パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「千の風になっては」小声で歌うべきでは、、、。

2007年04月18日 20時48分52秒 | Weblog
昨年の紅白歌合戦で取り上げられ
一躍クラシック部門のベストセラーになった
秋川 雅史の歌う「千の風になって」

しかし、へそ曲がりの自分は、どうにも違和感が拭いきれないでいる
まず、あれはクラシックというジャンルに入るのだろうか、ということ
別にジャンルなんかどうでも良いのだけれど
あれでクラシックといわれてしまうと、
なんだか少し違っている気がしてならない
クラシックはもう少し作者が全身全霊をかけて作っているイメージがあるのだが
この作品はシリアスな内容ではあるが、それほどまでの力を込めて作られた曲ではないように思える
むしろ、フッと浮んだものを作品化した気がする
だから、新井満がボソッと歌っているのを聞いた時
「この方がいいや!」と思ってしまった
それは作者だから良いというのではなく
あの曲はオペラのように声を張り上げ、
多くの聴衆の前で歌う曲ではないように思えるのだ
むしろ少人数、いやたった一人に向かって歌う曲ではないのか
詩自体もメッセージ性はあっても、一気に多数の人間に訴えかけるものではなく
一人一人の心の中に静かに入っていけば良いようなものに思える
メロディーも詩も歌い上げる曲ではないのだ
これはシューベルトとプッチーニの違いのように思える
片方はリートで心の機微を繊細に表現し
片方はドラマティックに熱情、感情を吐露する
どちらがいいというのでなく
そうした違いがあるということで
自分は「千の風になって」はボソッと個人間に伝わればいいと思っている

話は変わって、ジョン・レノンの「イマジン」
これは平和の象徴として歌われるが、この曲は果たして
多く人が一緒に歌うのに適しているのだろうか
メロディーラインはそうではないように思える
この曲も個人的なメッセージなので大げさに歌わない方がいいと思える
大勢で歌うというのはポールの「ヘイ ジュード」みたいな曲だ
歌っていて楽しくなるような曲、効果が上がる曲が多数で歌うには適しているように思うのだ

勿論、音楽はいろんな解釈があっていいのだし
どんな表現をしてもいいのだが、
それでも大きな声で
「私のお墓の、、、、」
なんて歌われるのが変に思えてしまうのは
自分だけなのだろうか?
コメント
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