おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「言語小説集」(井上ひさし)新潮社

2012-08-14 21:04:46 | 読書無限
 暑い熱い夏日には、木陰はないので、クーラーのきく部屋で、読書。暑苦しい小説などはゴメンナサイ。そこで、井上ひさしさんの小説など(失礼!)。
 この短編小説集は、20年から17年も前に断続的に連載されていたものを一つにまとめたもの。井上さんが亡くなられた後にも小説などが刊行されています。『一週間』(新潮社)などもその一つ。さすがに彼の作品の真骨頂たる「戯曲」はそういうわけにはいきませんが(TVアニメでは「サザエさん」など、とっくの昔に作者が亡くなっても延々と続いているのも不思議)。
 この小説群。生涯関わってきた日本と日本語のこと。標準語と方言。言語と脳・意識との関係性。言葉遊び(だじゃれ、組み替え)と言語(発語)の楽しさ、苦しさ、葛藤などが描かれています。
 まだワープロ全盛期の「括弧の恋」。記号を打ち込んでいく時のまどろっこしさ(脳から紡ぎ出されるおびただしい言語、それを変換していくスピードとのずれ)など今でも感じることがある、と言う具合に、時の古さを感じさせないおもしろさがあります。
 それぞれのお話。腹ばいになったり、仰向けになって読んでいても、ふと笑いがこみ上げて身体をよじることもしばしばでした。それぞれ「落ち」もわかりやすく読みやすい。その軽い乗りの執筆姿勢の見事さに感心します。
 それでいて、意味を持つ言語体系のあり方、また、音声と意味体系のねじれ、言語の普遍性、関連性など言語の根本問題について、読者の目を向けさせます。あの名作『吉里吉里人(一発で変換できた!さすが井上さん。)』から受けた井上さんの言語感覚の鋭さを改めて認識しました。
 
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舎人公園

2012-08-13 23:35:40 | つぶやき
 「日暮里舎人ライナー」。東京都荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ、東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道(新交通システム)路線。2008(平成20)年3月30日に開業しました。「案内軌条式鉄道(あんないきじょうしきてつどう)」とは、走行路面上を中央または側壁にある案内軌条に案内輪をあてて、ゴムタイヤで走行する交通機関のこと(専門用語は難解です)。新橋~豊洲間の「ゆりかもめ」と同様、ATO(自動列車運転装置) による無人自動運転(「ゆりかもめ」は早朝・深夜などは有人)。最前部に座っていると前方の景色がすばらしく、特に荒川を越えるときはゆっくり動くジェットコースターに乗った気分。
 この車両基地は、舎人公園の北側地下にあります。舎人公園駅から分岐して地下に向かいます。
 
 「舎人公園」。広大な敷地の公園。大きな広場、大きな池、グランド、テニスコート、野球場・・・、と「日暮里舎人ライナー」の線路をはさんで東西に広がっています。たくさんの樹木が植えられた中、バーベキュー、ジョギング、散策、釣り、ジャブジャブ池での水遊び、野鳥などの自然観察、とけっこう楽しめます。かつて昭和40年代前半は、この付近、ほとんど田畑が広がっていたところ。
地下の車両基地の上には、その斜面を利用して「ソリゲレンデ」。
池に映る夏雲。
睡蓮の花。
 孫の自転車と私の折り畳み自転車での散策でした。
 
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読書「さよならクリストファー・ロビン」(高橋源一郎)新潮社

