いやに
皮肉っぽくて鋭かったり、とにかく硬直化しない生き生きした
ものだった。おそらく常に時代に即応して、きわめて
生命力あふれたものであったのだ。・・・・・

室町時代、足利義満の時代の観阿弥・世阿弥という父子二代・・
親子二代にわたって、彼らは能という演劇をいっきょに作りあげた
のである。・・・・・

土台は猿楽だが、それは全くちがうものになり変わった。」


「アンソロジィ=詞華集ということばがある。
謡曲はひょっとすると、一種の日本的詞華集といえないだろうか。
さまざまの古典から引用、日本のキー・ワード集、時にはそれは
海を渡った中国のそれも含めて、まことに多彩なことばの花園である。

謡曲にその魅力を感じることが可能なったとき、
読者の美的な感受性は、いっきょに確かものに
なったというべきであろう。」(~p285)


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ただ、過ぎに過ぐるもの。

2020-10-06 | 本棚並べ
集英社「わたしの古典⑨」は、「杉本苑子の枕草子」。
はじまりに、「わたしと『枕草子』」という2頁の文。
そこから、みじかい引用。

「・・・『枕草子』は、随筆という枠でくくらず、
一人の作家の手になる随想と小説を、一冊にまとめた大変
バラエティに富んだ作品ーーそう、とらえてよいのではなかろうか。

しかもその短編の主人公は、いつの場合も筆者である清少納言
自身だし、他の登場人物はみな実在した人々だから、さしずめ
これらの作品群は、実名小説、私小説の草分けともいえる。

一編一編に、いきいきと清少納言が息づき、活躍している点、
紫式部が『源氏物語』の陰に、彼女みずからの実像を巧みに
晦(くら)ましてしまった事実と、好対照をなしている。

たぶんに美化して描かれている清少納言の才能や性格、人となりを
『嫌味な自慢屋』ととるか『無邪気な楽天家』ととるかは、
読者の好きずきであろう。・・・」

はい。この文の最後は、こう締めくくられておりました。

「ともあれ、細かいことは二の次にして、
『枕草子』にアタックしてみよう。かならず一つ二つ、
読み手の感性に触れる言葉があるにちがいない。

ちなみに、『枕草子』の中で、私がもっとも好きな言葉は・・
『ただ、過ぎに過ぐるもの、
帆あげたる舟、人の齢(よはひ)。春、夏、秋、冬。』」


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古典と女性。

2020-10-05 | 本棚並べ
源氏物語にしても、枕草子にしても、女性が作者でした。
ひょっとすると、日本の古典では、女性との相性がよい。
という視点もあるかもしれません。

はい。集英社の「わたしの古典」全22巻は、女性による
古典の訳で、まとまっております。その1巻目は
「田辺聖子の古事記」(1986年)でした。
のちに、集英社文庫にも、このシリーズは入ったようです。
それはそうと、この1巻目の序章で田辺聖子さんは
こう指摘しておりました。

「それにしても、これを朗誦した稗田阿礼はどんな人だったのだろう。
今までは阿礼は男性と思われていたが、近来の研究では、
『宮廷の祭儀に仕えた巫女』ではないかともいわれる
(小学館「日本古典文学全集・古事記」荻原浅男氏)。

また『古事記』は天武天皇の意を受けた持統天皇・元明天皇らの
女帝が、後宮で撰進(せんしん)せしめたとする説もあり
(「古事記」が男性の手による一切の公的記録から省かれ、
黙殺されているのも、暗示的である)、もしそうとすれば、
『古事記』の持つふしぎな要素が、納得できる気もする。
『古事記』の登場人物たちは、本能のままに生きる自然児である。
・・・生(き)のままの古代日本を語るには、男性よりも、
本音をいうに抵抗感のない女性たちが適していたかもしれない。」
(単行本p16~17)


そうとするなら、日本の古典を、女性たちが現代語訳するのは
的を射ている企画だったと思えてくるじゃありませんか。
集英社の「わたしの古典」全22巻は、
古本でセットが、5090円+送料1080円=6170円。
一冊にすると280円ナリ。

