Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

Tremendous Trifles(2)

2022年12月21日 06時30分02秒 | Weblog
棒大なる針小 文学論・随筆集 「へんな馭者」
 「・・・人間は何事にせよ、確信を持てるものなりや否や。私の考えでは、持てる。・・・
 「下院で友人と別れた私は、訪問を予定していたヴィクトリア街のある事務所まで、二、三百ヤード同じ馬車に乗って行った。そこで馬車を降り、馭者に普通以上の料金を払ったのだが、彼はそれをじっと見ている。・・・
 「あれ、旦那、おわかりですか。一シリング八ペンスしかありませんぜ。」・・・「でもねえ、旦那。これじゃあ、ユーストンからの料金にはなりませんや。」「ユーストン?」私はおうむ返しにぼんやり答えた。とっさのことで、その地名が私の耳にはシナかアラビアのような感じがした。「ユーストンにいったい何の関係があるんだね。」「旦那はユーストンの駅を出たところであっしをお呼びなすって、それから・・・・・」と、馭者はびっくりするほどことこまかに説明しだした。そこで私もキリスト教的忍耐心をもって答える。「一体全体そりゃなんの話だね。私はレスター広場の南西の角で乗ったんだよ。」「レスター広場ですって。」その声には、せきを切ったような蔑みの調子があふれていた。「今日はレスター広場あたりにゃ一度も行ってやしませんぜ。旦那はユーストン駅の前であっしを呼んで、そしておっしゃるにゃ・・・・・・」「おまえ頭がどうかしているのかね、それともこっちがおかしいのかな。」私は科学者的に冷静にたずねた。

 「その時だった。彼の顔にびっくりするような変化が起こって、まざまざと驚きの色が浮かんだ。まるでランプのように、彼のからだの中から灯がともったと見えた。「こりゃどうも、旦那、申しわけござんせん。どうも、ほんとに申しわけねえことで。旦那はレスター広場でお乗りでした。やっと思い出しやしたよ。申しわけござんせん」と言いながら、この人騒がせな男はぴしっと鋭く馬に鞭をあてて、がらがら馬車を走らせて行った。このやりとりはすべて、天地神明に誓って、嘘いつわりはない。」(p188~192)

 高校時代にTremendous Triflesを英文で読んで、唯一記憶に残ったのがこの「へんな馭者」だった。
 その記憶に基づいて書いたのが、 Tremendous Trifles である。
 ところが、こうやって訳文を見ると、実に自分の記憶や英文解釈が危ういものであったかを痛感する。
 例えば、「馬車」→「タクシー」、「乗った地点の間違い」→「料金支払についての間違い」という風に、間違って記憶(解釈?)していたことが分かる。
 「人間の主観的認識に基礎をおく我々の日常生活の危うさ」と言っておきながら、自分自身がかなり危ういのである。 
 ・・・それにしても、チェスタトンと馭者のやり取りは、民事訴訟の尋問さながらである。
 こういう風にして起こる、「悪意のないトラブル」も多いのだろう。
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グラつく

2022年12月20日 06時30分37秒 | Weblog
東京バレエ団「くるみ割り人形」全2幕

 バレエを観ているとき、最も緊張する瞬間がある。
 それは、「くるみ割り人形」の「アンダンテ マエストーソ」でのリフトの瞬間である(吉田都 バーミンガム・ロイヤル・バレエ くるみ割り人形 パ・ド・ド。おそらくピーター・ライト版)。
 これは、素人目で観てもこの演目最大の難所であり、ヌレイエフ版などはダンサーの能力を極限まで試すようなコリオに見える。
 しかも、私は、オペラやバレエを観るときは、舞台上の人物に感情移入するタイプの人間なので、このパ・ド・ドゥが始まると、一年のうち最も私の心臓がバクバクしてしまうのである。
 今年は、まず東京バレエ団の「くるみ割り人形」を観たのだが、「アンダンテ マエストーソ」の冒頭で、バレリーナの方が、おそらく緊張の余り、グラつく場面があった。
 既にこの時点で私の心臓がバクバクし始める。
 だが、その後はおおむねスムーズな動きとなり、最後は安堵することができた。
 ところが、こういう”グラつく”動きを逆手にとるダンサーもいる。
 オペラ座のドロテ・ジルベールである。
 「ル・グラン・ガラ2019」のライモンダでは、つま先立ちの状態で彼女がグラグラし出したので、観客がざわつき始めたところ、彼女はニヤリと笑って、そのまま数秒間”グラグラ”を続けた。
 つまり、これはおそらく、わざとグラつくことによって、観客を動揺させようとしたのである。
 私は、この人はおそらく心臓に毛が生えているのではないかと思う。
 なので、その翌年の来日公演で彼女が「ジゼル」(心臓が弱い女性)を演じたときは、何だか嘘くさいと思ってしまったのである。
 
