まもなく3月10日が来る。1945(昭和20)年3月10日。米軍機による空襲によって、東京の東部・下町を中心にして戦災死者の数は、10万人以上にのぼった。当時の本所区・深川区の被害が最も多く両区あわせて数万人と推定されているが、未だに正確な数が把握されていないほどだ。空襲直後、米軍が日本橋上空から撮影した写真をみると、隅田川東側は全くの焼け野原、荒川まですっかり見通せるほど何にもない廃墟と化した。その下には、何万という遺体が転がっている・・・。
この空襲は東京市部を襲った、他の場合とはその被害規模において比較にならないほどの被害を生んだ。アメリカ政府及びアメリカ空軍の狙いは、焼夷弾によって都市そのものを壊滅させ、日本国民の生活を破壊し、日本の戦意喪失であった。
この爆撃は、グアム島に司令部を置く第20航空軍所属のB29第21爆撃機集団によって実行された。アメリカ軍の攻撃方法は、絨毯爆撃という、攻撃目標地域を取り囲むように設定した爆撃投下照準点にまず焼夷弾を投下し、火災を発生させ、次の一団がこの目標火点をつなぐように焼夷弾を投下する、そして、その中を網の目のように区切り、各爆撃機が投下場所を分担し、共同して火の壁をいくつも作って、その地域一帯を焼け野原にするという方法だった。こうして、非戦闘員の多く居住する木造密集地帯を一挙に焼き尽くしたのである。
3月9日午後5時15分、325機のB29は、サイパン・テニアンの基地を出発、房総半島から東京に入り、10日真夜中、午前0時7分から2~3時間の間に、焼夷弾を実に1,665トン投下した。
被害の惨状はすさまじいものであった。強風に煽られた火災はたちまち家屋を次々と炎上させ、逃げまどう人々を炎で覆い尽くしたまま、一気に広がっていった。隅田川両岸も火が隅田川を超えて広がっていった。ただただ人々は我が身を火の粉から避けるのが精一杯。親・きょうだい・子どもたちとも離ればなれとなった。
3月10日の朝は、吹きまくった風も収まり、快晴であった。傷つきながらも危うく九死に一生を得た人々が見たものは、想像を絶する悲惨さであった。幹線道路上には、焼け死体がそこここに転がっていた。焼けた電車、垂れ下がった電線・・・。堀川には、流木の間にたくさんの遺体が浮いている。子どもも大人も性別も分からぬ遺体が小路や路地に累々と重なり合ってあった。錦糸公園では、穴を掘って遺体を葬った。その数、1万8千体だったという。他の公園でも次々と遺体が仮埋葬された。その埋葬された遺体は、2~3年後、掘り返されて火葬に付された。
まだまだ書ききれない。この東京大空襲については、さまざまな記録が残されている。ぜひ見ていただきたい。また、墨田区にある「すみだ郷土文化資料館」では展示も行っている。ぜひお出かけ下さい。
JR錦糸町駅近くに都立両国高校がある。最もひどい被害を受けた地域にある学校だ。当時、この高校のプールに入って、水の冷たさと迫り来る炎と恐怖に耐えながら命を助かった人も多くいるという。この高校の卒業式は、伝統的に3月10日には行わず、11日か9日に行っているという。3月10日という日に、卒業式という晴れがましい儀式は行わないのだそうだ。
我々も、こうした蛮行をけっして忘れてはならないと思う。戦争という惨禍を再び繰り返さないためにも、東京大空襲を風化させてはならないのだ。
この空襲は東京市部を襲った、他の場合とはその被害規模において比較にならないほどの被害を生んだ。アメリカ政府及びアメリカ空軍の狙いは、焼夷弾によって都市そのものを壊滅させ、日本国民の生活を破壊し、日本の戦意喪失であった。
この爆撃は、グアム島に司令部を置く第20航空軍所属のB29第21爆撃機集団によって実行された。アメリカ軍の攻撃方法は、絨毯爆撃という、攻撃目標地域を取り囲むように設定した爆撃投下照準点にまず焼夷弾を投下し、火災を発生させ、次の一団がこの目標火点をつなぐように焼夷弾を投下する、そして、その中を網の目のように区切り、各爆撃機が投下場所を分担し、共同して火の壁をいくつも作って、その地域一帯を焼け野原にするという方法だった。こうして、非戦闘員の多く居住する木造密集地帯を一挙に焼き尽くしたのである。
3月9日午後5時15分、325機のB29は、サイパン・テニアンの基地を出発、房総半島から東京に入り、10日真夜中、午前0時7分から2~3時間の間に、焼夷弾を実に1,665トン投下した。
被害の惨状はすさまじいものであった。強風に煽られた火災はたちまち家屋を次々と炎上させ、逃げまどう人々を炎で覆い尽くしたまま、一気に広がっていった。隅田川両岸も火が隅田川を超えて広がっていった。ただただ人々は我が身を火の粉から避けるのが精一杯。親・きょうだい・子どもたちとも離ればなれとなった。
3月10日の朝は、吹きまくった風も収まり、快晴であった。傷つきながらも危うく九死に一生を得た人々が見たものは、想像を絶する悲惨さであった。幹線道路上には、焼け死体がそこここに転がっていた。焼けた電車、垂れ下がった電線・・・。堀川には、流木の間にたくさんの遺体が浮いている。子どもも大人も性別も分からぬ遺体が小路や路地に累々と重なり合ってあった。錦糸公園では、穴を掘って遺体を葬った。その数、1万8千体だったという。他の公園でも次々と遺体が仮埋葬された。その埋葬された遺体は、2~3年後、掘り返されて火葬に付された。
まだまだ書ききれない。この東京大空襲については、さまざまな記録が残されている。ぜひ見ていただきたい。また、墨田区にある「すみだ郷土文化資料館」では展示も行っている。ぜひお出かけ下さい。
JR錦糸町駅近くに都立両国高校がある。最もひどい被害を受けた地域にある学校だ。当時、この高校のプールに入って、水の冷たさと迫り来る炎と恐怖に耐えながら命を助かった人も多くいるという。この高校の卒業式は、伝統的に3月10日には行わず、11日か9日に行っているという。3月10日という日に、卒業式という晴れがましい儀式は行わないのだそうだ。
我々も、こうした蛮行をけっして忘れてはならないと思う。戦争という惨禍を再び繰り返さないためにも、東京大空襲を風化させてはならないのだ。