Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

傑作の欠点(11)

2024年11月10日 06時30分00秒 | Weblog
 「振付・演出を手掛けたのは鬼才ジョン・ノイマイヤー。彼は原作の小説に立ち返り、主人公たちの恋の行方を追うだけでなく、その関係や心理の変化をダンスによって克明に描き出しました。原作と同時代のパリを生きたショパンの音楽が時代の香りを漂わせ主人公たちの心情に溶け合いながら、物語を雄弁に語りかけてくるのです。特筆すべきは各幕に配された、高度な技術と表現力を要するマルグリットとアルマンのパ・ド・ドゥ。第1幕は愛の芽生え、第2幕は白昼夢のような束の間の幸福な浮遊感に満たされ、第3幕は壮絶なほどの憎悪を燃やすことで絆を確かめる恋人たちの葛藤が描かれます。とくに〈バラード第1番〉にのせた慟哭が聞こえてくるような第3幕の通称“黒のアダージョ”は、ガラ公演でもたびたび演じられる名ピース。また劇中劇「マノン」がマルグリットの心の鏡となり、恋人たちの運命の前兆として作品全体に通されているのもノイマイヤーの冴えわたる仕掛けです。

 1幕が終わった後、右側の廊下でノイマイヤーがD.タマシュ芸術監督と何やら英語で話しながら楽屋に向かっていた。
 二人ともドイツで活躍しているが、出身はアメリカ(ミルウォーキーとニューヨーク)であり、母語は英語なのである。
 さて、ヴェルディの「椿姫」と言えば、私はこれまで"あらさがし”(傑作の欠点)ばかりしてきた。
 実際、欠点が多く見つかるのである。
 だが、ノイマイヤーの「椿姫」には、欠点がなかなか見つからない。
 まず、ショパンの音楽のチョイスが抜群である。
 「肺結核が原因で亡くなった」ところがマルグリットと共通しているので選ばれたようだ。
 曲想やメロディーを論じる前に、まず動きが音にピッタリ”はまって”いる。
 ノイマイヤーのほかの演目だと、曲想とコリオの間に違和感を感じたり、何より安易に録音音源に依存するところが目立つのだが、今回はそうした問題は完全に払拭されている。
 その理由は、オケ&ピアノが生演奏だからというだけではなく、やはり、作曲家=ショパンが「抽象度の高い音楽」を好んで作ったからではないかと思う。

 「ショパンはロマン主義の音楽家仲間の「音楽と文学、絵画との融合」という考え方とは一線を引いていた。自分の作品が文学的あるいは絵画的に解釈、表現されることを嫌い、標題的なタイトルをつけられることを嫌がった。

 ショパンは、自作の曲に標題を付けられることすら忌避するくらい、音そのもの、そして器楽性を重視していた。
 したがって、音楽としては抽象度が高くなるのだが、このことは、他方においてコリオによる表現の自由度を高めることにつながる。
 次に、構成面では、バレエ版の「マノン・レスコー」を劇中で演じさせるという、「劇中劇」ならぬ「バレエ中バレエ」の場面を取り入れているところが巧みである。
 これによって、マルグリットはマノンに、アルマンはデ・グリューに、それぞれ自分を重ね合わせることとなる。
 なので、マノンが息を引き取った直後、その手を掴んで離すまいとするラストのマルグリットの姿が強烈な印象を残すわけである。
 さらに、内容面では、ヴェルディがオミットしてしまった「オランプ嬢とのイチャイチャシーン」(というか、ノイマイヤー版ではベッド・シーンも付いている)と、その後の”黒のアダージョ”をピークに持ってきたのが秀逸である。
 これだと、原作者(デュマ・フィス)からも100点満点をもらえそうだ。
 この長い小説は、ピークを捉えるのが難しいのだが、実は、「アルマンが当てつけにオランプ嬢とイチャイチャした後の、マルグリットとの再会」にそれがあったのである。
 
