Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

9月のポトラッチ・カウント(4)

2024年09月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「徳丸の業病は、以前、鮑の盃を用いて俊徳丸に飲ませた毒酒が元であると話し始める玉手。それは、俊徳丸の容貌を崩して浅香姫に愛想を尽かさせ、自らの邪恋を成就させようという思いからだと打ち明ける。これを物蔭で聞いていた入平は、堪えかねて姿を現し、玉手に意見し始める。しかし、玉手は耳を貸さず、なおも俊徳丸に迫り、連れ去ろうとする。
 ここへ一間から合邦が現れ、玉手を刀で突きさす。」(筋書p8)

 「義経千本桜」の「すし屋」で弥左衛門が権太を刺す場面とそっくりであるが(2月のポトラッチ・カウント(6))、玉手は延命のために(?)「腹帯」を締めるという新工夫が見られる。
 この後、玉手の
 「これには深い様子のあることで、・・・」
というセリフで始まる、(「すし屋」と同様)絶命するまでの約15分間にわたる”種明かし”が行われる。

 「俊徳を殺して家督を奪おうとする次郎丸の陰謀を立ち聞きしたため、わざと不義者となって俊徳をらい病にして家出させた、家督さえ継げば次郎丸の悪心もおさまり俊徳は殺されずにすむ、仮に次郎丸の悪事を通俊につげては次郎丸は手討ちになってしまう、ふたりの継子の命を共に救うためにはこうする他はなかったのだと。そして、寅の年月日揃った自らの肝の臓の生き血を鮑の盃で俊徳にのませてらい病を平癒させ、合邦夫婦、姫、入平が繰る百万遍の数珠の輪の中で息絶える。」(p58~59)

合邦「でかじゃった、でかじゃった・・・これぞ貞女じゃ・・・」

 殺しておいて「でかじゃった」というのは何ともマッチポンプであるが、その点を含めストーリーとして不自然なことは否めない(「すし屋」もそうだが・・・)。
 中でも、玉手の行動は昔から「謎」とされてきたようである。

 「「信頼できない語り手(Unreliable narrator)」というミステリの要素がある。これは物語のナレーターや登場人物の語りが真実ではない、あるいは真実かどうか疑わしいがために、読者や観客を混乱させる手法のこと。『摂州合邦辻』の“犯人”である玉手は、前半と後半で人物像をがらりと変貌させ、そのうえ、どちらにおいても裏表のない振る舞いをする。前半、息子の俊徳丸への恋心を熱く語り、一緒になりたいばかりに両親さえ裏切る様子はまさしく恋ゆえの狂気。しかし後半、事件の一部始終を自白する玉手は、突如として、すべては家族のため、自分の使命のためだったのだと語る。別人のように異なる玉手像には、観客の「すべては俊徳丸と家族のためだったんだ、よかった、よかった」という素朴な理解を拒むような不穏さがある。もしかすると、本当に玉手は俊徳丸に恋をしていたのかもしれないと思わせるのだ。ならば、結局どちらの玉手が〈ほんとう〉だったのだろう?

 いや、玉手は自らの意図を明快に語っており、「信頼できない語り手」などではない。
 私見では、彼女が(悪人である)次郎丸を含む継子2人の「命」を救おうとしたことについては玉手の出自が関係しており、これを見落としてはならない。
 父の合邦は、もと鎌倉の大名の子息であったが、悪人の讒言により浪人となり、天王寺の西門で滑稽な教化の大道芸をみせて閻魔の勧進を募って暮らしている。
 つまり、玉手は、はっきり言えば、「仏教徒の物乞い」のイエの生まれなのである。
 それが、河内の国の大名である高安のイエに嫁ぐのだが、これは、常識では考えられないシンデレラ・ストーリーである。
 なので、高安の2人の子の命を救うことは、
 「(大の恩人である)夫の御恩に報いるため・・・」
だけでなく、仏教徒である自らのイエの理念にも適う行為なのである。
 ・・・というわけで、玉手は、高安の2人の子の命の代償として自らの命を捧げたことから、「摂州合邦辻」のポトラッチ・ポイントは、5.0。
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9月のポトラッチ・カウント(3)

