パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

人間というリスク

2013年11月07日 19時23分20秒 | あれこれ考えること
予想したとおり、出てくる出てくる食品の偽装表示
これらはこれもまた予想通りホテル・旅館に限ったことではなかった
思うに識者が解説するような業界体質なんてものではなく
人間の不完全さから導き出される結果でしかないような気もする

つまり人間はどんなに完璧な法体系やシステムをつくっても
必ずそれに従わない数%の人々が存在する

それは面倒だから従わないのか、
自分にとって儲からないから(利益がないから)従わないのか
それとも生物としての人間に予め組み込まれたプログラムにより
従わないように(サボるように)なっているのか
そのところは分からないが、とにかく現実として
必ず例外は存在する

完璧と思われるシステムはそれを善意で守るということが
前提になっているが、そこのところが生物としての人間
(感情のある生物としての人間)が行うのは多分確率的に
無理だと思えて仕方ない

何々をしないために罰則の様な一種の保険をかけても
何十にチェック機関を設けても、やはり人間は間違いを犯す
どんな優秀な人の集まりでも、どういう訳か起きる

そこで話は飛んで原発に移ると
実は一番怖いのは「人間というリスク」ではないかと思ってしまう
耐震強度や津波に耐える物理的なものよりも
そこに関わる人間が完璧でないかもしれないというリスク
例えば耐震強度にしたって、きちんと工事を実行していることが前提となるし
津波にしたって同じことが言える
緊急時に的確な判断ができるかどうかも怪しいし
避難する人間が多ければ多いほど
まとまって正しい行動の可能性は低くなるのではないのか

また正確に伝えるべき報道についても
意識的に正しい報道をしない可能性
また震災直後に見られた報道陣と技術者のちぐはぐなやりとり
(報道陣は技術的な知識がなく、技術者は的確な説明能力がない)
まだまだ考えれば、いろんな状況で人間に関わる危険性がいたるところにある

そうなると、実際のところ原発は人間の手に負えないのではないか
と思ってしまう
たしかにピラミッド・万里の長城・モン・サン・ミッシェルなど人間の
可能性は無限のように思えないこともない
しかし、自然は想定外の危機をいとも簡単に気まぐれに発生させる
それは人間の想定ということをあざ笑うかのよう

組織は純粋培養されたような(皆が勤勉で決まりを守って向上心に富んだ)
完璧な形を求めるが、言葉の上ではそれが表現されることがあっても
現実は難しいのではないか
そもそも、そんな組織は想像するに息苦しそう

優秀な人材を集めれな、理念を共有すれば確率として
ある組織は短期的にはうまういくかもしれない
しかし、そんな中にも始めはそうでなかったのに
いつか例外の存在は発生するのではないか

以前「働かないアリに理由がある」
という本を読んだが、人間も集団になれば
必ず働かない人間が出てくる
(善悪はべつとして、何故なら悪とされる人はそのときが来れば
 まともに働く可能性がある)
問題は、こうした不完全な存在である人間の集団を
完璧な理想とすべき存在と仮定していること

つまり完璧な組織とは(原発の安全性確保実施組織)
ハンドルの遊びのない人間組織を前提としている
だが、それははっきり言って無理

だから、原発の安全性についてどんな策を講じようと
人間のリスクは絶対なくならない
そしてこれが一番怖い

どうしても今の自分は人間の可能性に関して
楽観的に見ることができないでいる
それが杞憂であればいいのだが




コメント
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