 「原作を読み、反芻すれば、アルマンはマルグリットが実際には自分を愛し続けていることを知っているのであり、だからこそ拗ねてみせもするわけだが、アルマンは自身のそういうところに気づこうとしないのである。これこそロマン主義小説の神髄であり、それは遠く漱石の『彼岸過迄』などにまで流れているわけだが、この微妙な心理劇を舞台化しているのはバレエだけであることに注意しなければならない。」(公演パンフレット「シュツットガルトの奇跡は続く」三浦雅士p38)

 こうしたアルマンの一見矛盾した自己破壊的な言動は、例えば、「風と共に去りぬ」における
 「自分ではなくメラニーを選んだアシュレーに対する当てつけとして、メラニーの兄チャールズと結婚したスカーレット」(当てつけ結婚)
にも似ている。 
 だが、(世代にもよるが)日本人にとって分かりやすいのは、私見では、「スラムダンク」における三井寿の、
ではないだろうか?
 三井は、怪我をしていた間もバスケがずっと好きだったのだが、その思いをひたすら抑圧し、そればかりか、不良集団とつるんでバスケ部員に暴力(当てつけ暴力)を振るっていたのである。
 要するに、「バスケ」を「マルグリット」に、「不良集団」を「オランプ嬢」に置き換えて考えるとよいのである(そうすると、マルグリットの喪服は安西先生?)。
 ・・・というわけで、結局「欠点」が見つからなかった!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指揮者と小学校の先生

2024年11月09日 06時30分00秒 | Weblog
  • ムソルグスキー(ショスタコーヴィチ編曲):オペラ『ホヴァンシチナ』第1幕への前奏曲「モスクワ河の夜明け」
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第9番 変ホ長調 作品70
  • ドヴォルジャーク:交響曲第7番 ニ短調 作品70
[アンコール曲]
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ『我が人生は愛と喜び』op. 263
ヨハン・シュトラウスⅡ世:トリッチ・トラッチ・ポルカ op. 214 

 ウィーン・フィルによるロシア音楽とドボルジャークという選曲だが、昨年もメインはドボルジャークだった(軽い曲、重い曲)。

 「日本のオーケストラは例外なく素晴らしく、レベルがとても高いのに驚いて嬉しい気持ちになりました。とても感情豊かで、音楽への理解が深く、テクニックが安定していて、音楽的なフィーリングが良い。ウィーン・フィルはすごくパワフルでしたが、私にとってはノイジー(騒々しい)と感じる部分が多くてあまり音楽的な気分に浸ることができませんでした。日本のオーケストラは、欧米のオーケストラと肩を並べるところまできています。以前は、日本の団体は欧米より劣るという見方が中心でしたが、今はそういうステレオタイプな価値観をブレイクする時代ですね。

 マーコウさんは「ノイジー」と感じる部分が多いというウィーン・フィルだが、1曲目の「モスクワ河の夜明け」は穏やかでおとなし目の曲なので、”ちょうどいい”感じである。
 2曲目のショスタコ9番は、私も初めて聴くが、「これってブラスバンド用の曲なのか?」と思ってしまうような、最初からふざけたタッチの曲である。

 「1945年春に赤軍がナチス・ドイツに対して勝利する見通しが立った時、ショスタコーヴィチには、他の作曲家の交響曲第9番に並ぶ9番として、スターリンを音楽で礼賛することが期待された。実際、ショスタコーヴィチは、交響曲第9番を書いたが、期待されたようにではなく、また、彼の評判が高まるように書いたわけではなかった。つまり、演奏時間が22分という異例の短さで、比較的小編成で、スターリンを称揚する合唱もなく、英雄的とはかけ離れたテーマで、要するに無関係であるという立場で、そのために専制君主の期待に対する皮肉とも受け取られかねない曲を書いたのである。」(プログラム・ノートp25)

