次に、というか、もっと重要かもしれない評論が、これまた晩年に書かれた「文化防衛論」(昭和43年)である。
これは、ほぼまるごと「鏡子の家」の解説であると言っても過言ではない。
まず、「文化の全体性と全体主義」及び「文化概念としての天皇」とあるくだりに注目すべきである。
以下、やや長いが、ウィキペディアによる要約文を引用してみる。
「文化の全体性と全体主義
日本民族の「合意」とは、「日本がその本来の姿に目ざめ、民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致すること」にあり、その「鍵」は「文化にだけある」のである。〈菊と刀〉をまるごと容認する政体の実現性は、「エロティシズムを全体的に容認する政体」は可能であるかという問題に近い。左右の「全体主義」は、文化の「全体性」(文雅と尚武の包括)を敵視するものである。「言論の自由」はときには文化の腐敗を招く欠点はあるものの、相対的にはこれを保障する政体が実務的なものとして最善である。しかし自由そのものは内部から蝕まれる危惧があるため、唯一イデオロギーに対抗しうる「文化共同体の理念の確立」が必要となり、「文化の無差別包括性」を保持するために、「文化概念としての天皇」の登場が要請されるのである。」
「文化概念としての天皇
文化概念としての天皇は、〈菊と刀〉を包括した日本文化全体の「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」(中心)であり、「国と民族の非分離の象徴」である。〈みやび〉の文化は、危機や非常時には「テロリズムの形態」さえ取る。孝明天皇の大御心に応えて起った桜田門外の変の義士はその例であり、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであったが、西洋的立憲君主政体に固着した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪っていた。よって文化概念としての天皇は、国家権力の側だけではなく、「無秩序」の側に立つこともある。もしも権力の側が「国と民族を分離」せしめようとするならば、それを回復するための「変革の原理」ともなるのである。日本の文化を防衛する行為自体が文化的行為であり、その「再帰性」「全体性」「主体性」により、守る行為自体が守られるべき対象であるという論理の円環の中心には、日本文化の「窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)」である「文化概念としての天皇」が存立し、「〈菊と刀〉の栄誉が最終的に帰一する根源」が天皇なのである。よって軍事上の栄誉も、文化勲章同様に、文化概念としての天皇から付与されなければならない。それは、政治概念によって天皇が利用されることを未然に防ぐことでもあり、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策となるのだと三島は提起する。」
やや錯雑とした論理で読むのも疲れるが、ここにあらわれているのは、要するに
「日本文化を体現するもの」=「天皇」
という思考と見て良いだろう。
(但し、例によって、これも"第2のanimus"(不健全な自我の拡張(7))としての天皇であり、現に存在している天皇陛下を指しているわけでない点には注意が必要である。)
ところが、当時の現状はどうだったのか?
(明治憲法による天皇制について)「・・・政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に犠牲に供せざるを得なかつた。そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、その二つの側面をいづれも無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、大衆社会主義に追随せしめられ、いはゆる「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティ―を失墜せしめられたのである。天皇と文化とは相関はらなくなり、左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」のイメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終つた。かくて文化の尊貴が喪はれた一方、復古主義者は単に政治概念たる天皇の復活のみを望んできたのであつた。」(「決定版 三島由紀夫全集 第35巻」p47)
つまり、当時、「政治概念たる天皇」の復活を望む集団は存在したものの、「文化概念たる天皇」は蔑ろにされ、その理念が追求されることはなかった(「週刊誌天皇制」という言葉は、今日でも妥当するのではないだろうか?)。
それでは、「文化概念たる天皇」の復活の鍵はどこにあるのだろうか?
どういう場合に、「文化の全体性」が示現し、「文化概念たる天皇」が成立するというのだろうか?
少し先の部分を引用してみる。
「速佐之男の命は、己れの罪によつて放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の最終の倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教へられるのである。これこそは八咫鏡の秘儀に他ならない。文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、つひに「みやび」の中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、といふのが、日本の文化史の大綱である。それは永久に、卑俗をも包含しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の故郷であつた。」(p49~50)
ここに至って決定的に重要な「鏡」というワードが登場し(出ましたよ!「鏡(子)」ですよ!)、
「鏡(八咫鏡)」=「文化の全体性」及び「文化概念としての天皇」の倫理的根源
という等式が浮かび上がって来た。
同時に、このくだりは、「三島事件」についての”取扱要領”ともなっている。
つまり、この事件における「反逆や革命の最終の倫理的根源」は「反逆や革命の対象たる日神」にあり、彼らは、その「みやび」に包括されることによって、文化の全体性の示現及び文化概念としての天皇の成立を目指したのであると。
これに従うと、「三島事件」は、「日本の文化史」における事件として位置づけるべきということになるのだろう。
ついでに言うと、西郷隆盛らを「朝敵・賊軍」という理由で合祀しないという思考は、「みやび」とは相容れないということになりそうである。