パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

不信感と不安感

2017年11月19日 08時44分35秒 | あれこれ考えること

最近感じること、それは「法に則って」ということが額面通りに信じられないことだ
この場合の法とは、法の中身というよりは、運用する場合の過程が決めた方法に準じているだけで
その法の中身がどうなのかはかなり怪しい

最近の例では森友学園の交渉過程の記録が、ものによっては(それに該当するか問題だが)
一年以内に消去して良いとされて、それでもって「法に則って」行動していると
官僚さんたちは苦しい答弁を繰り返し、その結果本質につながる追求はできなくなっている 

新城市の例で言えば産廃業認可申請のプロセスでこの問題が起きている
そもそも認可申請の書類に記されていることが実効性があるのか(悪臭防止について)
それが地元関係者の方々が独自の調査によれば、かなり怪しいので追求すると
あまり答えになっていない(説得力のない)答えが返ってくるだけ
例えば悪臭防止の肝となるロックウールの性能については、下水汚泥についての実績がなく
また設備の絶対量も不足していると考えられるとしても、返ってくるのは
メーカーからの少し不安げな印象の残る返答で、結果的に操業が始まってからは
悪臭を感じることになって、この性能保証は信用できないものとなっている
悪臭についてはロックウールの問題だけでなく施設の密閉性も問題となっているが
これも事前に不安視されたことなのだが現実に起きてしまっている
「法的に問題はない」と結論が出されたが、これは正確には「手続きに」の言葉が最初につくはずだ
内容については曖昧なところがあるが、手続きには問題がない、それでもって「法的に問題はない」とされた
しかし現実には懸念したとおりの問題が起きている
こうした場合、違っているのは何か、、そもそも法自体がおかしいのではないのか
となるのだが、ここで大きな壁となるのが「行政の無謬性」
つまり「行政は間違いをしない 」という考え方と、もう一つ「誰に責任が有るか不明」なことだ
話がややこしい段階まで来ると、自然と組織防衛の機能が働くようになる
そして責任と言うものがどこにあるのか曖昧にされる
官僚や職員、政治屋さん以外の庶民の普通の感覚からすれば、どう考えても納得出来ないことが
よくわからない抽象化された言葉でもって曖昧にされ、そのお墨付きとして「法に則って」の言葉が添えられる

話は変わって、最近、小難しい本ばかり読んでいたので気分転換に少しばかり生々しいノンフィクションを読んだ
「Black Box」伊藤詩織氏の実体験の勇気ある告発本だ
元TBS社員の山口氏のレイプの内容うんぬんは別にして
(今日の話の関連からすると)ここでも「法」と言うものは随分いい加減なものと感じざるを得ない
密室で起きたこと、その事件の実証性のなんと難しいことか(その際の聞き取りの配慮のなさも問題)
それは「疑わしきは罰せず」の方針とは少し違う印象を受ける
むしろ時代に合わせて変えるべき点も面倒だから変えずにいて、
それでいて「法に則って」と結論づけたいような、、、
「疑わしきは罰せず、、」この理屈が十分に世の中にまかり通っているのなら
なぜ冤罪事件はこんなにも多く存在するのだろう

「法に則って」この一言への不信感
少しばかり知恵がついてくると(?)いろんなことが素直に信じられなくなる
この不信感は「法」だけでなく最近は「メディア」にも向けられる
不信感がまるで通奏低音のように響き、それが漠然とした不安感に結びついている
漠然と感じる不安感、、それは年齢のせいだけではないと思うのだが

 

 

コメント
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