吉田秀和氏の文章が好きだった
一番接することがあったのはレコード・CDの新譜の感想だったが
他の評論家と違って自分が感じたことを定番的な文章
(精神的な音楽とかいぶし銀の音色など)は使わずに
何よりも自分の感じたことを自分の文章で紹介されていて
それが心地よかった
以前は吉田秀和氏の文章は理知的と言うより
感覚的な面に特徴のある人の印象を持っていたが
最近本棚にある本、「ベートーヴェンのを求めて」
とか「全集1」「音楽の旅、絵の旅」を読み返して
それまでの印象とは全く異なることに驚いた
感覚的どころかひどく理知的なのだ
ただしそれが高邁な一人よがりの表現にならず
誰にでもわかりやすく表現されている
ものすごい知識と教養をそれと感じさせない文章で語られている
彼の得意とするところは何よりも音楽に関することだけれど
音楽を音楽以外の手段を使って表現するのは難しい
だから他の人は容易に「精神的な~」などという表現を使ってしまい勝ちに
なるのだろうけれど、吉田秀和氏は音楽は音楽の言葉、楽譜を用いて
その作曲的な秘密・演奏のエッセンスを紹介している
時に感覚的な表現を用いることがあっても
実体験に基づいているために他人でも共感しやすいものとなっている
日本の評論家の大家 小林秀雄の作品に「モーツァルト」があるが
なるほど評論というのはこういう分野なのか、随分理屈っぽい賢い人
と思う反面若干の違和感があった
その原因は、小林秀雄はことモーツァルトに関しては
それほど音楽を聴いていないのではないか
ということ
彼のモーツァルトにの接し方はスタンダールとかアンリ・ゲオン
ゲーテからであって直接の音楽体験はさほど多くなかったのではないか
一方、吉田秀和氏のモーツァルトに関するものは
圧倒的な量の音楽体験から出発している
そしていくつになっても失わない柔らかな感性
本当にいつまでもあのような子どものような(?)
感性を持ち続けることは難しい
最近読んだ吉田秀和氏の文章にこんなのがあった
「人の作った音楽を歌ったり、演奏したり、きいたりするというのは
モーツァルトや何かと話をしているのであり
自分では発見できない、いろいろな美しい話をきかされたり
何かしている間に、自分がより自由になり、大きくなり、あるいは軽くなり、
たとえ自分では気づかない場合があるにしても、相手といっしょになって、
それまでなかった一つの新しいものを経験することにほかならない」
こうした柔らかな、本質をついた(と自分には感じられる)文章
現在の日本にこれほどの教養と知性を持った全人格的な
知識人が存在するのだろうか
こうした人の不在が、今の日本の余裕のない世界を
加速させているような気がしてならない
一番接することがあったのはレコード・CDの新譜の感想だったが
他の評論家と違って自分が感じたことを定番的な文章
(精神的な音楽とかいぶし銀の音色など)は使わずに
何よりも自分の感じたことを自分の文章で紹介されていて
それが心地よかった
以前は吉田秀和氏の文章は理知的と言うより
感覚的な面に特徴のある人の印象を持っていたが
最近本棚にある本、「ベートーヴェンのを求めて」
とか「全集1」「音楽の旅、絵の旅」を読み返して
それまでの印象とは全く異なることに驚いた
感覚的どころかひどく理知的なのだ
ただしそれが高邁な一人よがりの表現にならず
誰にでもわかりやすく表現されている
ものすごい知識と教養をそれと感じさせない文章で語られている
彼の得意とするところは何よりも音楽に関することだけれど
音楽を音楽以外の手段を使って表現するのは難しい
だから他の人は容易に「精神的な~」などという表現を使ってしまい勝ちに
なるのだろうけれど、吉田秀和氏は音楽は音楽の言葉、楽譜を用いて
その作曲的な秘密・演奏のエッセンスを紹介している
時に感覚的な表現を用いることがあっても
実体験に基づいているために他人でも共感しやすいものとなっている
日本の評論家の大家 小林秀雄の作品に「モーツァルト」があるが
なるほど評論というのはこういう分野なのか、随分理屈っぽい賢い人
と思う反面若干の違和感があった
その原因は、小林秀雄はことモーツァルトに関しては
それほど音楽を聴いていないのではないか
ということ
彼のモーツァルトにの接し方はスタンダールとかアンリ・ゲオン
ゲーテからであって直接の音楽体験はさほど多くなかったのではないか
一方、吉田秀和氏のモーツァルトに関するものは
圧倒的な量の音楽体験から出発している
そしていくつになっても失わない柔らかな感性
本当にいつまでもあのような子どものような(?)
感性を持ち続けることは難しい
最近読んだ吉田秀和氏の文章にこんなのがあった
「人の作った音楽を歌ったり、演奏したり、きいたりするというのは
モーツァルトや何かと話をしているのであり
自分では発見できない、いろいろな美しい話をきかされたり
何かしている間に、自分がより自由になり、大きくなり、あるいは軽くなり、
たとえ自分では気づかない場合があるにしても、相手といっしょになって、
それまでなかった一つの新しいものを経験することにほかならない」
こうした柔らかな、本質をついた(と自分には感じられる)文章
現在の日本にこれほどの教養と知性を持った全人格的な
知識人が存在するのだろうか
こうした人の不在が、今の日本の余裕のない世界を
加速させているような気がしてならない