どうしたかというと、私は注文しました。
はい。そういうわけで、しばらくは
このシリーズのまえがき・あとがきの紹介となります。

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一日一笑。織田正吉。

2020-10-04 | 本棚並べ
気になったのでネットで本の検索。
織田正吉著「ユーモアのある風景」(編集工房ノア・2020年)。
これが古本価格で買えるようでした。

うん。値段につられて注文することに。定価は2420円(税込み)
これが1200円+送料257円=1457円。天牛書店でした。
それが昨日届く。ひらけば、新刊そのままの状態で
売上カードまではさまっておりました。

ということで、これは、きちんと紹介しなさいという
天の差配じゃないかと、そう思ってさっそく引用。

終りのほうに自筆年譜がついております。
昭和6(1931)年12月4日
兵庫県神戸市兵庫区浜崎通に生まれる。
とあります。

ちなみに、はじまりの「序にかえて」には、
「・・昨年、私は88歳という途方もない年齢になった。
少年の日に戦中戦後をまたぎ、昭和、平成を経て令和の
今日を生きて、1世紀近い世の移り変りをリアルタイムで見てきた。」
とあるのでした。

自筆年譜の64歳(1995年)をみると

「阪神淡路大震災。自宅は倒壊を免れたが、水道が出ない・・」
「12月14日、ラジオ番組収録中に体調急変、大動脈解離で
神戸市中央市民病院に入院、病院で年を越す」

以降、病気の箇所を引用してみます。

平成15(2003)年72歳
「2月、腰椎圧迫骨折。神戸労災病院で治療を受ける」

平成20(2008)年77歳
「神戸市中央市民病院で総胆管結石、胆石の手術を受ける」
平成22(2010)年79歳
「5月、左大腿骨骨折、神戸労災病院入院。6月退院」

平成23(2011)年80歳
「1月、喜味こいし氏死去、葬儀委員長をつとめる。
8月2日、妻純子、死去、73歳。
80歳を節目としてすべての仕事から引退・・・」
平成24(2012)年81歳
「5月、弟英一死去、77歳。
8月、転倒して神戸労災病院入院、右大腿骨折の手術を受ける。
東神戸病院に転院、リハビリを行う。翌年1月退院。」

平成26(2014)年83歳
「8月、神戸市中央市民病院で肝癌手術を受ける。
以後、再発をくりかえし入院、その都度、初期で治癒」
平成27年84歳
「2月、白内障手術を受ける。読書が困難になっていたが、
視力1・2に戻る」
平成29年86歳
「9月、兄洋一死去、89歳」


「あとがき」の最後も引用しておきます。

「コロナウイルスはこの先どうなるのか。来年には終息して
いるだろうか。生きていると何が起こるかわからない。
コロナ以上にとんでもないことが起こるかもしれない。・・・

たとえ地球の終わりが明日でも私は今日リンゴの木を植える。
一日一笑、笑いを語りつづける。
今日は光秀と信長が対面しているところを思い浮かべた。
2人とも白いマスクを付けている。

   令和2年4月        織田正吉   」

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誰にも見せない。

2020-10-03 | 本棚並べ
新潮文庫の「心理療法個人授業」が、
やっと、本棚に見つかる。
先生が河合隼雄。生徒が南伸坊。
うん。この本の第9講「箱庭を見にいった」の
箇所がすっかり忘れていたので読み直してみたかった。
その最後に「先生の一言」がついているので、
そこからだけ引用してみる。

「今回は箱庭療法が取りあげられた。
南さんが箱庭をされなかったのは賢明である。
やはり、一対一で誰にも見せないことを前提にするから
意味があるものができるのだ(例外がないとは言えないが)。
人に見せるとか、面白半分とかでは、あまり意味のあるものはできない。

悩みの深い人は、表現せざるを得ないものをもってくる。
それが自然に出てくるのだから、迫力があるのも当然だ。
『むちゃくちゃな「アイデア」もん』と南さんは言っているが、
これを読者は誤解しないで欲しい。
何か素晴らしいアイデアがあって表現されるのでなく、
本人もわけのわからないX(エックス)が、箱庭のなかに姿を表してくる、
という方が適切な感じなのである。『出そう』として出てくるものではない。