2024年09月19日 06時30分00秒 | Weblog
 「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部の最初の演目は、「摂州合邦辻」より合邦庵室の場。
 玉手御前:菊之助(女方も上手い!)、俊徳丸:愛之助という豪華な配役である(【舞台映像】歌舞伎座『摂州合邦辻』初日ダイジェスト)。
 あらすじは、能の「弱法師」、説教節の「しんとく丸」や「愛護の若」をミックスさせた複雑な内容で、要約するのが大変。

 「大名・高安家の跡取りである俊徳丸は、才能と容姿に恵まれたがゆえに異母兄弟の次郎丸から疎まれ、継母の玉手御前からは許されぬ恋慕の情を寄せられていた。そんな折、彼は業病にかかり、家督相続の権利と愛しい許嫁・浅香姫を捨て、突然失踪してしまう。しばらくして、大坂・四天王寺に、変わり果てた俊徳の姿があった。彼は社会の底辺で生きる人々の助けを得ながら、身分と名を隠して浮浪者同然の暮らしをしていたのだ。そこに現れる、浅香、次郎丸、玉手と深い因縁を持つ合邦道心。さらに、誰にも明かせない秘密を抱えたまま消えた玉手が再び姿を見せた時、物語は予想もしない結末へと突き進む。

 継母の玉手御前から恋慕の情を寄せられて困惑する俊徳丸は、顔に醜い斑点が出来る病気(らい病)にかかり、世をはかなんでか、家督相続の権利と許嫁の浅香姫を捨てて失踪する。
 だが、この病気は、実は玉手御前が仕込んだ毒によって発したものだった。
 この、① 毒による業病の発生、② 継母の「無体の(道ならぬ)恋慕」 という2つの謎がポイントであり、これがラストで明かされるストーリーとなっている。
 このストーリーを理解するためには、「糸井版『摂州合邦辻』」の「人物相関図」を見るのがよいだろう(いつも感じることだが、歌舞伎座の筋書には「人物相関図」が載っておらず、不親切だと思う)。

・次郎丸・・・高安(イエの当主)と妾との間の子(長男)。
・俊徳丸・・・高安と亡き先妻と間の子(弟)。
・玉手御前・・・高安の後妻で、合邦同心・おとく夫婦の子。

 要するに、”イエ”の承継(相続)を巡る争いが発端となった「お家横領」のお話なのである。
 次郎丸は、長男だが妾腹のため、高安の”イエ”を継ぐ資格が認められない。
 なので、当時の親族法に基づけば、高安の家督を相続するのは、正妻の子である二男:俊徳丸ということになる。
 ところが、これに次郎丸は不服を抱き、「家督横領」を企み、俊徳丸を殺害しようと計画している。
 玉手御前は、この計画を知ってしまったのである。
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9月のポトラッチ・カウント(2)

2024年09月18日 06時30分00秒 | Weblog
 「同じ新国立劇場の中劇場にて『夏祭浪花鑑』を9月歌舞伎公演(9月1日(日)~25日(水))でも同時期に上演いたします。文楽・歌舞伎の『夏祭浪花鑑』の“競演”にもご注目ください。

 文楽・歌舞伎の両方で「夏祭浪花鑑」を鑑賞出来るチャンスである。
 但し、文楽では「釣船三婦内の段」と「長町浦の段」の2段が上演されるのに対し、歌舞伎ではこれに加えて「住吉鳥居前の場」も上演される。
 というわけで、私はセット券を購入して、文楽→歌舞伎の順に観たのだが、これは逆の方が良かった。
 というのも、歌舞伎の方は、冒頭で片岡亀蔵氏による「入門『夏祭浪花鑑』をたのしむ」があり、鑑賞のポイント(以下の3点)が提示されていたからである。
① 男同士の達引
② 女の意地
③ 泥まみれの死闘
 ①の「達引」と②の「意地」は同義と見てよく、そのことは、セリフから一目瞭然である。
 すなわち、「釣船三婦の段」では、三婦とお辰との間のシンメトリカルなやり取り:

三婦「(磯之丞とお辰との間に何かがあっては)俺の男が立たぬ!
お辰「(磯之丞の身柄を預かれないのであれば)私の女が立たぬ!