 つまり、スターリンに対するあてつけのような曲なのだ。
 後半のドボルジャーク7番は、”鳴らす曲”なので、マーコウさんなら「ノイジー」と言ってしまいそうだが、まあまあ良い曲である。 
 ただ、9番や8番がさらに良い曲なので、埋もれてしまいそうな感じである。
 指揮者のネルソンスは私も初見だが、一番似ているのは「指さし奏法」のプレトニョフである。
 つまり、主旋律を担当する楽器の奏者にタクトや指、あるいは目線や身振りで合図するというタイプの奏法である。
 ただ、彼の場合、管楽器(特にフルート)への”指さし”の頻度が高く、他方でコントラバスなどは殆ど見ない感じである。
 彼の動作を見ていると、何だか懐かしい感覚が蘇ってきた。
 そう、
 「授業中に生徒を指さしてどんどん当てまくる小学校の先生
のイメージである。
 この感覚はどんどん強くなり、アンコール2曲目の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」が始まると、小学校時代の運動会のリレー競争を思い出した。
 体が思わず動き出した人も多いようだ。
 ・・・というわけで、期せずして童心に帰る一夜であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「土」v.s.「油」、あるいは救世主としてのアニー

2024年11月08日 06時30分00秒 | Weblog
亡き父(?)「タラの、この赤い土が、お前の支えなんだ。
スカーレット「タラ、私の故郷・・・帰ろう・・・」(4:58付近~)

 アメリカ大統領選は、”不動産王”トランプ氏の勝利に終わった。
 彼が不動産=「土」を体現する人物であるとすれば、ハリス氏はどうなるだろうか?
 私見では、民主党が戦前から最大の関心を抱いてきたのは「資源」であり、なかんずく「油(石油)」であると思う。
 例えば、日本への石油輸出禁止を決めたのも、民主党のF=ローズヴェルト大統領だった(昭和16年(1941年)8月1日アメリカ、全侵略国への石油の輸出を全面禁止(発動燃料、航空機用潤滑油も含む))。
 また、ロシアの石油産業に食い込んだのも、民主党に連なる集団だった(最後の棒倒し(1))。
 なので、ハリス氏=「油」という表現が分かりやすいと思う。
 ということは、今回の大統領選は、「土」v.s.「油」の戦いで、これに「土」が勝利したのである。
 ちなみに、「土」は「血」と並ぶ集団の組成原理であり、「原母」の象徴でもある(”原母”の死、あるいは暗喩としての土)。
 さて、「土」を体現するトランプ氏は、「アメリカ・ファースト」をスローガンに掲げ、自国の利益の極大化と「モンロー主義」を推進していくと予想される。
 なので、移民を排斥し、ウクライナ戦争は終結させようとするかもしれないし、台湾有事には「関税200%」で対応して軍事介入はしないかもしれない。
 つまり、トランプ氏は、スカーレットのように、「故郷」(アメリカ)に帰ろうとするのだろう。
 ところが、レットの方を見ても、彼は、

 ”Frankly, my dear, I don't give a damn.”(俺の知ったこっちゃない。)

と言うばかりで、これまた自分のことしか考えていないようである(好きな映画を語る〜「風と共に去りぬ」)。
 ・・・やはり、ここは、救世主アニーに登場してもらうしかない!?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビジネスと「反」知性主義

2024年11月07日 06時30分00秒 | Weblog
"The more thoroughly business dominated American society, the less it felt the need to justify its existence by reference to values outside its own domain. In earlier days it had looked for sanction in the claim that the vigorous pursuit of trade served God, and later that it served character and culture. Although this argument did not disappear, it grew less conspicuous in the business rationale. As business became the dominant motif in American life and as a vast material empire rose in the New World, business increasingly looked for legitimation in a purely material and internal criterion—the wealth it produced. American business, once defended on the ground that it produced a high standard of culture, was now defended mainly on the ground that it produced a high standard of living. Few businessmen would have hesitated to say that the advancement of material prosperity, if not itself a kind of moral ideal, was at least the presupposition of all other moral ideals."(p251~252) 