2012-08-12 19:35:52 | 読書無限
 久々の読書。ことばと意味。現実と時間。生と死。タカハシさん、3・11大震災特に原発事故以来、今こうして生きている(生活している)己と己を取り巻く(支える)世界への関心が高まってきているような・・・。
 人間の存在のあやうさ、言葉のあいまいさ、世界との関わり(むしろ関わることへの懐疑、そして、それを何とか克服しての再び関係性を作り上げていこうとする人間存在)などなど。
 「クリストファー・ロビン」。父によって作り出された物語世界の中の人物であると同時に、その桎梏の中で生涯を過ごさざるを得なかった男のありよう。それが全体の小説(6つの短編集)を貫く低音部を奏でています。
 ここには、言語論、小説論、生死観、人生論など少しおしつけがましいほどのテーマが用意されています。なかでも、「アトム」。原発事故につながった(人々の、自分も含めて思いもよらなかった)バラ色だった世界が一瞬のうちにささやかな生活を奪い、人生観までも変えてしまった出来事。それに対して、何か関わっていかなければならないとしたら、果たして何が出来るのか。作家として教師として父親としての立場。そこにタカハシさんの悩みと一方で(いつものような)冷めた眼差しがあるように思いました。
 今年の夏。蝉の声があまりしません。特に、近年、蝉の声がやかましいほどであった我が家のささやか庭。蝉の抜け殻も、地中から抜け出した穴も見当たりません。今年の春、庭を掘り返し、少しばかりの木を切り倒し、整地し、コンクリートで固めて駐車場にしました。それも、小さな車が一台置けるだけのスペース。
 何年も地中にいて育ちやっと日の光を浴びる頃になって、すでに這い出る地面がなく、その前に地中で息絶え・・・、そのせいではないかと娘夫婦に言われました。・・・。人間の都合で浮かばれぬ多数の生命が渦巻く世界でもある、と改めて感じました。やれやれ。
 それにしても、静かな夏です。
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白旗塚史跡公園。白旗塚古墳。

2012-08-11 16:45:26 | 歴史・痕跡
白旗史跡公園。
 
 「毛長川南岸の自然堤防上には、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳など七基からなる白旗塚古墳群が形成されていたとされますが、現存するのは白旗塚古墳のみです。・・・擂鉢塚古墳から出土したとされる馬形、円筒埴輪和から築造は6世紀と推定されます。白旗塚古墳は直径12㍍高さ約2.5㍍の円墳ですが、未調査のため主体部の構造や古墳の年代わかっていません。
 白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗を立てたためと言われています。平成23年3月建設 東京都教育委員会」

白旗塚古墳(の復元?)。周囲を堀で囲われています。昭和22年の航空写真では一面田畑の中に、森のようなかたちで残っています。その当時よりも低くなったのではないか、と。急激な宅地化の中で何とか保存してきたようです。
公園の東側から。東武線の高架化された線路のすぐそば。
「北」の古代文字。
木漏れ陽の中の埴輪など。
園内の所々に植えた植物(木・草)にちなんだ万葉集の歌が掲示されています。これは「くず」。
「秋の七草」にちなんだ山上憶良の歌。「萩の花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花」(はぎのはななでしこのはなをみなへしまたふぢばかまあさがほのはな)
秋にはそれぞれ素敵な花を咲かせることでしょう。
 足立区入谷には、「白幡塚古墳」(「入谷古墳」)があります。「しらはた」つながりで出かけてみようと思いました。まずは、その紹介。
 
入谷古墳跡(入谷氷川神社)
入谷古墳については、文政五年(一八二二)徳川幕府が各地の村などを調査して作成した「新編武蔵風土記」入谷村の記録に「八幡社 塚上ニアリ。土人白幡八幡ト称ス。古岩槻攻ノ時、当初ニ幡ヲ立シヨリ、カク称セリト云」とある。この地域は東京東部低地(足立区・葛飾区・江戸川区・北区・荒川区・墨田区)の北辺にあたり、足立区内でも最も早い時代(四世紀頃)に古代の人々の集団生活がはじまった場所の一つである。
毛長川沿岸には舎人遺跡・伊興遺跡・花畑遺跡などの多くの古墳時代の遺跡が確認されており、これらの遺跡とともに多数の古墳が過去に存在したことが知られている。昭和四十九年、当地の区画整理事業に当り、予定ではこの塚の半分以上が削られるところであったが、地元住民の熱意によりこの塚が保存されることになった。入谷氷川神社氏子総代が中心となり、計画を変更し保存に協力したのである。
現在、区内に残されている古墳は東伊興の白幡(注:旗の間違い)塚古墳一基のみとなってしまっている。古墳の可能性の高いこの塚が保存されることは、きわめて有意義なことである。(足立区教育委員会)
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見沼代用水分岐。伊興遺跡。

