だが、今さらヴェルディが復活して新しい「椿姫」を作ってくれるわけではないし、欠点を指摘するだけというのも余り生産的とは思われないので、逆の発想で何か出来ないかを考えてみた。
例えば、これまで「失敗作」と言われてきた芸術作品の長所を見つけ、実は傑作であることを発見すること、つまり「傑作の救済」は出来ないものだろうか?
ここで真っ先に思い浮かぶのは、ラフマニノフの「交響曲第1番」である。
発表直後に散々に酷評され、ラフマニノフは、「神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、3年間ほとんど作曲ができない状態に陥った」という(ラフマニノフ)。
だが、尾高忠明先生(桂冠指揮者・尾高忠明が語るラフマニノフ(2023シーズン 6月定期演奏会))によれば、
「・・・(BBCの)楽員はみんな『いい曲だねぇ』と言ってくれて、・・・・・・初演のときにひどいことを言った人たちが、もしもそこまで言わなくて、ある程度でもあの曲の価値を認めてあげていたら、もっとこの曲の生い立ちは変わってきたと思うし、日本のオーケストラでも、・・・『へぇ~、結構いい曲じゃん』と言ってくれる人も多いので、・・・」(3分26秒付近~5分10秒付近)
ということである。
私も、初めて聴いたときは、「良い曲」という印象を受けた。
そこで、今度は日本の芸術作品に目を転じてみるとしよう。
但し、私は日本の作曲家に詳しくないので、小説のジャンルで考えてみたい。
日本の小説家が書いたもので、「失敗作」という評価がほぼ固定している小説としては、三島由紀夫の「鏡子の家」が挙げられる。
私も、たぶん高校3年か大学1年ころに読んだのだが、最初はテーマを捉えることが出来ず、長い割には随分退屈な小説だという印象を抱いた。
だが、10年以上たってみると、一挙にではないものの、徐々に徐々に、この小説が実は傑作と呼ぶにふさわしい作品であることに気付くようになった。
もっとも、初読ですぐこのことに気付かなかったのは無理もないことで、私見では、当時の一般読者や文芸評論家を責めることは出来ないと思う。
というのも、この作品のテーマは、作品それ自体からは絶対に把握出来ないものであり、この小説だけを読んでいても、何のことかさっぱり分からないからである。
この種の作品については、当該作品以外の小説や評論などを手掛かりにすること、いわゆる「外部参照」が必須ということになる。