である。
 ラストでは、団七もこの種のセリフを吐く。

団七「さうしられてはこの九郎兵衛の顔がどうも立ちませぬ
  「ヤアそれではこの九郎兵衛がどうも顔が立たぬ

 お辰や団七がこれほど「顔」を気にするのは、「恩」のある磯之丞(とその”イエ”である玉島家)に対する「忠」=「返礼する義務」を極めて重視しているからである。
 要するに、この人たちは、réciprocité(レシプロシテ:相互依存、互酬性)の枠内から一歩も出ることが出来ないのである。
 徳兵衛も同じであり、団七と「兄弟」(水平的な紐帯)の契りを結んだのも、共に玉島家に「恩」(垂直的な関係の基盤)があるからであり、やはりréciprocitéの枠内で生きている。
 親族関係においてもこうした「垂直的な関係」が根本であり、「孝」が倫理の中核をなしていた。
 それゆえ親殺しは死罪、しかも「獄門」(=斬首および晒し首、情状によっては引廻し)とされたわけである。
 加えて、ラストの、

団七「悪い人でも舅は親、南無阿弥陀仏

は、”イエ”倫理の適用(というか、構成員の把握)において姻族を血族と区別しない特殊日本的な思考を示しており、「孝」は舅にも適用された。
 なので、「舅殺し」=「親殺し」となる。
 ・・・さて、ポトラッチ・ポイントの算定については、既に4月に行っており(4月のポトラッチ・カウント(2))、結論は6.0。
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9月のポトラッチ・カウント(1)

2024年09月17日 06時30分00秒 | Weblog
伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)
火の見櫓の段

解説 文楽の魅力

夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)
釣船三婦内の段・長町裏の段

 今月の(東京の)国立劇場・文楽は、新国立劇場の小劇場で開催される。
 私が行ったのは日曜の午後ということもあり、ほぼ満席という盛況だった。
 結構若い人が多いのは、「学生1,800円 」という破格の料金設定によるところが大きいかもしれない。
 冒頭で、人形遣いの方による丁寧かつ興味深い解説がある。
 人形の構造を示してくれるのだが、かなり複雑で、操作法を習得するのに時間がかかるのは当然であることが分かる。
 最初の演目は、「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」である。

 「近江国高島家の若殿左門之助が禁裏へ献上する天国の剣を紛失したため、お守役の安森源次兵衛は切腹しました。江戸吉祥院の寺小姓となって剣を探す安森の一子吉三郎は、火事で焼け出されたお七と恋仲となっていましたが、お七は父が店の再建のためにお金を借りた万屋武平衛を婿に迎えなければなりませんでした。
 剣詮議の期限の日、お七は剣を盗んだのが武兵衛と知ります。しかし火事の後は九つの鐘(午前0時)を合図に江戸の町々の木戸が締まり、通行が禁じられています。たとえ剣が手に入っても今夜中に届けることができなければ、吉三郎は切腹することになります。思いつめたお七は、火の見櫓の半鐘を打てば出火と思って木戸は開かれるのではと考えました。火刑を覚悟で、雪の凍りついた梯子を滑り落ちながらも、櫓に上ったお七は撞木を夢中で振るのでした。

 「・・・下女のお杉が吉三郎を縁の下に忍ばせると、上の座敷では店の借金のため萬屋武兵衛に嫁いでくれるよう、お七の両親が娘を説得している。・・・」(p210)

 設定が絶妙!
 「天国の剣」を見つけ出さない限り、吉三郎は「殉死」しなければならないのだが、その剣を盗んだのは武兵衛で、お七は「店の借金」のためその武兵衛に嫁ぐよう両親から説得されている。
 このくだりだけでも、以下のポトラッチを発見することが出来る。
① 「天国の剣」紛失の代償として命を捧げなければならない吉三郎。但し、未遂なので、ポトラッチ・ポイントは0.5。
② 「『イエ』の存続」のため犠牲強要を受けたお七。但し、これも未遂なので、ポトラッチ・ポイントは0.5。
 今回の公演では、「火の見櫓の段」だけが上演されるのだが、火事でもないのに火の見櫓を打つと、火刑に処せられることになっていたという(実話の「八百屋お七」は、放火の罪を犯したために火刑に処せられたそうなので、文楽の設定はやや疑問だが、まあ、よしとしよう。)。
③ 吉三郎の命を救うため、お七は火刑を覚悟で金を鳴らし、(文楽では結末が不明だが)命を奪われたと思われるため、ポトラッチ・ポイントは5.0。
 というわけで、「伊達娘恋緋鹿子」のポトラッチ・ポイントは、①+②+③=6.0。
 
 
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救済対象の逆転

2024年09月16日 06時30分00秒 | Weblog
1990年、バブル景気に沸く日本で公開され、大人気を博した映画『プリティ・ウーマン』。そのミュージカル版が日本に初めてやってくる!

