和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

私たちのすぐそばに。

2020-10-25 | 本棚並べ
津野海太郎著「最後の読書」(新潮社・2018年)が
本棚にあった。新刊で買ってパラパラ読みしたまま、
すっかり忘れておりました。

目次をめくると、「古典が読めない!」と題する
15頁の文がある。さっそくひらいて読んでみる。
そのはじまりは

「私がある本をえらぶのか、それともある本が私をえらぶのか。
いずれにせよ、近ごろは、じぶんとおなじ年ごろの70代から80代
ぐらいの人たちが書いた本を手にとる機会が、めだって増えてきた。」

「いざじっさいに年をとってみると、なかなか思うようには
いかんのですよ。われわれ新老人を・・待ちかまえている難関が
いくつもある。その最大のひとつが『古典が読めない!』という
難関・・・・小学校から高校まで、習字や漢文もふくめての本気の
古典教育をうけたという記憶がまったくといっていいほどない。
その点にかんするかぎり、私のあとにきた人たちだって、
だいたいは似たようなものなのではないかな。・・・



このつぎに「でもわれわれ以前の人たちはかならずしも
そうではなかった」として堀田善衛氏の登場となります。
ここで、堀田善衛著「故園風来抄」(集英社・1999年)
をとりあげておりました。

「・・この連載は、日本の古典をめぐる短めのエッセイを
ほぼ時代順につづるという趣向で・・・1998年、連載が
32回目の『一言芳談抄』になったところで、著者の死によって
中断される。けっきょく、これが堀田善衛の最後の著書という
ことになった。すると連載のはじまったのが1992年だから、
これは80歳で没した堀田が70代後半に書いた本ということになる。

当初から、かれは、この連載であつかう原典のすべてを読むか、
読みなおすかしようと決めていたらしい。もちろん、ざっと
読みとばすとか、ときには必要な箇所にしぼって読んだりも
しただろう。でも基本的には、『日本霊異記の全説話と付き合う
ことはなかなかのことであったが』などとグチをこぼしながらも、
最後まで所期の目標をつらぬきとおすことができた。」

このあとに、津野海太郎氏は、こう語るのでした。

「それにしても、70代後半から80歳といえば、
いまの私とまったくおなじ年ごろだぜ。
死を目前にしたそんなよれよれ老人が、
どちらかといえば軽いエッセイ連載のために、
これだけの重労働をなんとかこなしてしまう。

いまとなってはもはや絶滅寸前というしかないが、
しばらくまえまでは、こうした荒わざを平然と
やってのける人たちが私たちのすぐそばに生きていた。

そして堀田はまぎれもなくそのひとりだったのです。」
(p140~144)

はい。このようにして軽いエッセイを連載した方がいた。
なんてことを、ちっとも思いもしなかった私がおります。

はい。おそらくこの短文を私は読んだのだと思います。
なぜって、しっかり『故園風来抄』を買ってあった。
買っても、読まずに本棚で埃をかぶっておりました。
はい。すぐそばにあっても読まないんだからね。

コメント
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