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カタログ化される人間

2022年12月19日 06時30分38秒 | Weblog
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト ドン・ジョヴァンニ
 「近代人の考える個性、一人ひとりが唯一無二の存在であるという個人主義の根本を否定する毒。この物語では、恋人ですら交換可能なのだ。」(公演パンフレットp18~21「ダ・ポンテ三部作の3つの自由と4つの毒」辻 昌宏)。

 「コジ・ファン・トッテ」についての解説だが、「ドン・ジョヴァンニ」についても妥当する。
 つまり、ドン・ジョヴァンニが問題なのは、「唯一無二の存在」を否定するからなのだ。

オペラ対訳ライブラリー モーツァルト ドン・ジョヴァンニ 小瀬村幸子 訳/海老澤敏、髙崎保男 協力
 レポレッロ「まあまあ、お諦めなさいまし、
 あなたはないし、
 なかったし、またないでしょう、
 最初のご婦人でも、最後のご婦人でも、御覧なさいまし、・・・


といって、カタログの歌が始まる。
 ドン・ジョヴァンニは、ある意味、近代個人主義へのアンチテーゼなのであるが、現在の日本にも、”カタログ化”の動きはみられる。
 それは、例えば、我々が毎日否応なく接している新型コロナウイルス関連の報道をみても分かる。
 テレビでは、速報テロップ付きで「今日のコロナ感染者は1万〇千△百◇十✕人です」などという報道がなされるが、これとドン・ジョヴァンニの「カタログ」とは、大差ないように思えるのである。

 
 
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デュエット不能?

2022年12月18日 06時30分54秒 | Weblog
《奇跡のデュオ》 堀米ゆず子&ヴァレリー・アファナシエフ
 「それぞれが世界最難関エリザベート国際コンクールを制して以来絶賛され続けるワールドクラス! ヴァイオリン界の超実力派、堀米ゆず子(ほりごめゆずこ)と、ピアノ界の鬼才、ヴァレリー・アファナシエフが奇跡の共演を果たします。研鑽と信念に基づく独自の世界観を持つ2人の、予測不能な化学反応…。アンサンブルの神髄を聴けるであろう、貴重な公演です!

 同じコンクールの優勝者で、現在は同じ国に住んでいる二人のデュオ。
 堀米さんの演奏を生で聴くのはこれが初めてで、アファナシエフは2回目である。
 アファナシエフについて、私はあまりいい印象を持っていなかった。
 というのも、3,4年前に聴いた「展覧会の絵」が、余りにも”崩した”演奏だったからである。
 ピアノの場合、私はオーソドックスな演奏が好きで、”崩して”弾くのは好みではない。
 ところが、アファナシエフの「キエフの大門」などは、予測不能なくらいテンポを意図的に乱した演奏だったので、悪印象を抱いたのである。
 ところが、意外や意外、堀米さんとのデュオでは、崩さない、端整な演奏になっている。
 やはり、「相手に合わせる」という意識がそうさせるのだろう。
 よって、”デュエット不能”という私がひそかに恐れていた事態は生じなかった。
 ところで、歌手にも”崩して歌う”人は多いが、その代表は小林旭だと思う。
 YouTubeで「小林旭 デュエット」で検索すると、「昔の名前で出ています」のデュエットの映像が出て来るが、さすがの大月みやこさんも、サビの部分では、合わせられなくて苦労しているようだ。

