パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

グリコ森永事件とシュートを撃たない日本人

2011年07月31日 20時58分04秒 | Weblog

昨日と一昨日、NHK総合でグリコ森永事件のスペシャル番組がオンエアされた

劇場型犯罪のはしりのこの事件が未解決に終わったことで

その後の日本全体の失望感、閉塞感が加速したと番組中に述べられていたが

それ以前に未解決に終わる要素はいくらでもあるような気がした

 

あくまでも素人の見方でしかないが

警察官の横の関係、大阪府警と県警の連携の悪さ

現場を知らない上層部の判断以外にも理由はもっとありそう

ホント何やら怒りがこみ上げてきた

それは組織がうまくいっていないからではなくて

現場が判断をしない(できない)という姿勢について

と言っていいかもしれない

 

現場で職務質問をしなかった

一番最前線にいる人間が足を踏み出せずにいる

似顔絵の男、不審な男が目の前にいるのに

規則に縛られて、、、結局見失うことになる

自分がその場にいたら同じような判断をしていたかもしれないが

(今回の震災の時の運搬、救助でも自己判断はできない事は少なくなかった)

 

警察官にとってスタンドプレーはあってはならないことなのだろうか?

個々の判断を要求するのは民放の警察番組を見過ぎのせいなのか?

 

しかし、この自分では判断をしない

責任は誰か別の人が(それが一体誰かは実は誰もわからないが)負うという思考パターン

これこそが一番の問題点ではないのか

 

サッカーでもシュートを撃たないFW

リスクを負わないチーム

失敗を異常に恐れる公務員

誰か難しい問題や面倒なことは他の人が(国会議員)やってくれて

自分らは監視するだけ、、、

この姿勢は、当たり前とする組織の中では徐々にその異様さは

感じなくなっていく

 

規則は守るべきもの

しかし、その前に判断力を持った人間であるべき

その判断が間違わないために、どれだけの自己鍛錬が必要か?

 

シンドラーも杉原千畝も規則だけを守った人間か

 

つまり未解決事件の根は深い

組織運営の問題だけで解決しない

要は人間一人一人が本当に人間として責任をもって判断をする

そうした訓練(教育、指導)がなされない限りは

依然として同じようなことの繰り返しに終始しそうな気がするが

農耕民族の日本人には難しい事なのだろうか

 

コメント (1)
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