 おそらく高校2年生の頃だったと思うが、私は、担任の教師(英語)から、バーナード・ショーの「ピグマリオンのペーパー・バックを借りたことがあった。
 イギリス階級社会への風刺と女性の自立をテーマとする難しい内容の戯曲であるため、おそらく私は殆ど内容を理解出来なかったと思う。
 ただ、今でも覚えているのは、この教師が本を貸す際に述べた、
 「これはつまらないわよ
という一言である。
 さて、「ピグマリオン」は「マイ・フェア・レディ 」の題名でミュージカル化、次いで映画化され、映画版はアカデミー作品賞を受賞した。
 時を経た90年代、そのリメイク版とされた映画が、「プリティ・ウーマン」だった(ちなみに、私はこの映画を見ておらず、ただ当時大ヒットしたことだけ覚えている。)。
 これが2018年にミュージカル化され、このたび来日公演が開催されることとなった。
 以上の経緯からすると、「プリティ・ウーマン」の原作(の原作の原作)は、「ピグマリオン」であるが、舞台はアメリカなので、テーマは「女性の自立」なのではないかと予想していた。
 確かに、主人公:ヴィヴィアンは、ハリウッドで売春婦(スラングで”hooker”という)をしており、西欧の伝統からすれば、”救済”の対象となるはずである。
 つまり、「穢れた場に身を置く清らかな女性を救い出す」 という、古代ギリシャ・ローマ以来のお馴染みのストーリー(傑作の欠点(7))が描かれていると錯覚しそうである(実際、「椿姫」第2幕のシーンが何度か出て来る)。
 ところが、である。
 ヴィヴィアンの、次のセリフが決定的に重要なのだ。
 「私は所有物じゃないわ。いつ、誰と、いくらでヤるかは、自分で決める。私の価値は、自分で決める。・・・これが私の人生よ
と言って、エドワードの最初のプロポーズを蹴ってしまうのである。
 私はここで目からうろこが落ちる思いがした。
 ヴィヴィアンは最初から自立しており、彼女の自立ないし救済はそもそもテーマとなり得ない。
 つまり、「プリティ・ウーマン」は、「ピグマリオン」のリメイクなんかじゃなかったのである。
 むしろ、救済の対象は、何も作らず、会社の合併と分割によるマネーゲームに明け暮れる「廃物商」:スクラップ・ディーラー(scrap dealer)であるエドワードの方だった。
 救済対象が逆転しているのだ。
 ・・・とはいえ、「プリティ・ウーマン」が「ピグマリオン」から設定を借りていることは確かなので、作者としてそれなりに敬意を払っているかのように思われる箇所もある。

ヴィヴィアン「ダンスは、本来は水平的な感情を、垂直の動きに変えるものなの
エドワード「それはジョージ・バーナード・ショーの言葉だ
ヴィヴィアン「いや、昔、お客さんから聞いたの

 ・・・いや、待てよ。
 これは、イギリスかぶれの米国上流階級に対する皮肉であり、お馴染みのアメリカン・アンチインテレクチュアリズム(米国流反主知主義)を表したものではないか?
 とすれば、バーナード・ショーは、おちょくられているのではないか?
 ・・・などと思う、一夜であった。
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ポトラッチとしての自殺(2)

2024年09月15日 06時30分00秒 | Weblog
 「こうした儀礼の中で特に重要なのはポトラッチである。枝分節固有の贈与交換をエスカレートさせて相手が全く返せないよう贈与してしまう。すると相手の枝分節上の地位はゼロとなって、その相手はすべてを投げ出さざるをえなくなって、完璧な服従状態に陥ることになる。」(p118)