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25年前(11)

2022年12月17日 06時30分11秒 | Weblog
新国立劇場の演劇『夜明けの寄り鯨』稽古場&演出家コメント映像
 ヤマモトマサヒロ「地図あったら安心じゃない?・・・自分の居場所、作れるから」(0:35付近)

 自殺の実行リスクを高める要素①は、「所属感の減弱」、つまり「この世における自分の居場所を見失う感覚」だった。
 ヤマモトは、「地図」で「自分の居場所」を作り、心療内科に通いながら、何とか生きているのだった。
 私は、劇中のヤマモトマサヒロ(というか作者の横山氏)は、自殺予防のための一つのアイデアを提示しているように思う。
 それは、「自分の居場所」(地図)を自分でつくるということである。
 この劇を観てつくづく感じたのは、25年前の日本社会はやはり全般的に不健全だったということであり、その代表的な例が、横山氏も指摘した「誰かを揶揄して笑いを取る」言動である。
 この種の言動の要因を分析するのは難しいが、私見では、「強すぎる承認欲求がマウント行動としてあらわれたもの」と理解するのがよいと思う。
 どういうことかというと、25年前にテレビで揶揄されていた対象は性的少数者や障がい者などであったが、こうした人たちを「笑う」ということのもつ意味は、「『自分は彼ら/彼女らより優位にある』ということを、帰属集団の内部で相互に承認することによって、対象たる人間の居場所を奪うと同時に、自分たちの居場所を確保する」というところにあるのではないかと考えられるのである。
(未開社会における贈与やその極限形態であるポトラッチの主たる目的も、「相手集団より優位に立つこと」であった。)
 これは、他人の価値を落として自分の価値を高めようとする思考(「引き下げの心理」)に基づくものでであり、マウント思考・行動の一種とされている。

他人にマウントをとる人のあまりに情けない心理 他人の価値を落として自分の価値は上がるか
 「マウントを取る人というのは承認欲求が強い人です。承認欲求というのは「周りからすごいと思われたい、認められたい」という欲求です。そして、承認欲求が人一倍強いのに、その裏では自信がなくて不安でたまらない。自尊心を保てなかったり、努力して自分の価値を上げることができなかったりします。
 「一方、人間なら誰でも「自分には価値がある」と思いたいものです。だからマウントを取って「お前より俺のほうが勝っている」と思えれば自分のプライドが守られます。
 こうやって他人の価値を落として相対的に自分のほうが優位に立とうとすることを「引き下げの心理」といいます。


 強すぎる承認欲求のためにマウント行動に走ってしまうのは、個としての自我が確立していないことの裏返しであり、帰属集団への過剰な依存にほかならない。
 こういう風に考えてくると、またしても同じところにたどり着いたという感を抱く。
 つまり、結論として、やはり「réciprocité(レシプロシテ)からの解放」(丸山先生の錯覚?)(言い換えれば「自由」)が必要ということになるだろう。
 もっとも、25年かけて経済的な「没落現象」を経験した(したがって「没落現象回避型自殺」は減少したと思われる)一方で、マウント思考・行動を潜在化・不可視化・制度化したかの如き「新階級社会」が出来上がってしまった現在の日本社会において、「自分の居場所」(地図)を自分でつくることは、依然として容易なことではないのである。
 ・・・さて、今から25年後、日本社会はどうなっているだろうか?
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25年前(10)

2022年12月16日 06時30分41秒 | Weblog
渡辺淳一『失楽園』(上下巻、講談社文庫)
 「凛子は身体を重ねながら「怖い」を連発します。少し引用してみます。
――「わたし、怖いわ、怖いのよ」(中略)「わたしたち、きっといまが最高なのよ。いまが頂点で、これからは、いくら一緒にいても、下がるだけなんだわ」(下巻、P270)
凛子のこの境地は、やがて心中へと加速されます。