ロールシャッハはむしろ、診断のために用いられるが、
箱庭療法はその作品を見ていろいろと判断するよりも、
それを作った人が、そのような創造活動によって自ら癒される、
という点が大切である。

どんな人でも自分の心の奥底に『自己治癒』の可能性をもっている。
しかし、それがどのようにして発露されるかが問題なのだ。
『箱庭』はそのような自己治癒の作用がはたらく『場』を与えてくれる。

とは言っても、そのようなことが生じる基礎として、
治療者とクライアントの人間関係があることを忘れてはならない。
ここが不思議と言えば不思議なところである。

治療者はたとい黙って見ているだけにしろ、どんな治療者か、
治療者とクライアントの関係はどうか、などの条件によって
治療の過程は変ってくるのである。

箱庭のこととなるとこちらが興奮して(?)、
言いたいことを一気に書いてしまった。これじゃ
『講評』にもなっていないが、南さんの文が
私をこんな状態にしたのだから、
やはり『関係』というのは大切である。」
(p154~157:p155には南さんのイラストも)

うん。第9講の「先生の一言」をけっきょく
全文引用してしまいました。
うん。分ったと思うさきから、すぐに忘れる。
この文庫本を、再読できてよかった。


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京からの手紙。

2020-10-02 | 手紙
もっぱら、安い古本がたまっております(笑)。
うん。系統だった本の購入でなく、場当たり的。
その一冊に、
「古典の森へ 田辺聖子の誘(いざな)う」(集英社・1988年)
がありました。新聞に月一回の連載で、おしゃべりを工藤直子さんが
書き留めたものだそうです。この本に枕草子が出ておりました。

そのはじまりは、
「私は『枕草子』を読んでいて【ああ、女だなあ。女なればこその、
ものの見かた、発想だなあ】って感じるところが、じつに多いのね。
だから、私は『枕草子』をこう読んだ、という思いを軸にしたものを
書きたいと、清少納言を主人公にして、『むかし・あけぼの』という
小説を書きました。」(p68)

うん。『むかし・あけぼの』という小説を書かかれたようです。
はい、小説は私は敬遠する方なので、それについてはノーコメント。

聖子さんのおしゃべりは続きます。
ひとつ面白いなあと、印象に残った箇所はここでした。

「『すさまじきもの』のところで
『人の国よりおこせたるふみの物なき』というのがあります。
【地方から、こちらに送って寄こしている手紙に、贈り物が
ついていないの】というのね。
手紙だけくれて贈り物がないのはシラケル、と。これも貴重な財源
だったのかな、かなり現実的な、欲深いことをいっていますね(笑)。

それでいて京から送るのは手紙だけでいい、なんて、
あつかましいのね(笑)。なぜかというと
『それはゆかしきことどもを書きあつめ、
世にある事などをもきけばいとよし』というわけ。
つまり、京からの手紙には、地方で知りたいことを書き集め、
世間の出来事をも聞くのだから、それでよろしい、と。
品物に見あうだけの情報が入っているのだから、
なにも添えなくていい、と。なかなか頭(ず)が高いんです(笑)。
・・・・」(p72~73)

うん。なかなか、現在の情報社会を先取りしているなあ。
と思ってしまう箇所です。よく正直に書いておられる。

そういえば、徒然草の第117段が思い浮かびます。
その段は「友とするに悪(わろ)き者、七つあり。」
とはじまり、箇条書きに手短にかかれたあとでした。
「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。
二つには医者(くすし)。三つには、智恵ある友。」
としめくくられておりました。

それでは、吉田兼好さんは、
物くるる友に、お返しの物を差し上げたのでしょうか?
あるいは、清少納言のように情報を提供していたのでしょうか?

枕草子でいうところの
『ゆかしきことどもを書き集め・・・』
その書き集められた集大成が、枕草子あり、
また、徒然草でもあったのでしょうか?

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