「俊徳丸の業病は、以前、鮑の盃を用いて俊徳丸に飲ませた毒酒が元であると話し始める玉手。それは、俊徳丸の容貌を崩して浅香姫に愛想を尽かさせ、自らの邪恋を成就させようという思いからだと打ち明ける。これを物蔭で聞いていた入平は、堪えかねて姿を現し、玉手に意見し始める。しかし、玉手は耳を貸さず、なおも俊徳丸に迫り、連れ去ろうとする。
ここへ一間から合邦が現れ、玉手を刀で突きさす。」(筋書p8)
「義経千本桜」の「すし屋」で弥左衛門が権太を刺す場面とそっくりであるが(2月のポトラッチ・カウント(6))、玉手は延命のために(?)「腹帯」を締めるという新工夫が見られる。
この後、玉手の
「これには深い様子のあることで、・・・」
というセリフで始まる、(「すし屋」と同様)絶命するまでの約15分間にわたる”種明かし”が行われる。
「俊徳を殺して家督を奪おうとする次郎丸の陰謀を立ち聞きしたため、わざと不義者となって俊徳をらい病にして家出させた、家督さえ継げば次郎丸の悪心もおさまり俊徳は殺されずにすむ、仮に次郎丸の悪事を通俊につげては次郎丸は手討ちになってしまう、ふたりの継子の命を共に救うためにはこうする他はなかったのだと。そして、寅の年月日揃った自らの肝の臓の生き血を鮑の盃で俊徳にのませてらい病を平癒させ、合邦夫婦、姫、入平が繰る百万遍の数珠の輪の中で息絶える。」(p58~59)
合邦「でかじゃった、でかじゃった・・・これぞ貞女じゃ・・・」
殺しておいて「でかじゃった」というのは何ともマッチポンプであるが、その点を含めストーリーとして不自然なことは否めない(「すし屋」もそうだが・・・)。
中でも、玉手の行動は昔から「謎」とされてきたようである。
「「信頼できない語り手(Unreliable narrator)」というミステリの要素がある。これは物語のナレーターや登場人物の語りが真実ではない、あるいは真実かどうか疑わしいがために、読者や観客を混乱させる手法のこと。『摂州合邦辻』の“犯人”である玉手は、前半と後半で人物像をがらりと変貌させ、そのうえ、どちらにおいても裏表のない振る舞いをする。前半、息子の俊徳丸への恋心を熱く語り、一緒になりたいばかりに両親さえ裏切る様子はまさしく恋ゆえの狂気。しかし後半、事件の一部始終を自白する玉手は、突如として、すべては家族のため、自分の使命のためだったのだと語る。別人のように異なる玉手像には、観客の「すべては俊徳丸と家族のためだったんだ、よかった、よかった」という素朴な理解を拒むような不穏さがある。もしかすると、本当に玉手は俊徳丸に恋をしていたのかもしれないと思わせるのだ。ならば、結局どちらの玉手が〈ほんとう〉だったのだろう?」
いや、玉手は自らの意図を明快に語っており、「信頼できない語り手」などではない。
私見では、彼女が(悪人である)次郎丸を含む継子2人の「命」を救おうとしたことについては玉手の出自が関係しており、これを見落としてはならない。
父の合邦は、もと鎌倉の大名の子息であったが、悪人の讒言により浪人となり、天王寺の西門で滑稽な教化の大道芸をみせて閻魔の勧進を募って暮らしている。
つまり、玉手は、はっきり言えば、「仏教徒の物乞い」のイエの生まれなのである。
それが、河内の国の大名である高安のイエに嫁ぐのだが、これは、常識では考えられないシンデレラ・ストーリーである。
なので、高安の2人の子の命を救うことは、
「(大の恩人である)夫の御恩に報いるため・・・」
だけでなく、仏教徒である自らのイエの理念にも適う行為なのである。
・・・というわけで、玉手は、高安の2人の子の命の代償として自らの命を捧げたことから、「摂州合邦辻」のポトラッチ・ポイントは、5.0。