おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

想像力の貧困または戦闘ロボットについて

2005-02-15 22:15:02 | 平和
 アメリカ軍が戦闘用のロボットの開発に成功し、イラクにその何台かを送り込むことになった。アメリカ軍兵士は頼もしい味方が出来たと喜んでいるという。かなりの正確さで目標物を攻撃する機能を持っているらしい。まるで、劇画的世界の登場だ。
 ついこの間、湾岸戦争のとき、茶の間にいながら、ミサイルが飛び交うシーンをまるで映画の一シーンを観ているかのように座ってTVを見ていた我々。飛び交うミサイルの下に、多くの人たちが傷つき倒れていったことに、麻痺させられていた自分。
 そうした第三者的感性のなさを恥じてから今日まで、映像世界的戦争観のもとで、ますます戦争は無機物化してきたのだ。戦う兵士たちに、相手の人間の生命を奪い、傷つける実感を失わせるにはちょうどいい「代理」戦争。
 一時代前、少なくとも第一次世界大戦あたりまで、戦争は、限られた戦場における、敵・味方の正規戦闘員(軍隊)同士の戦いであった。しかし、それ以降は、無差別にそれぞれの非戦闘員である国民が巻き込まれ、被害に遭う戦争へと変化し、人間の生命は軽んぜられていった。
 それでもアメリカ合衆国は、一部の場合を除いて兵士以外のアメリカ人が戦死することはなかった、少なくともあの9・11までは。
 9・11以来、事態は一変した。アメリカは国民総力戦を指向することとなった。反テロのための国民の団結・戦争準備・対策・・・。その取り組みの一つが、いかに自国民の被害を少なくするかにあった。その方向の一つがこの戦闘ロボットの開発と実用化だ。これで、自国の兵士の死は少なくなるだろう。
 だが、敵はロボットではない、生身の人間だ、兵士のみでなく、一般市民を含む人間だ。殺傷する相手は、人間だということを分かった上での開発なのだ。そこに、非情な戦争のロジックを感じる。
 第二次世界大戦のとき、ドイツ空軍のパイロットは、爆弾を地上に投下し、その爆弾が地上において次々と爆発している光景を機上で眺めて、「美しい深紅のバラの花が咲いているようだ」と表現したという。かつて、この話しを聞いたとき、そのパイロットの想像力の貧困さと、そのパイロットをしてそのように表現させた、ドイツ軍隊の冷酷さと非人間的な感性を思ったことがあった。真っ赤なバラの花の下・地上では、その爆弾で人々が傷つき逃げまどっていたのだから。
 今回の戦闘ロボットの配備とそれを好感をもって受け入れる兵士たちの想像力の貧しさが、より大きな悲劇を生んでいくことに恐怖を感じる。
コメント (4)
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