 この”凛子型”の自殺(心中)は、エミール・デュルケームの類型論では、「アノミー的自殺」に属すると解される。

自殺論 デュルケーム 著/宮島喬 訳
 「じっさい、経済的破綻が生じるさいには、ある個人を、それまで占めていた地位からそれ以下の地位ににわかに突き落としてしまうような、一種の没落現象がみられるのである。したがって、そのような個人は、要求を引き下げ、欲求を制し、前よりもいっそう自制することを学ばなければならない。ことかれらにかんしては、社会のはたらきかけの成果も、すべてむだになってしまう。道徳教育は、もう一度はじめからやりなおさなければならない。ところが、社会はただちに個人を新しい生活に順応させることはできないし、また不慣れなさらに激しい緊張を課することに慣れさせることもできない。その結果、個人は、与えられた条件に順応していないし、しかも、そのような予見でさえもかれに耐えがたい思いをいだかせる。この苦悩こそが、個人を駆って、その味気ない生活をーーそれを実際に味わう以前にさえーー放棄させてしまう当のものだ。」(p416)

 デュルケームは、「(経済的な)『没落現象』に耐えられないことによる自殺」の存在を指摘した。
 見事な洞察で、これによって、「破産より死を選ぶ」経営者の思考・行動が相当程度説明出来るように思われる。
 前述したモースのレシプロシテに起因する自殺、いわば「疑似ポトラッチ型自殺」と、デュルケームの「没落現象回避型自殺」とで、1997年に増加した自殺の多くが説明出来るように思えるのだ。
 もっとも、実際には、自殺の動機を一つに特定することは困難であるし、「疑似ポトラッチ型自殺」と「没落現象回避型自殺」とが相互に排他的な関係にあるわけではない(両立しうる)点にも注意が必要だろう。
 例えば、「破産より死を選ぶ」経営者の中には、「命で償う」という思考と同時に、「破産した後の生活には耐えられない」という思考を併せ持った人がいたのかもしれない。
 ちなみに、このブログで再三指摘してきた「弁護士による横領事案」の多くも、「没落現象」に耐えられないことが原因と思われる。(生活費語られない事実などをご参照)。
 では、いったいどうすれば、こうした自殺を予防することが出来るのだろうか?
 
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25年前(9)

2022年12月15日 06時30分01秒 | Weblog
 医師の石澤哲郎先生(ご挨拶)によれば、自殺の実行リスクを高める主な要素は3つあるそうである(東京三弁護士会主催の研修「新型コロナ時代の自殺予防対策」より)。

 ① 「所属感の減弱」:「この世における自分の居場所を見失う感覚」のこと。
 ② 「負担感の知覚」:「自分が生きていると周囲に迷惑をかける」という感覚のこと。ちなみに、「返済困難な借金」を抱えている人の自殺率は、通常より38.43倍も高い。
 ③ 「自殺潜在能力」:「苦痛に対する慣れ」のこと。例えば、暴力被害(加害)体験が挙げられ、このため格闘技愛好家は自殺率が高い。


 ③は別として、①②がいずれも対人関係の問題である点が重要である。
 要するに、「経済的に困窮する」ということが自殺に直結するわけではなく、これによって「この世における自分の居場所」が無くなったり、「自分が生きていると周囲に迷惑をかける」という感覚が強まったりすることによって、自殺の実行リスクが高まるのである。
 私見だが、この思考・行動のメカニズムは、réciprocité(レシプロシテ)(相互依存、互酬性)の原理に近いように思われる。
 つまり、「返礼する義務」を果たせないために、「相手に迷惑をかけてしまう」、「自分の居場所がなくなってしまう」という思いがつのり、それが(返礼義務履行型の・擬似的な)ポトラッチとしての自殺をひき起こしてしまうのである。
 この例が、「破産より死を選ぶ」経営者や、「私の死亡保険金を返済に充てて下さい」という遺書をのこして心中した経営者たちなのである。
 こうしてみてくると、25年前に急増した自殺には、擬似ポトラッチ型の自殺が多く含まれているのではないかと思われる。
 だが、この類型のほかに、もう一つ大きな自殺の類型がある。
 それは、”凛子型”ともいうべきタイプの自殺である。
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25年前(8)

