今、基礎学力としての「読み」「書き」「そろばん」が見直されています。江戸時代の寺子屋ではありませんが、大きな声で本を読むことや漢字を覚えること、簡単な四則計算ができること、これらを、毎日、反復訓練して教え込む。このことの大切さが取り上げられています。「ゆとり」教育の中で失われたであろう、基礎学力を再びきちんとつけさせることへの取り組みが全国の小学校や中学校で行われているのです。「習字」の重要性がクローズアップされないのはとても残念ですが。学校では、今、朝読書、算数ドリル、漢字ドリル・・・。
中でも、一番関心の高いのが、「国語力」。マスコミでも最近の小学生・中学生の漢字読み書き能力の低下が話題になっていますし。漢字のみならず、語彙力や単純な表現能力、文節力から文章の構成力の不足なども話題に。これは、読解力の低下とも大きく結びついているでしょうね。たしかに今の若者は、「良書」を読まないようです、特に哲学や思想に関する書物は。
また、これは今に限ったことではありませんが、最近の若者の話し言葉のおかしさや無アクセント化なども批判の俎上にのぼっています。ひところ、「おかしな」アクセントの言い回しや「ら」抜き言葉に対する批判がありましたが、どうも最近は世の大人たちもすっかり諦めきったのか、あまり話題になりませんね。
なにしろ、TVアナウンサーからしてもうめちゃくちゃ。まして面白・おかしい若手芸人に、のりだけでつき合って、中身抜きに話しの上っ皮だけを吸収している若者には叶いませんから。出版社の中には、そうした新しいジャンルともいえる若者文化(言語表現)に注目して、さまざまなかたちの本として、積極的に市場に売り出すケースもあります。世の大人たちはその状況を垣間見て顰蹙顔をして曰わく、「そんな若者文化はナンセンス!言葉を知らない、敬語を知らない、漢字が読めない、書けない・・・」と。
いつの時代でもそうなのですかね、「最近の若者は・・・」という言い方は。そういえば、小生が若い頃にも、職場の年寄りから「最近の若者はモノを知らない、口の利き方を知らない」とぶつぶつ言われたものです。その小生が、その時のように、今度は若い人たちに向かって「今の若い連中は・・・」と言っています。
それでも、すべての基礎は国語力だと言われていますが、たしかにそうですね。算数をやるんだって何が書いてあるか、何を答えたらいいのか。文章題の苦手な子は、ますます増えているようです。また、理科だって社会だって、すべて言葉で表現されているのですから、当たり前に国語の力が基礎ですよね。英語で話す書くということ(特に話すことが重要視されてきています)でも、まず日本語の語彙力がなければ、満足に相手に自分の考えを伝え、話せないと思いますが、どうでしょうか。
ですから、世田谷区などでは、「国語力」向上を特色にした基礎教育を展開。また来年4月、東京墨田区の都立両国高校に出来る中高一貫校も「国語力」をメインにした学校づくりを指向しているようです。通常の国語の授業の他に、特設科目として「考える国語Ⅰ・Ⅱ」を設けるなど。もちろん、語学ということで、英語力向上にもかなり力を入れるようです。(「考える・・」というセンスは気に入りました。)
ただ、「国語」というネーミングには、少し抵抗感があります。国際化時代ですので、広い言語能力の一部として「日本語」と言う言い方がいいと思いますが。
最近は、大学でも講座や学科名を「国文科」から「日本語学科」に変えたりするところもあります。それには反対だという意見も「国文学者」の方々には多くあるようです。たしか戦前は、「国語」が「修身」とならんで「国民意識」の涵養に大きな影響力を持ったと思います。
日本語の乱れをただす、美しい日本語の使い手の育成、などとあまり言い過ぎると、気がついたら思わぬ方向にいかないともかぎりません。
