本棚から谷沢永一の本を数冊とりだす。
お気楽に読める対談集をひらくと、
司馬遼太郎著「ひとびとの跫音(あしおと)」を
話し合っている箇所がありました。
木場】 正岡子規は・・・。
山野】 「ひとびとの跫音」ですね。
木場】 あれは小説を呼んでいるような気になりますね。
ところが小説ではない。
山野】 いわゆる小説ではないですね。
木場】 エッセイでもない。しかしドラマになっている。
山野】そもそも、ジャンルで分けようとすると、
暖簾に腕押し、途方にくれるのが司馬さんの世界です。
谷沢】「ひとびとの跫音」は既成概念における小説家からは外れています。
木場】しかし、読むとすごいドラマを見終わった感じがします。
山野】司馬史観とか、パノラマ――鳥瞰史観といわれますね。
正体不明の言葉ですが。「ひとびとの跫音」はそれに対するひそかな、
しかし確固たる異議申立てではないですか。「そんなにおっしゃるなら
地べたを這って人間を見る手並みを披露しましょうか」と。
谷沢】司馬さんははみ出すんです。「空海の風景」も、
小説かどうか、判断が難しい。
山野】好ましき逸脱の人、という感じがありますね。
作品によく出てくる名文句の『ついでながら』。
あれも文章の中での好ましい逸脱と思うんです。
谷沢】あれが出てくるので、一部の人は頭から反撥する。
ああいうことは小説の中で言うべきでない、という牢固たる
純文学の観念があるのです。日本に限りませんがね。・・・・
(p93~94)本は
谷沢永一著「本音を語る① 人たらし」(バンガード・1998年)
対談相手は、木場康治・山野博史。
はい、私は「空海の風景」未読です。