2022年12月14日 06時30分40秒 | Weblog
いま、あえて『失楽園』(97年)を読んで分かったこと これは、究極の俗物小説だ
 「1996年10月5日に軽井沢の別荘で、久木祥一郎(55歳)と松原凜子(38歳)が青酸カリ自殺を遂げた。2人は、全裸のまま強固に抱擁し、
〈局所まで接合したまま、死後硬直の最も強い時間帯であるため、容易に離し得ず、警官2名にてようやく2人を分か(った)〉
ということだ。


 「失楽園」が日経新聞に連載されていたころ、私は、法医学の講義の一環で、男女の心中ではなく、一家心中(無理心中)の司法解剖を見学した経験がある。
 それは、ある中小企業の社長が資金繰りに行き詰まり、一家心中を図って妻と娘を殺害したものの、自分は死にきれず逃走したという事件であった。
 人形のように個性のないご遺体に直面したショックはもちろん甚大であったが、それと同時に、逃亡した被疑者に対する激しい怒りが自分の中に沸いてきたのをよく覚えている。
 その社長は、なんと、ベンツで逃走していたのである(後に自殺)。
 資金繰りに窮したにせよ、だからといって妻子を殺さなければならないということには全くならないし、どうやら自身は「食うや食わず」の状態というわけでもなかったようである。
 その翌年、私は中小企業にお金を貸す職業に就いたのだが、新人時代に上司(団塊世代)がよく言ったセリフは、次のようなものだった。

 「俺は自分で会社を興すことはしない。
  俺は工業地帯の真ん中で育ったので、小学校の同級生には中小企業の社長さんが多かった。
  だが、同級生のうち2人のお父さんが、会社が倒産したために、首をつって自殺した。
  そういう痛ましい経験をしているので、俺は自分では会社を興さず、その代わり、中小企業を資金繰りの面で応援する仕事を選んだんだ。


 団塊世代が育った時代には、自分の会社が倒産すると死を選ぶ経営者も多かったのだ。
 いや、25年前も、破産より死を選ぶ経営者はまだいたことが、1998年の「三社長自殺事件」(3社長はなぜ自殺したのか)から分かる。
 さて、私がこの3つのエピソードを持ち出したのは、「金銭的な生活苦(経済・生活問題)と仕事がらみ(勤務問題)」の自殺と言っても、本当に生活に行き詰まり、「食うや食わず」で骨と皮ばかりになって自殺するというのは極めて少数であって、実際には、そこには至らない段階で、つまりまだまだ生きていけるのに、あえて死を選んでしまう人が多いことを指摘するためである。
 当たり前のことだが、破産したからといって、命までとられるわけではない。
 それにもかかわらず、死を選ぶ人がいるのはなぜだろうか?
 この問いに答えるためには、自殺をひき起こす要因を分析する必要がある。
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25年前(7)

2022年12月13日 06時30分45秒 | Weblog
新国立劇場の演劇『 #夜明けの寄り鯨』舞台映像
(クジラの刺身をふるまう和泉照彦に対して)

 新美紗里「クジラが浜辺に打ち上がるのって、自殺なんです」(1:03付近)
 
 ここに至って、「1997年の日本」(=「『失楽園』の凛子)と「寄り鯨」の関係性が明らかとなったように感じる。
 私見では、「寄り鯨」は「1997年の日本」の象徴だったのである(もちろん、これは一つの解釈に過ぎず、依然として「寄り鯨」は多義的である。)。
 問題は、「寄り鯨」の発生原因が究明されていないこと、言い換えれば、1997年の日本が抱えていた問題が正確に把握されていないところにある。