2012-08-10 20:22:59 | 歴史・痕跡
 舎人公園駐車場に車を停めて折り畳み自転車で竹の塚周辺を散策しました。
分岐点。「千住堀分岐」と標識にはありました。そこから左に(東に)水路跡に沿って。
保木間堀親水水路。
見沼代用水が南と東に分岐する「はんの木橋」交差点。
東武線「竹ノ塚」駅南に通じる道「赤山街道」。
赤山街道「聖一の橋」。
保木間親水水路。しばらく開けた道路沿いの道が東北に向かって続く。
やがて南側に寺町が広がると、お寺の壁に寄り添うように流れていきます。
用水の東から西を望む。由緒あるお寺が多いようです。
しばらく進むと「伊興遺跡」公園。

 「東武伊勢崎線竹の塚駅の北西,徒歩15分。伊興遺跡は縄文時代後期から古墳時代初期の多数の出土品が発掘されたところで,この遺跡一帯を公園として,平成5年(1993年)に開園した。 園内には芝生の広場を中心にして竪穴式住居などが復元されており,展示館では遺跡からの出土品やした土器類などを展示している。」(足立区の公園案内より)

 北隣にある氷川神社付近を中心に豊富な祭祀遺物を出土する集落跡がありました。古代から開かれた毛長川流域の文化・経済などを想起させます。
全景。コンパクトな公園。奥が竪穴式住居の復元。
竪穴式住居。
出土状況のレプリカ。
 この先、もう少し東に進むと「白旗史跡公園」に行き着きます。

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やっちゃば。旧日光街道。

2012-08-09 20:16:44 | 歴史・痕跡
かつての町並みが再現されています(昭和5年当時)。道路の両側に青果商などが並び、賑わいを見せていました。市場は京成線の南側に集約された大きな敷地に移り、戦災では壊滅的になりました。その後、家主が変わったり、代替わりなどしてずいぶんと街の様子も変わりました。それでも、何代も続いて残っている店も、まだまだあるようです。
現在の建物にやっちゃば当時の店名が掲げられています。家主は同じでも違う商売になっていることや他の方の店舗等になっているのも多い。
「千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑」(河原稲荷神社境内。明治39年建設)。
ついでに猫をパチリ。
やっちゃば(街道沿い)にある「千住宿歴史プチテラス」。
その全景。

 この蔵は 平成4年に、足立区へ千住四丁目の元地漉紙屋を営んでいた横山家より1830(天保元)年の土蔵が寄与されました。歴史の生きる町づくりのために千住の旧道沿いに移築し、蔵の内部をギャラリーに、周囲には趣のある前庭・内庭を造成。この蔵には江戸末期から明治・大正にかけての生活用具が保存され、貴重な資料となっています・・・(「足立立区生涯学習情報」より)

その入り口にある芭蕉の句碑。「鮎の子のしら魚送る別哉」。「奥の細道」に旅立つ芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門弟達を鮎に見立てたもの。
五代目が経営する蒟蒻問屋さん。市場に関係する商店も多くあるようです。
帰り際、千住大橋駅・京成線の高架下で見かけた郵便ポスト? 「千住河原町23-7 京成高架下」とありました。針金で金網に結びつけられています。投函された手紙類をどうやって回収するのでしょう。
京成線「千住大橋」駅南。道路整備や区画整理が進んでいます。広大な敷地が残されています。隅田川左岸付近。


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やっちゃば緑道

2012-08-08 23:38:36 | 鉄道遺跡
 中央卸売市場・足立市場への引き込み線跡。JR北千住駅の南方からの引き込み線が廃止されたあと、足立区が整備して緑道にしたものです。昭和38年の航空写真にも写っています。

