今朝、「朝日」の声の欄に、「大学入試で時計を忘れた女の子が、受験会場近くの交番に時計を借りに来た。交番勤務の夫は、時計が一つしかなかったので、貸すことが出来なかった。無事に試験を受けられただろうか、時計を貸せなかったことをずっと夫は悔やんでいる。警察官は冷たいなあと思ったろうが、許してほしい」。」警察官の妻から、そんな内容の投書が掲載された。
この間は、新幹線で停車駅を間違えて乗った受験生を、緊急停車して乗り換えさせ、無事に試験を受けられた粋な(?)JRの計らいが話題になった。パトカーで先導して受験会場に間に合わせたという話しも話題になった。そうした流れの中で、何だか便宜を図らないことが「許しを乞う」ようなトーンになっていくことにおかしさを感じるのは小生だけだろうか。
受験シーズン。交番勤務の警察官は、特に大学近くの交番では、これからは予備の時計を身につけて勤務しなければならない。だいたい、二つも腕時計をして仕事をしている人などは皆無だろう。まして、万が一のために(人に貸すために)予備の時計を常備している人も、いないだろう。
たしかに受験はその人にとって重大事だ。それまで勉強してきた成果を充分に発揮して、目標を勝ち取る。18歳(浪人生は?歳)にとっては一大試練でもあるだろう。そのために、周りの大人たちが出来る限り、最大限の便宜を提供すること、何とかその人間の失敗や不注意を取り戻してあげたい、と思うこと。それを美談のようにマスコミで取り上げる。
反対に、そうした便宜を図れなかった者に対して、何となく冷たく、人情味の薄い人物・組織のように思わせる。あげくのはてに、一介の交番勤務の夫に変わって、妻が実名入りで「許して下さい」という発言を投稿することになる。何かやっぱりおかしくないか。
だいたい、受験だけが人生ではない。これから先、60年以上にわたって人生の荒波をくぐっていかなければならない。ある意味では受験程度は大した試練ではないと、年取った小生は考えている。にもかかわらず、受験シーズンにかこつけて「いい話し」「悔いの残る話し」にしてしまうことに大きな疑問を感じるのだ。
ひとしきり、イラクでの3人の人質解放を巡って「自己責任」という言葉が話題になった。3人の行動を批判する人々は、「危険地域に行ってはいけないというのに、それを無視して行った。それで、人質に取られたからといって・・・」とかなり厳しく対応した。小生は、そうしたバッシングに対しては見解を異にした。3人の現地でのそれまでの活動を考慮すると、ただ「自己責任」ということだけで片づけてはならないと。
しかし、今回のようなケースは、受験生自身の「自己責任」ではないかと思うのだ。停車駅を間違えて乗ったのは、自己責任。それで遅刻したり、受験できなかったりするのは仕方がない。交通事情を考えて家を早く出る、これも自己責任。時計を忘れたら、それで受けるのが自己責任。そういう類のものではないか、今回の受験生の行動は。それに対して便宜を図ったことはおかしなことだ、と思う。
特に交通機関は、急病人などの緊急事態は別だが、(誰が、いつ、どこで、どういうふうに急病になるかは、神も知らない。それは自己責任とはいえないし、そういう場合には、自分の都合を無視しても、他の乗客たちも協力する。)それ以外に便宜を図ってはならないだろう。それなりに事情があって、一秒でも二秒でも早く着きたい人々も多いはずだから。(生死に関わらないことで、安直に緊急停車するな!)
それが何となく美談となり、(勿論、後でJRは「それをよしとはしていない」と発言したが)反対にしなければ、「冷たい仕打ち」となる。
こういうときにこそ、「それは残念だが、自分自身でまいた種、自分の責任で処置を考える、自分で結果はとるものだ。」と世の大人は発言しなければならない。
物わかりのいい大人ばかりであってはならない。
でも、受験生諸君!たとえどんな試練が訪れようと、全力で頑張れっておくれというエールを送ることにはしましょう。
この間は、新幹線で停車駅を間違えて乗った受験生を、緊急停車して乗り換えさせ、無事に試験を受けられた粋な(?)JRの計らいが話題になった。パトカーで先導して受験会場に間に合わせたという話しも話題になった。そうした流れの中で、何だか便宜を図らないことが「許しを乞う」ようなトーンになっていくことにおかしさを感じるのは小生だけだろうか。
受験シーズン。交番勤務の警察官は、特に大学近くの交番では、これからは予備の時計を身につけて勤務しなければならない。だいたい、二つも腕時計をして仕事をしている人などは皆無だろう。まして、万が一のために(人に貸すために)予備の時計を常備している人も、いないだろう。
たしかに受験はその人にとって重大事だ。それまで勉強してきた成果を充分に発揮して、目標を勝ち取る。18歳(浪人生は?歳)にとっては一大試練でもあるだろう。そのために、周りの大人たちが出来る限り、最大限の便宜を提供すること、何とかその人間の失敗や不注意を取り戻してあげたい、と思うこと。それを美談のようにマスコミで取り上げる。
反対に、そうした便宜を図れなかった者に対して、何となく冷たく、人情味の薄い人物・組織のように思わせる。あげくのはてに、一介の交番勤務の夫に変わって、妻が実名入りで「許して下さい」という発言を投稿することになる。何かやっぱりおかしくないか。
だいたい、受験だけが人生ではない。これから先、60年以上にわたって人生の荒波をくぐっていかなければならない。ある意味では受験程度は大した試練ではないと、年取った小生は考えている。にもかかわらず、受験シーズンにかこつけて「いい話し」「悔いの残る話し」にしてしまうことに大きな疑問を感じるのだ。
ひとしきり、イラクでの3人の人質解放を巡って「自己責任」という言葉が話題になった。3人の行動を批判する人々は、「危険地域に行ってはいけないというのに、それを無視して行った。それで、人質に取られたからといって・・・」とかなり厳しく対応した。小生は、そうしたバッシングに対しては見解を異にした。3人の現地でのそれまでの活動を考慮すると、ただ「自己責任」ということだけで片づけてはならないと。
しかし、今回のようなケースは、受験生自身の「自己責任」ではないかと思うのだ。停車駅を間違えて乗ったのは、自己責任。それで遅刻したり、受験できなかったりするのは仕方がない。交通事情を考えて家を早く出る、これも自己責任。時計を忘れたら、それで受けるのが自己責任。そういう類のものではないか、今回の受験生の行動は。それに対して便宜を図ったことはおかしなことだ、と思う。
特に交通機関は、急病人などの緊急事態は別だが、(誰が、いつ、どこで、どういうふうに急病になるかは、神も知らない。それは自己責任とはいえないし、そういう場合には、自分の都合を無視しても、他の乗客たちも協力する。)それ以外に便宜を図ってはならないだろう。それなりに事情があって、一秒でも二秒でも早く着きたい人々も多いはずだから。(生死に関わらないことで、安直に緊急停車するな!)
それが何となく美談となり、(勿論、後でJRは「それをよしとはしていない」と発言したが)反対にしなければ、「冷たい仕打ち」となる。
こういうときにこそ、「それは残念だが、自分自身でまいた種、自分の責任で処置を考える、自分で結果はとるものだ。」と世の大人は発言しなければならない。
物わかりのいい大人ばかりであってはならない。
でも、受験生諸君!たとえどんな試練が訪れようと、全力で頑張れっておくれというエールを送ることにはしましょう。