特集:自殺は防げる データで見る日本の自殺
 「警察庁の統計データを見ると,1978年から1997年まで自殺者数はだいたい2万人台の前半で推移していた。戦後2回目のピーク期にあたる1983年と86年に2万5000人をやや上回った程度だ。ところが,1998年に突如として3万2863人に増加する。前年1997年の1.35倍だ。
 「1997年を境にどの年代,どの動機でも自殺者は増えたが,相対値で見ると,年代では50歳代,動機では生活苦や仕事がらみが特に増えたとわかる。
 「自殺者の増減がそのときの経済状況と密接な関係にあることは,多くの人が指摘している。完全失業率と自殺率の年次推移を見ると,男性で明らかな相関があることがわかる(図3)。この数年の自殺の急増ぶりも長期化する不況の影響が大きいだろう。倒産やリストラで職を失う人も少なくないが,無職の男性では,職に就いている男性よりも自殺のリスクが10倍高いと見る研究者もいる。

 1997年から1998年にかけての自殺者の急増については、50歳代の男性(久木祥一郎を代表とする”団塊の世代”、あるいはその前後の世代)による「生活苦やしごとがらみ」の自殺の増加が大きな要因となっていた。
 「失楽園」の久木には、「金と暇」がたっぷりあった(だから不倫も出来た)が、現実の団塊世代の男性たちにあっては、お金に窮し、生きるすべを冷静に考える時間も持てないまま、自殺してしまう人たちが急増したのである。
 例えば、その10年前(1987年)に心筋梗塞で亡くなった八木俊亜氏は、次のような言葉を手帳に書き残していた。

過労死とサービス残業の政治経済学――市民社会の基礎は労働時間か自由時間か?――
 「かつての奴隷たちは、奴隷船につながれて新大陸へと運ばれた。超満員の通勤電車のほうが、もっと非人間的ではないのか。現代の無数のサラリーマンたちは、あらゆる意味で、奴隷的である。金にかわれている。時間で縛られている。上司に逆らえない。賃金も一方的に決められる。ほとんどわずかの金しかもらえない。それと欲望すらも広告によってコントロールされている。労働の奴隷たちはそれでも家族と食事をする時間がもてたはずなのに。……
 
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25年前(6)

2022年12月12日 06時30分51秒 | Weblog
「本当のテーマはバブル崩壊に翻弄される団塊世代への挽歌だったと思います」失楽園 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
 「経済紙にこのような内容の小説が掲載されるのは異例のことでした
 しかし、それから25年も経ち本作を観てみると、成る程、この小説は日経新聞に掲載されて当然であると、むしろ日経新聞にこそ掲載されなければならないと思いました

 「本作の本当のテーマはバブル崩壊に翻弄される団塊世代の挽歌だったと思います
 主人公の久木は劇中で1946年生まれの50歳だと分かります
 正に団塊世代です
 不良債権問題が大きな社会問題として取り上げられ始めていました
 バブルのような好景気は過去になり、同じように頑張っていても、それ以上に頑張っても業績はどんどん降下していったのです
 エース級の人達も業績不振で左遷されていき、仕事ができる奴のリストの上から順にどんどんすり潰されていったのです
 左遷されなくても、身体を壊すか、心を病むかして行ったのです


 観ていない映画について語るのは気が引けるのだが、上に引用したレビューを読むだけで、私などは「もうお腹いっぱい!」という気分になる。
 「失楽園」は、”バブル崩壊に翻弄される団塊世代の挽歌”だったのである。
 そういえば、当時、大企業では55歳定年制を採用しているところも多く、50歳になる前に子会社等へ出向・転籍させるところもあった。
 ジュンちゃん(あるいは森田監督?)は、主人公の久木を50歳に設定して、彼が楽園(カイシャと家庭)を喪失し、愛欲に溺れ死に赴くさまを描いたわけだ。
 さて、このレビューを読んで、私は、これは単なる不倫小説・映画ではないのかもしれないと思うようになった。
 例えば、この小説・映画から、凛子という存在(”ファンタジー”の要素)を取り去ったとすれば、どうなるだろうか?
 つまり、(不倫の末の)心中(Double Suicide)を、自殺(Sucide)に置き換えるのである。
 すると、そこには、当時まさに現実のものとなりつつあった、悪夢のような世界が出現するのである。
 
 
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