 現在の足立市場の概要(HPによる)
 足立市場は都内で唯一の水産物専門の中央卸売市場です。松尾芭蕉「奥の細道」の矢立初めで有名な千住大橋のすぐ近く、隅田川と国道4号線(日光街道)に面しており、交通アクセスの良い便利な場所にあります。
その立地を生かし、城北地域の拠点市場として、都内城北地区や千葉北部、埼玉南部などへ水産物を供給しています。
敷地面積は、約四万二千平方メートルと中央卸売市場としては小規模ですが、都民の台所として日々安全な水産物の安定供給に努めております。
◆足立市場の歴史
 足立市場は、川魚・青物・米穀を中心に天正年間に始まったといわれております。その後、奥州・常陸に通じる街道の要衝の地として発達し、神田・駒込と並ぶ江戸3大青物市場の一つに数えられ幕府の御用市場となりました。
 東京都は、昭和17年に現在地(千住橋戸町)を買収、施設を整備し、同20年2月11日に千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を収容した総合市場として中央卸売市場足立市場を発足させました。しかし、昭和20年4月13日、開場後わずか62日目に戦災にあい、施設が全焼したために木造での営業を余儀なくされました。
 戦後は、市場整備のための用地買収が行われ、昭和43年から新しい施設の建設が始まりましたが、取扱量の増加に伴って施設の狭隘化が著しくなったため、青果部門を昭和54年9月17日に足立区入谷(北足立市場)に分離・移転させ、足立市場は水産物の市場として改めて発足し、現在に至っています。
◆足立市場の特徴
 足立市場で取り扱っている水産物は、まぐろ類が約8%、鮮魚が約30%、残りの62%は冷凍品や塩干加工品などです。まぐろ類は早朝5時半からせりを行っており、足立市場の仲卸業者だけでなく近隣の地方卸売市場の仲卸業者なども売買参加者としてせりに参加しています。鮮魚は、あじ、かつお、さば、さんま、するめいかなどの大衆魚を中心に取り扱っています。冷凍品や塩干加工品も多種多様な品物を扱っています。 また、小さい単位での卸売を行う店もあるなど、買出人が買いやすい市場です。
 
足立市場の北東。道路をはさんで「緑道」が始まり、北に向かって進みます。
古びた鉄柵。鉄道敷地の境界線に用いられます。その当時のままなのか断続的に続きます。
町工場や家の裏側に沿って進みます。単線ですが、途中複線になっていた箇所もあったと思われます。
線路の土台のコンクリートが残っています。このあたりは複線?
北側の駐車場から撮りました。正面奥がその土台。左側が緑道。
草むらの中に鉄道標識が横に倒されたまま残されていました。鉄道標識にはうといので、何なのか? 四角い柱、斜めに切られた部分に「4」という数字が記されています。
「墨堤通り」の歩道橋の一部に複線だった頃の橋桁の跡?
歩道橋の脇にある旧家の冠木門。
左がJRの線路、右は住宅の塀。現在の線路に沿って細く長く続きます。
この先で、合流していたと思われます。
JRの高架線の脇には線路に沿ってしばらく細長い家屋が縦に並んで建っていて、右側の建物とは向きが異なっています。もしかしたらかつての線路跡に建てられた建物。
 
 ところで、「やっちゃば(場)」とは「青果市場」のこと。そのせりのかけ声の「ヤッチャ~」から、ヤッチャバの名が起こったといわれています。
 現在の足立市場は「水産物専門の市場」となっています。元々は旧日光街道沿いに立ち並んだ町並みが、「やっちゃば」だったところのようです。京成千住大橋駅の東北側の旧日光街道沿いにに広がっていました。次回はその探索編。



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東京球場跡。芭蕉「奥の細道」旅立ち。千住大橋。

2012-08-07 22:26:34 | 歴史・痕跡
 今回は、京成千住大橋駅周辺の散策。都内のプロ野球球場の跡。洲崎球場、三鷹にあった武蔵野グリーンパークスタジアム、それぞれ正式名称や愛称がありますが、「東京球場(東京スタジアム)」跡を訪ねました。約40年ぶり。当時はすぐ北側にあった「荒川工業高校」には、場外ホームランが飛び込んできたこともあった、とか。1970年代、ここで日本シリーズが行われ(ここはロッテの本拠地でした)、このときの生徒諸君の興奮は、授業が中断したほどだった、と。                          
 久々の訪問。すっかり変わっていました。学校もかつてのグランドが校舎に、道路をはさんで北側の水道局の営業所も公団住宅の一角に。
 球場は、まったく跡形もなく、球場が廃止になった跡は広大な駐車場があったはずですがそれもなく、草野球の球場が広がっていました。南には総合スポーツ施設。荒工と球場を仕切っていた道路だけは、そのまま残されていました。
東京球場跡。
北から南を望む。右奥が総合スポーツ施設。北島康介が泳いだというプールなどがあります。
南から北を望む。左奥が「荒工」。ずいぶん立派で素敵な校舎に変わりました。もし東京球場があったら、ホームランボールは直接校舎の窓硝子を割っていたにちがいない。


