パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「悩みからの開放」は「自由からの逃走」

2022年07月15日 10時17分02秒 | あれこれ考えること

(キリストの)受難のことをパッションという
マタイ受難曲はドイツ語ではMatthäus-Passionと表現する
パッションは情熱の意味もありそうなので
どうしてそれが同じ意味となるのか不思議なところだが
あんな行動はパッションがないとできないということなのだろうか

昔、日曜日にキリスト教の教会に行ったことがある
別に信者ではなく、ただ単にバッハの音楽をより理解するために
行ったようなもので、時々歌われる聖歌が楽しかった

聖書の一部を読んで牧師さんが解説をする
そんなことが行われたと今は記憶しているが
変わり者の自分は少しづつついていけなくなった

多分、一番のポイントであるキリストは人類の身代わりになって
亡くなったとするところに、納得できなかったと思う
確かに痛いとか苦しいとか、、壮絶な経験をしたのだと思う
でも、自分は代わりになどなってほしいとは思わなかった
そして、それによって彼を信じることですべてがクリアされるのは
逆に、そこから抜け出せなくなると思ってしまった
これらは新興宗教だけでなく、既存の宗教にも存在する怖い点だ

確かにマタイ受難曲を聴いていると心が震える
民衆の嘆きもキリストの「なぜ、私を見捨てるのか?」
の最後の発言も冷静ではいられない
でもそれは音楽の上のことだ(自分にとって)

身変わりになどなってほしくない
自分のことは自分でケリをつけなきゃだめだ
とあの頃の自分が思ったことを覚えている
これは現在言われるような自己責任論とは違う
すべてを個人の問題とするのではなくて、現実にあるのは
社会的な要素があるはずで、その社会的な問題を自己が活動して、
その上で(内的な)責任を取るという意味を含んでいる

だがそれは楽なことではない
ここで思い出すのがヘッセの「シッダールタ」だ
この物語はブッダの教えの解釈者とか伝道者(友人のように)になるのではなく
むしろブッダのたどった経験を追体験するような
言い換えるとブッダ自身に同化するような物語で
最後に至った境地は多少ロマンティックだが、涙なしには読み終えられない

ここ数日、統一教会のニュースが多く流れている
なんであんなものに取り込まれてしまうのか?
と思う人のほうが多いと思われるが
今朝の玉川氏の「悩みからの開放」を求める心が根本にある
とするのは、よく分かる
これは言葉を変えると「自由からの逃走」となる

人との対話は情報量も多くなって、独りよがりを防ぐ効果がある
だが同じように、自分との対話もそれに劣らず必要だと思う
最近は、悩みなどは一生解決することはない!と開き直っている
むしろそれをウジウジと悩むのも生きてる楽しみと考えるようになっている
(もっともコンディションがいい時だけかもしれないが)

最近、フト思うことを並べてみた(やっぱり変人かな)


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