パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

フルトヴェングラーのレコード

2017年11月06日 10時06分25秒 | 音楽

音楽は聞き流すのもいいけれど、気合を入れて聴き込むのもいい
最近は車に乗っている時以外は、気合を入れて聴くほうが「元は取れる」などと
貧乏性丸出しの感覚でいる
音楽ソフトの値段分を楽しむには、絶対気合を入れた方が耳に入る情報量が多く
それに触発される想像力も活発化される
これはクラシック音楽に限らずジャズもロックも、多分ポップスも歌謡曲にも言える(と思う)

しかし、そうは言ってもなかなか気合を入れて聴くテンションにならないのが現実
だから、その気分になった時はそれこそ、大儲け!と思い込んでスピーカの前に鎮座する
昨日、久々にそんな気分になって取り出したのがフルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの「エロイカ」

フルトヴェングラーマニアの人なら、この1952年のスタジオ録音のではなくて1944年の壮絶なライブを
第一のおすすめとするところだろうが、自分にとってはこの疑似ステレオの赤いレコードは
フルトヴェングラーの最初に購入したレコードで高校時代の思い出につながる

その時、運命ほど知っていなかったこの曲を聴いていたが、つい睡魔に襲われた 
なんかあまり面白くないぞ、、退屈、、、そんな気分でいたと思う
しかし、ある瞬間、その睡魔の中なのか現実の中なのか、あの有名なエロイカのテーマが
ソナタ形式の展開部とはこういうものだ、、と音楽が感情のなかにストレートに入り込んできた
エロイカのテーマは巨人が歩くように(ロマン・ロランの言うように)またある時は幻想的に
そしてこれは単なる音楽体験ではすまない予感に襲われて、一気に目を覚まし聴き終えた 

この体験はとても印象深く、再び聴いてガッカリしたら損なような気がして
しばらくは聴けずにいたし、聴くなら気分が盛り上がったときしか聴くまいと決めていた
それがようやく聴く気になって、本当に何十年ぶりに聴いた

フルトヴェングラーの演奏を聴いたあとはいつも自然に出る言葉がある
「すげーなー」がそれだ
ベートーヴェンの5番も7番も9番も、ブルックナーの8番もシューマンの4番も
シューベルトのグレイトも、トリスタンも聴いたあとは「すげーなー」」となる
そして昨日もやはり「すげーなー」」がでた
何が凄いのか、実はよくわからない、、、でも、その音の中にとても中身の濃い
ドラマというのとは少し違うが必然の流れとか、感情の深さとか、始まってしまったら
流れていくだけの音楽とか、奏者の必死でそれでいてとても幸せな瞬間とか 
そうしたものが一緒くたになって全体としての体験が襲ってくる

こんな気分になれた時は、もっと味わなければもったいない、、ということで
少し押し付けがましくて遠慮したい音楽「5番」の運命をレコード棚から引っ張り出した
1947年のベルリン・フィルライブ
1952年のスタジオ録音のウィーンフィルのも持っているが昨日はこちらではなく
ベルリン・フィルの方を聞きたい気分だった(この演奏の間のとり方を味わいたくて)
ベルリン・フィルの音は暗く重い
自ら音を出しているわけでないのに、指揮者は何故気合の入ったとしか思えないような
音の塊を作り出すことができるのか、、とても不思議だ
フルトヴェングラーの指揮する弦楽の音、緊張感を含んだ深い音、それは今の時代にはもう
再現できない音なのかもしれない
楽譜に書いてあるとおり、見晴らしがよく全ての音が聞こえるような音響
そししたものに多少感情的な好みのニュアンスが追加される
それらの今風の音とは何かが違う
もっと真正面から勝負しているような、身を削っているような、あるいは特別の人間にしか
与えられない力を発揮してるような、、

ということで、、エロイカと運命の大曲を続けて聴いたのだが、
何故か少しも長いと感じなかった
しかし確かに何かを体験したという感じ
カラマーゾフの兄弟を読んだとか全体主義の起源を読んだ時の様な
何かが心のなかに残るような感覚、、
でも、これらはまったく個人的な感覚で多分一般化出来ない
それでもこの感覚を持てるってことは、とても幸せなこと(と思う)
 

コメント
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