川内原発の住民説明会の様子がテレビニュースで放送された
画面から聞こえたのは、
「反対の意見を述べる場所ではなりません」
「質問は一人一つに限らせていただきます」の声
なるほど、説明会という趣旨からすれば当然の様に響く
しかし、これは討論とかこの手の段取りに慣れた人の発想
普通の市民感情からすれば、説明会とは一方的に話を
聞くだけのものとは思っていないに違いない
そして、一人一つの質問も的確な主催者を困らせるような
質問を素人が出来たのかは大いに疑問
主催者はどんな質問が来ても準備万端
なんとでも答えることができるようになっている
しかし、予め打ち合わせなどをしていない(?)住民の方々は
単発で感情優先の話で具体的な質問が出なかったのでは
と思ってしまう
この手の説明会を真っ当にするには
反対意見を持つ人が相手の急所となる質問を
するだけの知識を有していて
なおかつ、それが連続して行けるようにすること
住民説明会はとにかく実施したという事実だけが
欲しいものだったのではないか
いつ起こるかわからないものに対して
だからその行動を慎めというのは
話になるようなものではない
こんな趣旨のことを原発推進派の人は述べていた
しかし、問題は実はそこにあるのも事実
火山は安全としたその根拠は何処になるのだろうか
確率が何万分の一だったとしても
その一が起きてしまったら
予想ができなかったのは当事者の責任ではない
では済まされない
どのようにして安全性を確保していくか
それが科学的な考え方のように思われているが
実は先のことはわからないというのが
最近の天災の連続から思い知らされた事実
だから今度は科学の問題ではなく
人としての生き方の選択の問題
ここがどうも充分に徹底して行われていない
電力不足の弊害と人として生きていく権利を
同等に扱ってはならない
そんな裁判が出たはずなのに、電力がなければ
生活は破綻する
だから現状は現実的な方法として原発の再稼働を行っていく
しかし、生活が困っても原発を望まないという
選択肢を国民が持つかもしれない
もちろん、その反対の人も少なからずいるだろう
だから原発については国民投票をすべきではないのか
いろんな意見が出てきて、結局国民が選んだ道が
どうなのか?
代議士は国民が選んだのだからその代議士の選択は
国民の意見を反映している
と言いそうだが、実は選ばれてしまったら最後
代議士は国民の方を向いているというより
もっと別の方向を向いている
ところで、説明会の質問
事が起きたら、誰が責任を取るのか
そしてどのような責任のとり方をするのか
そんなことを聞いた人はいたのだろうか?
この国は誰も責任を取らない
責任逃れができるシステムになっている
いい格好しいで戦争を起こしたって政治家は
誰も責任を取らない
と言ったのは「永久平和のために」の中での
カントのことば
これがそのまま状況下でも通用しそうなことは
容易に想像がつく
なんだろう
自然に対する畏怖とか
本当の幸せとな何かを考えることなく
一方向に強気で進むことが科学的だったり
人間の可能性を切り開く素晴らしきもの
と考えてしまうのは、本当に科学的なのだろうか
画面から聞こえたのは、
「反対の意見を述べる場所ではなりません」
「質問は一人一つに限らせていただきます」の声
なるほど、説明会という趣旨からすれば当然の様に響く
しかし、これは討論とかこの手の段取りに慣れた人の発想
普通の市民感情からすれば、説明会とは一方的に話を
聞くだけのものとは思っていないに違いない
そして、一人一つの質問も的確な主催者を困らせるような
質問を素人が出来たのかは大いに疑問
主催者はどんな質問が来ても準備万端
なんとでも答えることができるようになっている
しかし、予め打ち合わせなどをしていない(?)住民の方々は
単発で感情優先の話で具体的な質問が出なかったのでは
と思ってしまう
この手の説明会を真っ当にするには
反対意見を持つ人が相手の急所となる質問を
するだけの知識を有していて
なおかつ、それが連続して行けるようにすること
住民説明会はとにかく実施したという事実だけが
欲しいものだったのではないか
いつ起こるかわからないものに対して
だからその行動を慎めというのは
話になるようなものではない
こんな趣旨のことを原発推進派の人は述べていた
しかし、問題は実はそこにあるのも事実
火山は安全としたその根拠は何処になるのだろうか
確率が何万分の一だったとしても
その一が起きてしまったら
予想ができなかったのは当事者の責任ではない
では済まされない
どのようにして安全性を確保していくか
それが科学的な考え方のように思われているが
実は先のことはわからないというのが
最近の天災の連続から思い知らされた事実
だから今度は科学の問題ではなく
人としての生き方の選択の問題
ここがどうも充分に徹底して行われていない
電力不足の弊害と人として生きていく権利を
同等に扱ってはならない
そんな裁判が出たはずなのに、電力がなければ
生活は破綻する
だから現状は現実的な方法として原発の再稼働を行っていく
しかし、生活が困っても原発を望まないという
選択肢を国民が持つかもしれない
もちろん、その反対の人も少なからずいるだろう
だから原発については国民投票をすべきではないのか
いろんな意見が出てきて、結局国民が選んだ道が
どうなのか?
代議士は国民が選んだのだからその代議士の選択は
国民の意見を反映している
と言いそうだが、実は選ばれてしまったら最後
代議士は国民の方を向いているというより
もっと別の方向を向いている
ところで、説明会の質問
事が起きたら、誰が責任を取るのか
そしてどのような責任のとり方をするのか
そんなことを聞いた人はいたのだろうか?
この国は誰も責任を取らない
責任逃れができるシステムになっている
いい格好しいで戦争を起こしたって政治家は
誰も責任を取らない
と言ったのは「永久平和のために」の中での
カントのことば
これがそのまま状況下でも通用しそうなことは
容易に想像がつく
なんだろう
自然に対する畏怖とか
本当の幸せとな何かを考えることなく
一方向に強気で進むことが科学的だったり
人間の可能性を切り開く素晴らしきもの
と考えてしまうのは、本当に科学的なのだろうか