 ポトラッチは、未開社会でのみ起こるものではない。
 現在の日本で実際に起こっていることである。
 私見では、最も強力なポトラッチは、自殺である(ポトラッチとしての自殺)。
 ニュースなどで取り上げられたものだと、最近では以下の2つが挙げられる。

 「彼を擁立し、後ろ盾となっていた維新の会も一転、9日に齋藤知事へ辞職を申し入れた。12日には、自民を始めとする他の全ての会派もそろって辞職を求める、異例の事態が訪れた。 「それでも齋藤知事は、辞職しないといわれていますが、いずれにせよ政治家としては詰んでいます。辞職しない場合、県議会が始まる19日以降に不信任決議案を提出されるでしょうが、たとえ彼が反撃として議会を解散させたところで、もはや手遅れです。全会派が続投を望んでいない状況では、新議会が不信任案を再採決し、可決されれば失職するわけですからね」(同)

 「全てを投げ出さざるをえなくなる」のは時間の問題のようだ。

 「前山が復帰作に選んだのは、新宿で11月に上演される「ある日の通り雨と共に」という作品だ。前山は物語のカギを握る役どころとされているが、13日、出演予定だった女優2名の辞退が、所属事務所から発表された。  
 芸能事務所「ZETT」はXを更新し、《公演に出演を予定しておりました弊社所属タレント、高橋彩香、湯田陽花につきまして、出演を辞退させていただく運びとなりました》と報告。《事務所の決定によるもので所属タレントの判断ではございません》とも補足した。

 当然のことだが、一時的な引退は「全てを投げ出す」ことと等価ではない。

 ①と②を比較すると、①は「返礼する義務」を一切拒否しているのに対し、②は不十分ながら「返礼する義務」の一部を履行したとみることが出来そうである。
 とはいえ、二人とも、「命」を贈与されたことについての自覚が乏しいことは否めない
 改めて、亡くなった三人に合掌。
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マグマの噴出と完璧な調和

2024年09月14日 06時30分00秒 | Weblog
オール・ベートーヴェンプログラム
 《エグモント》序曲
 ピアノ協奏曲第3番
 交響曲第3番《英雄》
<ソリスト・アンコール>
ベートーヴェン:ピアノソナタ「月光」より第1楽章
リスト:ラ・カンパネラ

 今月は、辻井さんが出演するコンサートに3回行く予定で、初回はロンドン・フィルとの共演。
 ロンドン・フィルを生演奏で聴くのはおそらく初めてだが、《エグモント》序曲の初っ端で息を吞んでしまった。
 第一ヴァイオリンが完璧にシンクロしているのである。
 ベルリン・フィルなどもそうだが、10~20人が弾いている第一ヴァイオリンの音が一つに聴こえるのは、世界トップクラスのオーケストラであることの証なのだろう。
 次が辻井さんとのコンチェルトだが、私の席は、最前列中央やや左側、つまり、辻井さんの目の前である。
 しかも、サントリー・ホールでのピアノ・コンチェルトは、舞台のギリギリ端っこまでピアノを寄せてセットするので、辻井さんまでの距離は2メートルちょっとしかない。
 私の人生で最も辻井さんに接近した約40分間である。
 これだけ至近距離で見ると、辻井さんが「呼吸と指の動きをシンクロさせている」ということは一目瞭然である。
 私見では、ダンスも同じで、ダンサーの息遣いを至近距離で観察すると、身体の動きに呼吸をシンクロさせているというか、むしろ呼吸によって身体を操っていることが分かるのである。
 完璧な演奏の後のアンコール1曲目は、ベートーヴェンにちなんだ「月光」第1楽章。
 これはオーソドックスな演奏だが、2曲目の「ラ・カンパネラ」は、辻井さんの最近の傾向である「高速演奏」(憑依)。
(リストはベートーヴェンの孫弟子であり、崇拝者なので(バッハ発、ワーグナー行き(5))、この曲をアンコールで弾いても、おそらく「オール・ベートーヴェン・プログラム」の趣旨には反しないだろう。)
 ピアノの音は、上と下に向かう仕組みなのだが、下向きの高音は非常に強く伝わるので、最前列で聴いていた私はガラスの破片が落ちてくるような恐怖に近い感覚を覚えた。
 温厚そうに見える辻井さんだが、「ラ・カンパネラ」の演奏を聴くと、内面にマグマのような激しいものを秘めていることが分かる。
 注目のスタンディング・オベーションは、私が見た限り、一回席では50〜60代位の女性1人だけだった。
 スタンディング・オベーションがアーティストへのメッセージだとすれば、目が見えない辻井さんに対する関係では意味を成さないこととなるはずだ。
 だが、感動を表したものだとすれば、アーティストに伝わるかどうかと関係なく、表現行為として成立することになるだろう。
 さて、メインの「英雄」だが、この時期に作曲されたベートーヴェンの曲は、「心地よく」聴くことが出来る。
 音の動きが自然かつ滑らかで、不自然又はザラつくところが全くないのである。
 全ての楽器が自己主張しているが、なぜか全体としては統一されている。
 例えるのは難しいが、「小鳥も猛獣もみんなが仲良く暮らす、陽光の降り注ぐ森」といった印象である。
 「完璧な調和」という言葉しか出て来ないところだが、ベートーヴェンは、ナポレオンではなく、天界をイメージしてこの曲を作ったのではないだろうか?
 聴衆としては、一秒でも長くこの「完璧な調和」の中にとどまっていたいのだが・・・。
 