1970年代のようす。「東京球場」があった頃。


2010年代のようす。野球場や総合スポーツ施設などに変化。

 千住大橋に移動します。
 千住大橋は、芭蕉が奥の細道に旅立ったところ。深川から隅田川を上り、ここで陸路となり日光街道を北上していきます。それにちなんだ句碑などが建立されています。
千住大橋南詰にあるモニュメント。
千住大橋北詰にあるモニュメント。芭蕉の矢立の句、「行(く)春や鳥啼き魚の目は泪」が彫られている。
テラスにある壁絵。地元の心意気を感じる趣向。
「・・・空館」というネーミングが面白い。
「橋番付」。両国橋に続いて「千住大橋」が堂々横綱の地位?
鉄骨造りの強靱な曲線が見事な「千住大橋」。
 千住大橋は日光街道の出立口。隅田川の橋としてはここが最初の橋。当時は「大橋」とだけ称され、木橋。後に両国に「大橋」が架けられ(現在の両国橋)、「千住の大橋」と呼ばれるようになった。現在の鉄骨造りの橋は、1927(昭和2)年、関東大震災復興計画で建造された。ちなみに、隅田川に架橋されている橋で、「はし」はこの「千住大橋」と「新大橋」の二つ。あとの橋は、「ばし」とにごる。
下流を望む。
対岸を望む。

 千住大橋の地は、まだまだ見所満載。中央奥に続く道が旧日光街道。右が足立市場。「やっちゃば」跡を巡る散策は続編で。
 そして、都内の球場跡は上井草にある、とのこと。機会があったら行ってみよう。
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やっぱり政策よりも政局。政策論争不毛の選挙になるか?

2012-08-06 19:10:27 | つぶやき
谷垣氏、3党合意破棄も辞せず 総裁再選へ覚悟(産経新聞) - goo ニュース
 解散含みの政局。消費増税NO! 原発再稼働NO! 徹底した行革 そういう日本の将来を決める選挙になればいいのだが・・・。
 そうではなくて、自民党が勝てば谷垣首相のもと「消費税10%、それを原資に公共事業・コンクリート政策復活、原発再稼働・推進、アメリカ(米軍)との同盟強化・普天間基地強制県内移転」等々の政策実現に向かって進むのは、見え見え。衣の下の鎧を隠して、敵失を利用して自公政権復活! 果たしてそううまくいくか。国民の政治への厳しい目を侮ってはいけない。
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洲崎球場跡。「洲崎パラダイス」。「波除碑」。木場~東陽町

2012-08-05 12:49:35 | 歴史・痕跡
 ママチャリ仕様の自転車では、行動範囲が限られる。そこで、一念発起して折り畳み自転車を購入しました。車に乗せて目的地へ。駐車場に車を停めて、おもむろにトランクから出した折り畳み自転車を組み立て、周辺を自転車で。
 なるたけコンパクトで軽いものを、ということで約10㎏の重さのもの。電車にも運び込めるようにバッグもついでに。でも、かなり大きくて持つとけっこう重たい。実際にはどうかな? ライトも買って、チェーンもごついやつを買って、・・・。
 練習がてら木場公園へ。1時間300円。その後は30分ごとに100円。ま、空いているし、ここでいいか。ここからまずは洲崎球場跡へ。そして、「洲崎パラダイス」、洲崎神社、平久橋と、ぐるりと約1時間30分。炎天下、走って来ました。乗り心地もまあまあ、人混みもすいすい。自転車でのちょっとした散策でした。今度は、郊外に遠出してみるかな。
東陽町駅の東、「江東運転免許試験場」の前の道路を少し入ったところ、「警視庁第九機動隊」と道路を隔てたオルガノ本社側、郵便ポストの脇に記念のプレートがある。今もなお続く伝統の一戦「巨人・阪神戦」が初めて行われた球場。1936(昭和11)年11月に完成。大東京軍(現在の巨人軍)の本拠地でもあった。しかし、昭和13年には、閉鎖。3年間だけののプロ野球草創期の球場跡である。西側一帯が球場だった。
それから76年。1945年(昭和20)年の東京大空襲で壊滅。さらに戦後の復興、と大きな時代の変遷をこえて、広大な跡地には、しゃれた高層のオフィスビルが立ち並ぶ。
洲崎川は埋め立てられ、洲崎川緑道公園に。
洲崎川緑道(洲崎川)と道路とはかなりの段差がある。地面よりも水面が高い天井川のような堀割だったのか、川は高い壁に囲まれていた。
地下道の上は、「大門通り」。洲崎遊郭への入り口。洲崎は四方を堀割(川)で囲まれた「新」天地であった。
洲崎川に架かっていた橋。ここから「洲崎パラダイス」の地に入っていく。戦後、戦災にもめげず直ちに復興、売春防止法施行以前は、浅草・吉原と並んで一代遊郭街を形成していた。大きな道路の東側地域が遊郭街。
大通りを南から北に望む。「大門通り」は、北に向かってほぼ一直線に京葉道路・江東橋、さらに北に進み、浅草「吉原大門」に続いていた。別名「親不孝通り」とも。
遊郭街もビル建設などでかつてのイメージを思い出す建物・施設は通りすがりでは全く目につかない。
洲崎神社(洲崎弁天社)境内にある「波除碑(なみよけひ)」の説明板。
 