 「反」知性主義に敵対する勢力の中に、”ビジネス”が含まれることを、リチャード・ホフスタッターも指摘していた。
American business, once defended on the ground that it produced a high standard of culture, was now defended mainly on the ground that it produced a high standard of living.
(拙訳:アメリカのビジネス---かつてはそれが高い文化水準を生み出すという理由で擁護されたものであるが--それが今や高い生活水準を生み出すという理由で擁護されるようになったのである。)
 目下、「反」知性主義:
 「文化とか言っても、金がないと楽しめないでしょ?
というメンタリティの層が有力となって、「大統領選」という形で現われているように見えるわけである。
 ちなみに、これは日本にとっても他人事ではないと思う。
 やはり、知性に基盤を置く層が成立しないという”伝統”が根付いてしまっており、「新しい自由な社会」からは程遠い状況にあるからである(周回遅れ(4))。
 例えば、トランプ氏が「反」知性主義を体現していることは今さら言うまでもない。
 だが、対するハリス氏が「知性」を代表しているかと言えば、何とも言えない。
 私もアメリカの法曹について詳しいわけではないのだが、日本では、いわゆる「ヤメ検」の中には”ビジネス最重視”の弁護士が多いので、もしかするとハリス氏もそういうスタンスなのかもしれない。
 その場合、今回の大統領選は、「反」知性主義陣営内の、「ビジネスv.s.ビジネス」という構図が当てはまっているのかもしれない。
 何とも絶望的な構図だが、希望を捨ててはいけないことは、アニーも言う通りである(見せていい)。
 いっそのこと、アニーを大統領に選出することは出来ないものだろうか?
 ・・・さて、結果はどうなりますことやら?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死神の配役

2024年11月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「田舎の地主の娘タチヤーナは、帝都育ちの洗練された青年オネーギンに憧れ、恋文をしたためる。いっぽう若くして人生に飽いたオネーギンは一途なタチヤーナの愛を疎んじ、友人レンスキーをつまらぬ諍いから決闘で殺して失意のうちに去る。
 数年後、将軍の妻となったタチヤーナとオネーギンが再会。オネーギンはタチヤーナの気高い美しさに心を打たれ、熱烈に求愛。しかし胸に恋心を残しながらも人妻としての矜持を失わないタチヤーナは、これを拒絶する。

 シュツットガルト・バレエ団による6年ぶりの来日公演。
 2018年の公演では、確かフリーデマン・フォーゲル&アリシア・アマトリアンのコンビで観たと思う。
 2020年のパリ・オペラ座バレエ団の公演は、ユーゴ・マルシャン&ドロテ・ジルベールのコンビだった。
 というわけで、全幕で観るのは3回目なのだが、1幕でまず音楽に違和感を感じる。
 5曲目の、オリガとレンスキーのパ・ド・ドゥでの「『四季』より『舟歌』」の違和感が半端ないのである。
 有名なピアノ曲で、明るい要素はほぼ皆無のメロディーだが、幸せいっぱいのオリガとレンスキーは、常に笑顔を絶やさずに踊り続ける。
 これは、どう見てもシュールである。
 深読みすると、「世界残酷物語」のグロテスクな映像と同時に流れる美しい曲:「モア」の逆、つまり、幸せそうな二人を哀しい音楽で包んでしまおうという発想なのかと考えてしまう。
 確かに、この後レンスキーは殺され、オリガは別の男と結婚するのではあるが・・・。
 さて、オネーギン(パイシャ)が登場して、はたと気付いたことがある。 
 それは、オネーギンの配役はかなり難しいということである。
 なぜなら、彼は、西欧の伝統的な「愛」の概念(=「自我」の相互拡張)を否定するのみならず、「死神」だからである。

