パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「アッシジの聖フランチェスコ」(全曲)びわ湖ホール

2017年11月25日 17時59分53秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

11月23日の勤労感謝の日、滋賀県びわ湖ホールに出かけた
目的は、これ

オリヴィエ・メシアンの大作「アッシジの聖フランチェスコ」の全曲日本初演を聴くためだ
(正確には東京で初演は済んでいる)
13時スタートで18時30分が終演予定となっている長い作品だ
実はこの曲の小澤征爾が指揮したCDはもっているが、最後まで聴けずにいる
スピーカーを前にしての数時間は今の自分の集中力からすると、とても無理なので
いっそ現場で聴いてしまえと思い立って出かけたのだ

この曲の楽しみ、というかメシアンの音楽を聴く楽しみは「鳥のさえずり(音楽)」が聴けることだ
メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」も「クロノクロミー」も「峡谷から星たちへ」も「鳥のカタログ」も
鳥が主役になっている部分がとても気持ちがいい
この曲の冒頭もマリンバが鳥たちのおしゃべりを連想させるフレーズを繰り返す
それだけで自分はいい気持ちになるのだが、ちょっと気が進まない部分もあるのも事実
金管の荘重な「メシアントーン」のような部分は、ワンパターン化していて
(それ故にキリスト教の何かを示しているのかもしれないが)これはCDで聴いていても
退屈さを感じてしまう
現代音楽という分野に属するこの音楽技術の面ではリズム・色彩・旋法・クラスターなど
素人にはわかりにくく難しいことに取り組んでいるらしいが、そういう難しい話は横において
今回はひたすら鳥の音楽を聴くつもりで足を運んだ

当然のことながら鳥の鳴き声が出るところは無条件に楽しめた
難しく考えることも、無理やり集中することもなく、ただ浴びるように鳥の音楽を体感するだけ
それだけで十分なのだが、それでも生を聴いていると、それ以外にほっといてもいろんなことが思い浮かぶ 
多分これがフランチェスコのモチーフなんだろうと思われる旋律が何度か現れて、その色彩も表情も
登場する度に変わっているが、これはヴァーグナーのライトモチーフの応用かな、、
だとしたらヴァーグナーのほうがリアルで生々しいな、、とか
メシアンの以前の作品「トゥーランガリラ交響曲」で使われた金管のテーマが出てきたようで、
これは何の意味だったのだったろうかとか、
また一幕の終わり部分では皮膚病患者に口づけをする時に 「トゥーランガリラ交響曲」の「愛のまどろみ」の
絶妙なハーモニーが出てきてうっとりしたり、、、
大編成のオーケストラに大規模のコーラスも舞台上に並んでいるがコーラスは歌詞を歌うというよりは
音楽の陰影とか空気・雰囲気を呼び起こすものとして使われていて効果的だな、、とか

昨日は京都に紅葉狩りで音楽のことは少し頭から離れてしまったが
2日経った今日(11月25日)の時点で忘れずにいるところを抜き出すと
2幕では天使のノックの部分がストラヴィンスキーの「春の祭典 」のように聴こえた
ベートーヴェンの田園の雷のような音楽的というよりは騒音に近い
そして現代の大音量のロックに近い印象で、これがまさしく現代音楽ということを彷彿とさせた
この騒音に近い「春の祭典」のような音楽は三幕でも再現され、この時は「春の祭典」ではなく
ブルックナーの9番の交響曲の第2楽章のスケルツォが頭に浮かんだし、そのことでブルックナーは
現代的な音楽なのかもしれない、、とブルックナー大好き人間は想像してしまった 
この日の圧巻は、鳥の音楽が聴きたかった自分が満足した「鳥に説教する聖フランチェスコ」の部分で
クロノクロミーみたいに数分間にわたって鳥のさえずりが延々と続き
音符で書くと多分とっても複雑な楽譜になっているだろうが、音にしてみると(自分の耳には)心地よく感じられた
この部分はメシアンの鳥に対する告白とか愛みたいなものに違いない、、と頭に浮かんだ
そしてメシアンのもう一つの愛の対象は「キリスト教」
自分は少しばかり教会に通ったことがあるが、結局キリスト教徒になれなかったので
この様に無条件に受け入れることが出来ない
だから聖書の言葉も天使のメッセージも思い込みの世界のひとつ、、なんだろう、、と
一歩引いたところに立場を確保したが、それでもメシアンの真剣さ・ひたむきさにはうたれるものがあった
このオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」はマタイ受難曲よりも切実な「パルジファル」よりも
儀式に近い祭典音楽のように感じられた(音楽体験というよりは儀式・祭典として演奏される方が良いかもしれない)

そうだ、もう一つ思い出した
第一幕の最後の天上のコーラスみたいなところ、まるでパルジファルみたいだった

実は始まる前は、楽しみにしていたものの寝てしまうのではないかと心配していた
鳥の歌以外のレシタティーヴォのような会話の交換
パターン化した金管の荘重な響きは、もしかしたら長いことは耐えられないかもしれないと思ったのだ
だが、さすがライブのなせる技  その心配は無用となった
退屈しなかったことの他にもう一つ気づいたこと、それはびわ湖ホールの椅子は
長いこと座っていてもお尻が痛くならないことだ
10月に「神々の黄昏」を見た(聴いた)新国立劇場は途中でお尻が痛くなって
姿勢を時々変えたくなったが、今回はそんなことはなかった 

それからもう一つ、熱心なキリスト教徒であったメシアンは最後は「神の栄光」を
なんとしてもフォルテで表現したかったに違いないと感じたが
そこから連想は羽ばたいて自分の大好きなブルックナーも最後は「愛する神に」
フォルテで肯定的に終えたいと思ったのだろうと根拠のない連想をしてしまった

ところで、びわ湖ホールで配られたチラシに来年「ワルキューレ」が上演されるとあった
これで味をしめて、足を運ぶ、、ってことになってしまう、、かな
「ワルキューレ」より「トリスタンとイゾルデ」か「パルジファル」の方が良いのだが 

 

コメント
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