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”原母”の死、あるいは暗喩としての土

2024年09月13日 06時30分00秒 | Weblog
「春の祭典」 振付:ピナ・バウシュ
「PHILIPS 836 887 DSY」 振付:ピナ・バウシュ 出演:エヴァ・パジェ
「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」 振付・出演:ジェルメーヌ・アコニー  

 ピナ・バウシュ版「春の祭典」の日本での上演は18年ぶり、ということで無条件でチケットを買った。
 最初の演目は、「PHILIPS 836 887 DSY」で、ストーリー性がない上に短いので、「分かろうとせず、感じる」ことに徹した。
 結果、コリオグラファーが、「低い姿勢で上半身を回転させる」という動きを好んでいることはつかめた。
 次の、「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」 は、ピナ版「春の祭典」の解説のように感じた。
 以下は、舞踊の際に朗読される詩の一節である。

 「アルーフォ、私の祖母、聖職者、フォン族の王国、蛇の体内に生まれたあなたは、子どもを持つことができませんでした。夢の中で、あなたは壺から水を飲み、黒い雄羊を捧げなければならなかった。私の父を産んだとき、あなたは60を超えていました。
 私が生まれた時、人々は叫びました。「イヤトゥンデ!イヤトゥンデ!」母が戻って来たという意味の「イヤトゥンデ!」と。
 「亡くなった者たちは死んでいない・・・
 死者は地中にはいない

 ここだけ見ても、ケルト神話の「大母神崇拝」(「父」の承継?(7)?)との類似性が明らかであるが、これが、「春の祭典」の(語られない)プリクエル(前日譚)を暗示していると思う。
 ストラヴィンスキーの音楽「春の祭典」は、人身供犠のストーリーに基づいており(ストラヴィンスキー《春の祭典》〜どんなお祭り?)、ピナ版「春の祭典」もやはり人身供犠を描いている。
 だが、主人公は、舞台一面に敷き拡げられた「土」(というか、地母神)である(幕間の30分を使って慎重にセッティングがなされた)。
 例えば、途中で大柄な男性が地面に俯むけに倒れ込み、仮死状態に陥った後蘇生するが、これは、「土」から地母神の霊が男性に憑依し、いわば”顕現(代理化)”したことを示しているようだ。
 そして、彼が、生贄となる乙女を指名するわけである。
 乙女は、ラストで「土」の上に倒れ込み、息絶えて「土」に帰る。
(但し、若干注意が必要なのは、「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」における祖先の霊は、「地中」ではなく、”Things”(ものごと)の中に潜んでいるとされており、ピナとは「土」の位置づけが違うところである。)
 このように、ピナの描く人身供犠は、生命を「火」のアナロジーで捉えるインド・ヨーロッパ&セム系の死生観(1+1=1、あるいは暗喩としての蝋燭)とは対照的である。
 ・・・さて、これだけだと、なぜ人身供犠が要求されたのかが不明であるが、そのヒントが、「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」にあると考える。
 それは、「原母」=「地母神」の死(あるいは殺害)というプリクエルのことである。
 つまり、(生命を生み出す)「原母」が死んで(あるいは殺されて)不在となったため、それを呼び戻すために、原母が眠っている「土」に、代償として生命を捧げるというわけである。
 なお、「原母」に恒久的な死がないことは定義上明らかであり、この点はオマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」が明らかに謳っている。
 なんだか、ギリシャ神話のデーメーテール信仰と似ていて面白い。
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キラキラv.s.ナンバー

