おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

心中事件のその後の記事の作り方について

2008-02-17 17:00:22 | つぶやき
 足立で起きた一家殺傷事件。容疑者は自殺した世帯主である工場経営者。
 今朝の「朝日」。借地権の売却の件で地主から異議があった、と。警察からの情報垂れ流しなのか、新聞独自の取材なのか、定かではない。
 が、記事の流れは、どうも同情的な内容になって、いや、そのように読者に誤解されそうな内容になっている。一家心中まで思い詰めさせた原因の一つが、地主さんの姿勢であるかのような?
 自殺を決意し、実行に至るまでにはそれ相応の苦闘があることは、理解できる。にっちもさっちもいかなくなってしまった原因、周囲の協力、本人にしか分からない苦しみ、悩み・・・。そこに、今後の教訓としての記事もあるだろう。
 しかし、自分の命を絶つばかりではなく、家族であるというだけで道連れにすることはけっして許されない。まして、次男は、これからも重大な傷害をもって生きていかなければならない。長男も。
 犯行声明文(言い訳・弁明)のようなものをマスコミに送りつける神経も、どうかと思う。TV朝日がその受け取り先であったがために、「朝日」が、容疑者寄りになっていることはないとは、思うが。
 日本は、自殺大国。年間3万人以上の人が自殺する。交通事故死が年々減ってきて、6千人台に落ちてきたのに反して、自殺はいっこうに減る様子がない。
 長く続く不況感、好景気に沸くのは一部の大企業と、株主くらい? 庶民の実感は、先行き全く不透明。まして、下町の中小企業、一家だけでやっているような零細企業は、ホントウにどうしようもないほど、資金繰り、生活にあえいでいる。そこには、景気の恩恵の光はあたらない。
 この方の行動も、苦しい中で何とかやってきたが、どうにもしようがなくなって思いあまっての、一家殺傷という「犯行」。それを世に訴えたかったのだろう。
たしかに、その心の暗さは他人が推し量ることはできない。
 だからといって、他人を殺傷していいということにはならない。まして、死んだら「さん」づけになるような報道は、全く理解できない。その流れでこうした「犠牲」者的な報道がなされていくなら、これからも一家心中という悲惨な事件は、減らないだろう。
 今、考えなければならないのは、一家心中というかたちでしか精算できない、社会経済情勢と、ゆがんだ家族のあり方ではないか。また、どうあっても他者の命を大切にする、という個々人の「生命」観の問題の確立ではないだろうか。
 
コメント
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