 「21世紀の通俗的心理学(科学的根拠のない心理学的な俗説)においては、エフゲニー・オネーギンのような人物は有害な男と呼ばれるのがもっとも妥当だろう。彼は手に入れられないものをほしがるが、手に入れると熱は冷め、戦利品を無下にあしらう。彼は満たされることのない親密さに憧れ、その身を捧げる。・・・だが、そこに愛の居場所はない。他者は常にただの目的のための手段でしかなく、常に客体であり決して主体ではない。」(公演パンフレットp15)

 オネーギンは、他者を「手段」又は「客体」としてしか見ないのである。

三浦「鏡の中から現れたオネーギンが死神の側面を持つことは、レンスキーの死によって明らかになる。死の世界に引き寄せられるけど必死になってこらえる場面が最後の場面ですね。」(p77)
 
 そう、三浦さんが見事に指摘したとおり、オネーギンは「死神」なのである。
 ということは、「死神」の側面を持つダンサーを配役しなければならないのだが、フォーゲルもマルシャンも、明るい”王子様”のキャラであり、悪の要素が希薄なので、どうしても違和感が残る。
 そうなると、今回のパイシャは酷薄な雰囲気があってなかなか良いと思うけれども、引退したオードリック・ベザールこそが、私見では理想のオネーギンではないかと思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖国の曲

2024年11月05日 06時30分00秒 | Weblog
ショパン:ポロネーズ第7番 変イ長調 Op. 61 「幻想ポロネーズ」
ショパン:即興曲第1番 変イ長調 Op. 29
ショパン:即興曲第3番 変ト長調 Op. 51
ショパン:即興曲第2番 嬰ヘ長調 Op. 36
ショパン:幻想即興曲 嬰ハ短調 Op. 66
ショパン:ソナタ第1番 ハ短調 Op. 4
モンポウ:ショパンの主題による変奏曲
アルベニス:ラ・ベガ(草原)
アルベニス:『イベリア第3集』より「エル・ポーロ」、「ラヴァピエス」
<アンコール曲>
リスト:ハンガリー狂詩曲 S.244 第10番 ホ長調
シューベルト:楽興の時 Op.94 第2番

 鼻歌(鼻歌協奏曲)で有名なマルティン・ガルシア・ガルシアのソロ・コンサート。 
 初っ端の「幻想ポロネーズ」は、ところどころミスタッチがあったのと、終盤の和音が”割れる”ところが気になった。
 だが、続く「即興曲第1番」では本調子を取り戻し、身体を左右に揺らし、鼻歌を全開にして楽しそうに弾いていた。
 私見では、曲順が逆の方が良かったのではないかと思う。
 前半ラストのソナタ第1番は、いわゆる「習作」という扱いのため演奏機会が極めて少なく、私も聴くのは初めてである。
 だが、なかなか良い曲で、もったいないと感じる。
 後半1曲目、モンポウ「ショパンの主題による変奏曲」は初めて聴くが、遊び心いっぱいの曲で、ついニヤニヤしてしまう。
 個人的にツボだったのは、第10変奏で脈絡もなく幻想即興曲の中間部のメロディーが出て来たところ。
 おそらく作曲家が大好きなメロディーということでぶち込んできたと思われるのだが、これは笑うしかない。
 さて、モンポウとアルベニスは、ガルシア・ガルシアの祖国:スペイン出身の作曲家である。
 つまり、後半は、祖国の曲ということになる。
 アルベニスの曲は、いずれも舞曲テーストで、特に最後の「ラヴァピエス」ではピアニストの動きも激しくなり、例によって、「神憑り」の境地に達したようである。
 だが、私見では、本日一番の演奏はアンコール曲1曲目の「ハンガリー狂詩曲第10番」だった。
 とにかく軽々と弾く姿が超人的である。
 ・・・というわけで、ガルシア・ガルシアは、ショパンやリストを得意としているだけでなく、スペインの作曲家の曲もレパートリーに持っていることが確認出来た一夜であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自衛学校