2024年09月12日 06時30分00秒 | Weblog
 「政府は10日の閣議で、戸籍の氏名に読み仮名を記載する改正戸籍法を2025年5月26日に施行する政令を決定した。施行後、本籍地の市区町村が全国民に対し、住民票などで把握した読み方を郵送で通知。1年以内に届け出がなければ、通知した読み仮名を戸籍に記載する。

 「キラキラネームが珍しくない日本やアメリカと違い、ドイツでは法律上様々な制約があるためキラキラネームを目にすることはあまりありません。ドイツでは「町の名前を子供につけること」は禁じられていますから、子供にParisやMississippiといった名前を付けることはできません。
苗字と間違えられやすい名前や、Gucci、Pepsi-Cola、Nutellaといったブランド名や商品名も却下されてしまいます。ドイツ語でサクランボを意味するKirsche、そしてヨーグルトを意味するJoghurtといった「食べ物の名前」を付けることも不可能です。・・・
 日本には「男の子にも女の子にも付けることのできる名前」が多数あります。「ひろみ」「かおる」「ゆう」などです。このことについて筆者は「多様でいいな」と感じています。しかし、かつてドイツでは、「子供の名前は性別がハッキリわかるものでないといけない」と決まっていました。

 「姓」の問題は”イエ”の本質にかかわるため、激しい議論がなされるが、「名」の問題はさほど揉めることもなく法令による制限が通りそうである。
 これには、「名」が余り重視されてこなかったという歴史的な背景がありそうだ。
 かつての日本のように、社会的実在として、”個人”は認められず、集団としての”イエ”だけが認められていた社会においては、その人物が属する”イエ”と、その人物が現在当該”イエ”の当主(承継資格を持った男性)であるかどうかが判別出来れば、差し当たり足りたと思われるからである。
(なお、当主は男性に限られていたから、かつてのドイツと同じく、性別が分かることも必須とされていたはずである。)
 おおざっぱに言うと、「姓」(苗字、屋号)は必須で、「名」は「現在の嫡男とそれ以外」を識別出来るようなものであればよい。
 なので、麻生太郎 (明治時代)氏と麻生太郎氏という、同姓同名の人物が出て来る(もっとも、これは歌舞伎や文楽の世界ではごく日常のことである)。
 そうすると、嫡男以外についてはキラキラネームを付けても構わないという発想になりそうだが、それでは困るのが、国・公共団体(つまり行政)である。
 公租公課を確実に賦課徴収したい行政としては、(納税義務者等である)「個人」を特定・捕捉出来ないと困るわけで、言うまでもなく、マイナンバー制度にはそれを防ぐ狙いがあった。
 なので、キラキラネーム防止法案にも同様の狙いがあるとみるのが自然である。
  個人的には、財産管理人の場合などに、(キラキラネームに限らず)読めない名前があると非常に困る。
 例えば、金融機関で口座の有無を調査する時は、「名寄せ検索」をしてもらうのだが、「読み仮名(カタカナ)」が不明だと行き詰ってしまう。
 海外にいる人物を調査する場合も、パスポートに記載されたアルファベットが不明だと、入国管理局に照会を行うことも出来ない。
 かくして、親の「命名の権利」と、国・公共団体の「公租公課賦課徴収の利益」とが対立することとなる。
 この状況は、「親の教育の自由」v.s.「国家の教育権」という、長らくアメリカで論じられてきた問題とも似ている(こどもと家庭(4))。
 ここで、行政サイドの狙いを極限まで突き詰めれば、「名前ではなく、数字にせよ!」ということになるかもしれない。
 まるで留置場か刑務所のようであるが、それではまずいというのであれば、次のような解決策が考えられる。

