楽しい話題を扱おうとしても、気になっているのは気の滅入ることばかりで
人は少なからず社会の雰囲気の影響を受けているものだと実感する
後で振り返って、あのとき何を感じていたのかを確認するには
その時を支配していた気分を、投稿の数とか内容で判断するのが良いかもしれない
最近のここは割と真面目な内容が続く
民主主義の問題とか資本主義の問題とか、少しばかり手に負えない問題と思いつつも
何かを必死に(?)求めるような感じで本を読んだり考えたりする
オリンピックが近づくにつれテレビではスポンサーー企業のCMが流れ始めた
アスリート主役のみんなが応援しているといった内容で、CMだけでなく番組も
アスリートの個人的な感情生活に踏み込んだ情に訴えるものが多い気がする
しかし、それを受け取る側の気分は、少なくとも自分は整理できない感情を覚える
(スポンサーや番組は好感を得ることに成功しているのだろうか)
アスリートに怒っても仕方ないが、何故か彼らさえも場違いなことをしている人たち
と思えてしまいそうになるのだ
彼らの一生をかけた思いとか努力は認める
しかし、それとみんなが一緒になってクリアして行かなけれなならない問題は別だ
果たしてアスリート周辺の方々の思いで物事を進めてしまって良いのだろうか
アスリートさえも社会の人間の一人のはず
一人の人間としてあるべき姿は、、、と追求したくなってしまう
ところが、そう簡単に区別しきれなかった問題が自分にもある
カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者フルトヴェングラーの生き方だ
彼は大戦中ドイツ国内にとどまった
それどころかヒトラーの前でオーケストラを指揮した
そうした客観的な事実から人道的なトーマス・マンはフルトヴェングラーを批判した
フルトヴェングラーの考えがどうであろうと、芸術至上主義のような生き方は
その時代になすべきこととは大きく異なっている、、それがトーマス・マンの言い分だ
だたフルトヴェングラーは単に芸術至上主義者だけではなかった
ベルリン・フィルにいたユダヤ系の演奏者を守ったり、ユダヤ系の作曲家の音楽を
あえて挑戦的に演奏した
指揮者としての彼にはどうしても聴いてくれる人々が必要だった
演奏は指揮者とオーケストラだけで成り立つものではなく
聴衆の演奏への参加があって成り立つものと考えていて、
指揮者の意図を読み取れるのは同じ心情的な傾向を持つドイツ国民と考えていた
それに音楽を求める国民性のドイツ人が音楽を聞けない状況では
彼が中心となってその状況をつくるのも自分のなすべきことと考えた
(それはヒトラーの前であったとしても)
記録フィルムに写る彼の演奏を聴き入る人々の表情は、音楽を楽しむというものではない
必死に何かを求めているような表情だ
フルトヴェングラーはそうした使命感を持っていても、彼の内部は整理しきれない苦悩を抱えていた
(それは音に現れる)
指揮者の音というのは不思議だ
かれは自分で楽器を演奏するわけではない
彼はただ指揮するだけだ
しかしその音は人によって違うどころか、同じ指揮者でも日によって随分違う
フルトヴェングラーの戦時中の演奏にベートーヴェンの「コリオラン序曲」がある
これは壮絶な演奏で、苦しくて一度しか聴いていない(聴く気分になれない)
冒頭の和音は単に音楽的な和音にとどまっていない
怒り、悲しみ、悲劇、そうした行き場のないものが一緒くたになってこちらに訴えてくる
その音はフルトヴェングラーが苦悩していると感じさせるもので、曲の構成というよりは
フルトヴェングラーの心情が見えるような気がした
そしてそれがあまりにも辛いので、聴けないでいるのだ
オリンピックアスリートとフルトヴェングラーは同じ立場なのかもしれない
どうしても大好きなフルトヴェングラーの肩を持ちたい自分は
常識的なトーマス・マンの批判に対する反論を考え出したくなる
だが、それは容易に見つからない
結局はフルトヴェングラーもアスリートも犠牲者なのだと思う
彼ら個人ではなんともできない大きな渦の中の、、
以上は多少ロマンチティックな結論だが、人は何かを考える前には何かを感じる
その感じ方はその人の生きてきた過程を反映しているので人それぞれだ
何かを決めるということは、全人格的な要素が必要だと思う
今一番それらが要求される人々に全人格的な資格があるか、、
そう問うてみると、一気に不安が募る
しかし、その人達を選んだのは自分たち、、、
この部分がいつまで経ってもスッキリしないところだ
全ては永遠に未完であるとしても、もう少し良いものにならないものか
と切に思う