2024年11月04日 06時30分00秒 | Weblog
1. 生徒が自分たちで掃除をする。
2. 生徒同士の関係:ハグやキスは禁止。
3. 制服の義務付け:ミニスカートはOK
4. 「さすまた」などによる自衛。
5. 臨時教師の不存在。
6. 休暇中も勉強や課外活動を行う。
7. 髪型の規制。
8. 給食。
9. お辞儀などの強制。
10. 欠席は罰せられる!

 ショックを受けたのは「4. Self-Defense」。
 不審者が侵入した場合、アメリカでは "Run and Hide"(逃げる/隠れる) が鉄則であり、力で対抗するのはタブーとされている。
 ところが、日本は逆で、学校では生徒たちが”さすまた”で自衛の措置を講ずるものとされている(らしい)。
 ・・・いや、昭和の時代、学校に”さすまた”は置いてなかったし、不審者対策の授業もなかったと思うが・・・・・・。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己増殖能力

2024年11月03日 06時30分00秒 | Weblog
 「1997年9月には第2次橋本改造内閣が発足した。1998年5月には離党議員の復党などにより自民党は衆議院で単独過半数を越えた。そこで、社民党、新党さきがけとの連立を完全に解消した。社会党のトップを内閣総理大臣に据えるという離れ業を断行してから、4年後に、自民党単独政権への復帰に成功したのである。
 自民党の飽くなき権力への渇望である。自民党は、「政権復帰するために使える手をなんでも使うという執念」(亀井静香)を持っているのである。右派の石原慎太郎や中尾栄一まで村山首班に賛成しており、イデオロギーなど関係なく、権力のみを追求するのである。

 自民党という集団は、「国家」の不存在/不成立のゆえに存在しているようなものであり、”利益多元主義デモクラシーの病理”の象徴である。
 つまり、わが国には(誰のものでもないという意味での)「国家」が存在しないために、権力や金がことごとく私物化されてしまうのだが、その際、たいてい自民党こそが真っ先に”分捕り合戦”を仕切るポジションに来てしまうということなのである。
 このことは、例えば、いわゆる「政治駅」を考えるとすぐ分かる。
 さて、私物化が最大の目的だとすると、政策などは二の次であり、とにかく政権与党の地位を獲得して守り抜くことが至上命題となる。
 そこで、舛添氏が指摘したように、「社会党とも小沢氏とも組む」ということになるし、単独過半数を確保できるようになれば手を切るということになる。
 これは実に分かりやすい。
 そういう意味では、今回、国民民主が連立相手としてターゲットとされたのは当然である。
 次の選挙までのパートナーとしては、いちばん使い勝手が良いと思われたからである。
 なので、連立を受けるのは危ないわけだが、連立を拒否した上で閣外協力を行うにしても、結果的に自民党の「自己増殖能力」の強化にしかつながらないことは目に見えている。
 私見では、「自己増殖」の流れに巻き込まれることなく、次々と自党の政策を法案化して上程していくなどのプロアクティブな姿勢を維持することが賢明な選択だと思うのだが、さて、どうなりますことやら?
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「うたう」練習曲

2024年11月02日 06時30分00秒 | Weblog
  • シューマン/松岡あさひ編:『子供の情景』 op. 15
  • メンデルスゾーン/松岡あさひ編:『無言歌』から「甘い思い出」op. 19-1、「春の歌」op. 62-6
  • ブルクミュラー/ハンス・フランク編:『25の練習曲』op. 100
 子どものころ、ブルクミュラーの「25の練習曲」を弾いた方はいらっしゃいませんか?
 私もその昔、ハノンやチェルニーといった退屈な練習曲をやり過ごし、ブルクミュラーを弾くことが楽しみでした。
 曲が綺麗なうえに、それぞれに題名がついているのが好きでした。意味の解らない言葉もありましたが、想像をめぐらせながら覚えてしまいました。
 子どもの想像は時に途方もないものでしたが、それも今となっては大事な思い出です。
 今年はブルクミュラー没後150年です。かつて題名が広げてくれた想像の世界観を、色彩豊かなオルガンで再現してみたいと思っています。(松居直美)