「歌は世につれ、世は歌につれ」ではありませんが、言葉もまた「世につれ」世も「言葉につれ」でいくしかないことも事実です。「正しい国語を」などと大上段に振りかぶらず、国際化・情報化の中、コンピュータ機器の急速な普及の中、若い者も老いた者も「日本語を用いる」人間として(「日本人として」と決めつけるのはよくありません)、まずより豊かで充実した精神生活が大事なのではないでしょうか。

中でも、一番関心の高いのが、「国語力」。マスコミでも最近の小学生・中学生の漢字読み書き能力の低下が話題になっていますし。漢字のみならず、語彙力や単純な表現能力、文節力から文章の構成力の不足なども話題に。これは、読解力の低下とも大きく結びついているでしょうね。たしかに今の若者は、「良書」を読まないようです、特に哲学や思想に関する書物は。
また、これは今に限ったことではありませんが、最近の若者の話し言葉のおかしさや無アクセント化なども批判の俎上にのぼっています。ひところ、「おかしな」アクセントの言い回しや「ら」抜き言葉に対する批判がありましたが、どうも最近は世の大人たちもすっかり諦めきったのか、あまり話題になりませんね。
なにしろ、TVアナウンサーからしてもうめちゃくちゃ。まして面白・おかしい若手芸人に、のりだけでつき合って、中身抜きに話しの上っ皮だけを吸収している若者には叶いませんから。出版社の中には、そうした新しいジャンルともいえる若者文化(言語表現)に注目して、さまざまなかたちの本として、積極的に市場に売り出すケースもあります。世の大人たちはその状況を垣間見て顰蹙顔をして曰わく、「そんな若者文化はナンセンス!言葉を知らない、敬語を知らない、漢字が読めない、書けない・・・」と。
いつの時代でもそうなのですかね、「最近の若者は・・・」という言い方は。そういえば、小生が若い頃にも、職場の年寄りから「最近の若者はモノを知らない、口の利き方を知らない」とぶつぶつ言われたものです。その小生が、その時のように、今度は若い人たちに向かって「今の若い連中は・・・」と言っています。
それでも、すべての基礎は国語力だと言われていますが、たしかにそうですね。算数をやるんだって何が書いてあるか、何を答えたらいいのか。文章題の苦手な子は、ますます増えているようです。また、理科だって社会だって、すべて言葉で表現されているのですから、当たり前に国語の力が基礎ですよね。英語で話す書くということ(特に話すことが重要視されてきています)でも、まず日本語の語彙力がなければ、満足に相手に自分の考えを伝え、話せないと思いますが、どうでしょうか。
ですから、世田谷区などでは、「国語力」向上を特色にした基礎教育を展開。また来年4月、東京墨田区の都立両国高校に出来る中高一貫校も「国語力」をメインにした学校づくりを指向しているようです。通常の国語の授業の他に、特設科目として「考える国語Ⅰ・Ⅱ」を設けるなど。もちろん、語学ということで、英語力向上にもかなり力を入れるようです。(「考える・・」というセンスは気に入りました。)
ただ、「国語」というネーミングには、少し抵抗感があります。国際化時代ですので、広い言語能力の一部として「日本語」と言う言い方がいいと思いますが。
最近は、大学でも講座や学科名を「国文科」から「日本語学科」に変えたりするところもあります。それには反対だという意見も「国文学者」の方々には多くあるようです。たしか戦前は、「国語」が「修身」とならんで「国民意識」の涵養に大きな影響力を持ったと思います。
日本語の乱れをただす、美しい日本語の使い手の育成、などとあまり言い過ぎると、気がついたら思わぬ方向にいかないともかぎりません。
「歌は世につれ、世は歌につれ」ではありませんが、言葉もまた「世につれ」世も「言葉につれ」でいくしかないことも事実です。「正しい国語を」などと大上段に振りかぶらず、国際化・情報化の中、コンピュータ機器の急速な普及の中、若い者も老いた者も「日本語を用いる」人間として(「日本人として」と決めつけるのはよくありません)、まずより豊かで充実した精神生活が大事なのではないでしょうか。