 「寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。その広さは東西285間余、南北30間余、総坪数5467坪余(約1万8千㎡)に及んだ。そして空地の両端の北側地点波除碑を二基建立した。建設は寛政6年頃で、当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋碑は上部約3分の2を失っている。碑文は屋代弘賢と言われているが、二基とも判読不明である。・・・(中 略)・・・
 材質は砂岩で総高は平久橋碑が130.8㎝、洲崎神社碑が160.1㎝。現在の位置は地点を若干移動しているものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な碑である。平成23年3月建設 東京都教育委員会」昨年の東日本大震災で改めて見直された史跡でもある。

 



平久橋西側の袂にある「波除碑」の説明板。
 平久橋碑の解説文でもほぼ同様の内容だが、「砂岩」とあったのは、「伊豆五ヶ村石」とあり、また、脇に建てられた「津波警告の碑」の側面には「両碑は大正12年震災と昭和20年戦災によって破損した」とある。関東大震災と東京大空襲で大きな損害を被ったという。


平久橋。鉄骨造の趣のある橋。
平久橋から平久川下流を望む。
北から流れてきた「大横川」は、洲崎神社付近で西に水路を変える。
木場公園の東側を流れる「大横川」。
木場公園。かつては、三ツ目通りをはさんで広大な「木場」だった。広々とした敷地の公園。「東京都現代美術館」などもある。 
正面奥に、スカイツリー。
 
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政局から政策へ。暑さに煽られ政治の季節へ。

2012-08-04 00:49:09 | つぶやき
政界再編のキーマン“ミスターX”は現れるか!?【田中秀征 政権ウォッチ】(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
 「野田佳彦首相は総辞職して切腹するのか、それとも自分の保身のために総選挙を断行してほとんどの同志を討死させるのか。・・・」
 先日、朝日新聞夕刊の政治コラム欄で野田さんは、「自分が代表を交代しても、次の方は総選挙で大敗して短命に終わることになる。自分は『消費増税』という十字架を背負って・・・」と。それなりの志・決意は感じられる。
 「自分の保身のために」程度の政局への理解力では、とうてい天下・国家(の未来)を語る資格はない。「ミスターX」などと煙に巻いているだけ。
政局にしがみついている民主・自民の守旧派の思惑を越えて、今、いよいよ政策を戦わせる雰囲気になってきた感じ。選挙目当ての「風」頼みではなく、「脱原発」「反増税」「行財政改革」などへの主張を明確にしつつ、まずは政治(家、評論家)の意識改革が焦眉の難問。既成の組織や既得権擁護、利益団体依存ではない動き、官邸周辺の地には、その兆しがみえている。
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金メダルへの重圧、それとも・・・。オリンピック狂想曲。