 そう、私もブルクミュラー「25の練習曲」でピアノを習っていたことがあるので、懐かしさもあり、チケットを買った。
 メンデルスゾーン「無言歌集」とシューマン「子供の情景」がセットになっているのは、それまで「大人になること」を人間にとっての重要課題と位置付けてきた西欧文明が、19世紀になって初めて「子供」にフォーカスすることになったこと、しかもその思考が音楽の世界にもあらわれていたことを示す狙いがあるようだ。
 さて、「無言歌集」も「子どもの情景」もそうだが、「25の練習曲」はどれもみなメロディーが美しく、「歌曲」といっておかしくない。
 ピアノの先生はよく「もっと歌って!」と言って指導するのだが、その割に、松居さんも指摘するように、かつての基礎練習教本は”うたごころ”の乏しいものが多かった。
 子供にとってピアノの練習をもっと面白いものにするためには、この種の「うたう」練習曲を用いるのが良いのではないだろうか?
 例えば、ポップス調、ジャズ調、はたまたラップ調にするのも面白そうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月のポトラッチ・カウント(9)

2024年11月01日 06時30分00秒 | Weblog
 終演後の東京文化会館は、とにかく騒がしかった。
 私の感覚では、「ブラヴォー!」が8割程度、「ブー!」が2割程度だったと思う。
 5階席か4階席から、女性の大きな声で、はっきりと「ブー」が聞えたのが強烈な印象を残した。
 このあたりは、クラウドファンディング参加者向けの席と思われるのだが、募集当時のチラシには、
 「・・・すると皇后の体に影が宿り、皇帝はもとの姿へ。染物屋夫婦は互いの無事を喜び合う。
とあり、実際のエンディングとは真逆のストーリーが記載されていた。
 ハッピー・エンドだと思ってお金を出したのに、その期待を裏切られたというので、「ブー!」のボリュームも大きくなったということなのかもしれない。
 ところで、私が興味深いと感じたのは、「生殖」を大きなテーマとするこのオペラにおいて、「染物屋夫婦」という、当時の典型的な「手仕事」職人が重要な役割を演じているところである。
 この点は、岩下眞好先生が的確に指摘して下さっていた(公演パンフレットp34~)。
 つまり、西欧の伝統的思考においては、「つくる」こそが、「うむ」と並ぶ創生論の基本動詞なのである(「つくる」、「うむ」、「なる」?)。
 他方において、日本神話を特徴づける「なる」の観点は欠落している。
 このオペラで皇后が身籠るところは、どう考えても「なる」でした説明出来ないと思うのだが、そういう発想は出て来ないのである。
 ・・・さて、「影のない女」に出て来るポトラッチ・ポイントは、
・皇后を誘拐した代償として半身不随になった皇帝・・1.0
・不貞の代償として殺された皇后とバラクの妻・・・10.0(=5.0×2人)
の合わせて11.0となる。
 というわけで、10月のポトラッチ・カウントは、
・「ザ・カブキ」・・・・・・210.0
・「俊寛」・・・・・・・・・・・6.0
・「権三と助十」・・・・・・・・2.0
・「婦系図」・・・・・・・・・・1.0
・「源氏物語」・・・・・・・・・2.5
・「影のない女」・・・・・・・11.0
で、合計すると、232.5となり、過去最高をマークした。
 やはり、「ザ・カブキ」の威力が大きく、「忠臣蔵」こそが日本の暗部=レシプロシテの猛毒を代表する作品ということなのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする