はい。連れ合いの名前といえば、
司馬遼太郎著「ひとびとの跫音(あしおと)」に、
ぬやま・ひろし(タカジ)という実在の人物が登場します。
そのタカジが名前を呼ぶときには、「くん・さん」をつけずに
名前そのもので呼んだとあり印象に残っておりました。
うん。その後読み返していないので、本では
どう語られていたのか、すっかり忘れましたが、
これを読んで以来。その影響か、私は子供の名前も、
名前そのもので呼び、連れ合いも同様にして呼んでおります。
さてっと、大庭みな子著「雲を追い」(小学館)に
「杜詞と奈児」と題する短文がありました。
そのはじまりを引用することに、
「病気で倒れてから1年になる。その間三つの病院で過ごしたが、
頭の方もかなりぼんやりしていて、うつらうつらと日を送ってい
たことが多いらしい。その間看病に欠かさず来ていた連れ合いを
名前そのもので読んでいたので、彼の名前はどの病院でも、
看護婦、医師、患者に知れわたることになってしまった。
家では結婚以来40数年の間『トシ』『トシちゃん』で過ごして
きたわけだから、無意識のうちに発する言葉はそれ以外にはない
わけだ。『トシはまだ来てませんか』『トシはどこでしょう』
などと言うと、70に近い老人のそんな呼び方に初めての看護婦さん
はびっくりしたような顔をするが、それが夫のことだと分かれば、
あとは彼女たちもその名前を利用する。
『ほらトシオさんが来ましたよ』、『トシオさんは遅いですね』
といった具合である。
いろいろエッセイなどを書いてきたが、
配偶者のことをどう書くかは悩みが多かった。
わたしの年代では『主人』などという言葉は抵抗があって
とうてい使う気がしない。母の年代では『宅』と呼ぶ中流夫人も
多かったようだが、今では死語に近いようだ。『夫』あるいは、
『伴侶(はんりょ)』はなんだかよそよそしい抽象的な感じがする。
『宿六(やどろく)』と言えば落語か漫才の世界になってしまうし、
『うちの人』というのは何だかペットの感じがしないでもない。
『彼』という言葉も悪くはないが、英語調だし、それに夫以外にも
彼はいるわけだから困る場合もあるかもしれない。
『同行者』という言葉を使っている人もいるようだが、
何だか一緒に歩いているのは弘法大師のような気がして好きでない。
適当な表現に困って結局わたしは『連れ合い』という言葉を
使うことが多かったが、それで満足していたわけではない。
何となく照れるような感じもあって、面倒だからなるべく
言葉には出さぬ方を選ぶことにもなってしまう。
・・・・・・
しかし、病になって唯一最大の介護者の『連れ合い』を他人に
対しても無意識のうちに彼の名前そのものを呼んでみれば、
それが一番適当な呼び方だったのだと悟った。
『連れ合い』などと多少照れもあるような呼び方よりも
数十年続けてきた『トシオ、トシ』『ミナコ、ミナ、ナコ』
で通せばよいわけだ。連れでも配偶者でもない、
人そのものの名前がもっとも適当な名前であると居直ることにする。」
はい。文筆家の大庭みな子さんが
『配偶者のことをどう書くかは悩みが多かった』とあります。
うん。私など、こうしてブログを書いていると
『面倒だからなるべく言葉に出さぬ方を選ぶことにもなって』
という感じがよくわかるじゃありませんか。