2012-08-03 00:32:49 | つぶやき
交代川澄へ「素晴らしいシュートはやめてくれ」(読売新聞) - goo ニュース
 「日本は攻めきれず、スコアレスドローに終わった。」(掲載写真へのテロップ・産経新聞)知ってか知らずか、実に空しい表現。正しくは「日本はあえて攻めず、スコアレスドローに終わらせた。」監督さんは、金メダルへの勝負師というべきでしょうか。
 バドミントンは、たしかにやり過ぎ。TVで見ても、見苦しい感じ。パラドックスの例としてよくあげられる「負けるが勝ち」を文字通りやってみせたが、その代償は大きかった。
 しかし、昨日の朝日新聞では、こうしたバドミントンの実態を受けて、試合形式・やり方がおかしい、と選手・チームのとった試合駆け引きを積極的に弁護(もちろん「ナデシコ何とか」に対しても)。
 それにしても、八百長選手あり、侮蔑つぶやきあり、さらには柔道、体操、フェンシングなどの誤審判、抗議による判定変更等々、話題の多いオリンピックではあります。
 とことん勝ち負けにこだわる「スポーツ」ってとても素直で、正直で。特に負けても、マスコミあげて、集団としての「絆」を大事にし、親や指導者への感謝を大事に、みんなで支える精神を訴えています。そこに、「日本の明日・未来がある」と言わんばかりのキャンペーン。別に悪いことではないけれど、恩着せがましいところが・・・。
 こうして一億国民が浮かれているうちに、消費税増税の目的、社会保障の充実はそっちのけで、自公と一体になっての莫大な公共事業投資にすりかわらせようという魂胆が見え見えになってきている。原発再起動もじわじわと・・・。どこかのチームのような目くらまし作戦に騙されてはいけない。
 「週刊新潮」では毎週金曜日夕べに集まる「脱原発」「反原発」の人々を夏の花火大会(所詮いっときのあだ花と言いたいのでしょう)にやってくるミーハーどもと揶揄、オリンピックに「感動している」一般国民と比較して。このへんが、支配層の本音の代弁でしょう。 
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コメ離れは続く。にもかかわらず・・・。

2012-08-02 22:25:53 | つぶやき
コメ離れ進む 農水省の需要見通し、800万トン割れ(朝日新聞) - goo ニュース
 「米」離れは今後も続き、需要は確実に減っていくに違いない。にもかかわらず、同省は「コメ需要の減退はしばらく続く」(農産企画課)と。
 素人が考えても国内消費は、今後も減少傾向になること、間違いなさそう。国内消費が減少する中、コメも海外への輸出くらいしか需要を増やせない。このままのコメ政策を続ける限り、いずれ供給過多になるのは目に見えている。しかし、官僚・農協の既得権擁護の姿勢が、「しばらく」などという表現に。
 農業政策=ばらまき政策を抜本的に変える段階にきているのに、まったく変更しようとしない。民主党政権も農水省官僚に追随するばかり。むしろ、農水官僚によって、国内消費を増やす政策を小手先に編み出して(例えば、学校給食に今以上に米飯を強いる、とか)既得権の延命を図るに違いない。国内産の価格が高止まりの中で、外食や流通業界から主食用の輸入枠を増やすよう求める声が強まっているが、拡大を見送るのも譲れない政策の一つ。
 一方で、国家貿易として行うコメ輸入について、2011年度の財政負担は、362億円。家畜の飼料用などとして輸入時より低い価格で売り渡すため、売買に伴う損失を穴埋めするのが主因。外国産米の価格上昇を受けて、その負担が確実に年300億円以上で推移していく。
 「脱官僚」のスローガンが実に虚しい。
 
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50Aが標準?

2012-08-01 17:57:11 | つぶやき
4人家族で1377円値上げ 東電、9月から新料金(朝日新聞) - goo ニュース
 「4人家族で1377円値上げ」と大きな見出しにありました。ちなみに我が家は40A。かつて、5人家族のとき冬場に30Aではレンジなどを使うと瞬間的に電気が切れた。そこで、40Aに切り替えました。その後は、気をつけて使っていれば、夏の冷房時でもそういうこともなくなった。ただ基本のアンペアを上げると、基本料金も上がるので割高感はありました。
 さて、この記事。他の電力会社が値下げなのに東電だけは、と、「4人家族1377円もの大幅値上げ」ということを印象づけるためにしたのでしょうか。
 だいたい50Aが4人家族の標準とは思っていませんでした。今や一般的な家庭は、電化生活にどっぷり浸かっている。それに比べて、改めて我が家の電力依存の低さを(遅れ?を)感じましたが。
 しかし、この際、節電のためにも、経費節約のためにも、アンペアを一ランク下げることが必要な気がします。
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