① マイナンバーの数字(12桁)を、2×6、3×4、4×3、6×2というふうに、6個、4個、3個、2個の数字のセットに分ける。
② それぞれの数字のセットに、(事前に対応表などを作成して)ひらがなを1個割り当てる。そうすると、6文字、4文字、3文字、2文字の「ひらがな名」が出来上がる。
③ 出来上がった「ひらがな名」をそのまま「名」にするか、あるいは、きちんと対応する読み仮名を持つ漢字を当てはめるか、カタカナに変換する。

 こうすると、キラキラネームは予防出来るし、「名」からマイナンバーを逆探知することも出来る(?)。
 かつ、「親の「命名の権利」と、国・公共団体の「公租公課賦課徴収の利益」の調和が図られているではないか!
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坐る、立つ、踊る

2024年09月11日 06時30分00秒 | Weblog
ベートーヴェン:
 序曲『コリオラン』 Op. 62
  交響曲第2番 ニ長調 Op. 36
  ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op. 73 「皇帝」  
<アンコール曲>
  ピアノ協奏曲第4番より第2楽章

 アンコールも含め全曲ベートーヴェンのコンサートで、これなら丸山先生から「盛り合わせ音楽会」(盛り合わせや否や?)と言われることは絶対にない。 
 反田さんのコンサートは、人気が高いこともあってか「抽選(席が選べない)」というのがデフォルト。
 今回も、S席を買ったのに2階後方という、ちょっと理解困難な配置である。
 だが、ピアノの音は上下に発散するため、1階最後方あたりよりも音がよく聴こえる。
 さて、最近注意して観察するようになったお客さんの年齢層・性別だが、中高年が8~9割で、6~7割が女性といったところ(つまり、女性の年齢層も高め)。
 ステージに登場した反田さんは、「肉体改造」を行ったというだけあって(ピアニストとルッキズム、あるいはスタンディング・オベーションの問題)、かなり遠くから見ても、はちきれんばかりの大胸筋で上着のボタンが取れそうな勢いである。
 指揮をするときも、中腰で左右に小刻みに動くという、脚や背中の筋肉を使う動きが多く出て来る。
 そういえば、反田さんはもとサッカー少年なのだった。
 1曲目の「コリオラン」は、緊迫感のある良い曲だが、暗い。
 そのせいか、この曲が捧げられたH.コリン(戯曲「コリオラン」原作者)は、演劇を上演する際にこの曲を用いたことはなかったそうである。
 次の「交響曲第2番」は、演奏機会は余り多くないと思うが、(特に3楽章は)モーツァルト的な明るさのある、澄明・清冽な曲で、現代音楽を聴いて疲れた後の箸休め(耳休め?)に良さそう。
 メインの「皇帝」は、演奏もそうだが、指揮も圧巻で見応えがある。
 冒頭のカデンツァを弾き終わると、反田さんは間髪を入れず立ち上がり、活発にタクトを振る。
 ピアノを弾くとき以外は常に立っており、見たところ、指揮が60%、ピアノ演奏が40%といった感じである。
 坐る→立つ→坐る→立つ、の動きが目まぐるしいが、楽譜を完璧に暗記しているのが分かる。
 前述したとおり、指揮はダンスのようで見ていて楽しいが、おそらく反田さん自身がいちばん楽しいのだろう。
 アンコールのピアノ協奏曲4番2楽章は、「皇帝」のラストとは対照的な、なにやらお通夜のような曲で、「これでアンコールでいいの?」という印象。
 だが、それでも、最前列中央の7人ほど(全員女性)を中心に、殆ど女性によるスタンディング・オベーションが起こった。
 これに対し、「皇帝」の演奏後、「ブラボー」が聞えたが、これは中年男性の声だった。

 「よく言われるのは、
・まだ曲が終わっていないのに、演奏にかぶせて「ブラボー」と叫ぶ
・本当に感動して声に出したというよりは、ただ言いたいだけで、やたらと「ブラボー」と言う
というもので、特に中高年の男性に多いと言われています。

 なるほど、「ブラボー」は男性、「スタンディング・オベーション」は女性という傾向があるようだ。
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