近くだからいつでも行ける!
そんな理由で結局今まで行かなかったのが
新城富永神社の祭礼時の奉納能
もっとも自分は富永神社の氏子でなく
小学校の区割りも違っていたから
関心もなかったのかもしれない
しかし、新聞などでこの希少価値のある
素人の演ずるお能が紹介される度
一回は行かなくてはと思いつつ
延び延びになっていた
(文化会館で開催される薪能は
数回見に行ったことがあるが)
さて雨の心配のない金曜日のんびりと自転車で出かけた
つまらなかったらすぐ帰るつもりで
着いた時は狂言が終わるところ
それから長い休憩時間
神事が行われてその後でいよいよお能の始まり
最初は集中出来にくい
でもお能の音楽、笛・鼓の音は好きだな
決して音楽自体は説明的ではない
むしろ音階だけ、音を発しているだけ
静寂を切り裂くような笛
鼓も品の良い音色 叩く位置によって音色が随分変わる
そんなことを思いながら見ていると
徐々に耳も目も慣れてきて
何となく内容もわかり初めて来たような気さえする
演じれているのは「六浦」
お寺にある紅葉(もみじ)が一本だけ紅葉せずにいる
それを不思議に思った人がそのいわれを尋ねる
夜になるともみじの精が出てきて
ざっとそんな感じの内容を大雑把に理解した
ほんと最初は集中できずにいたが
終わる頃はライブの良さ
結構熱気も感じられて終わった時はホッとした感じ
正直なところ予想以上に面白かった
奉納するための舞台が神社に存在する
江戸時代から続いている
素人がずっと運営している
その一つ一つが凄いなと思いつつ
「能」そのものも非常に興味がわいた
能は説明過多ではなく
むしろ見る人の想像力を刺激するように
なっているようだ
こういった傾向は自分の好きなパターン
本が好きなのもこれと一緒
そこでまた思い出したのがバイロイト音楽祭
昔バイロイト詣でしたのはヴィーラント・ワーグナーの
真っ暗な動きのない演出による指輪を見ることができれば
と思ったのだが、その年はシェローの超現代的な解釈による
リアリズムに満ちた演出
(以後指輪は想像力を観客が駆使するというより
演出家の想像力に頼ることになったみたいで
興味が半減した)
それにしても能には興味は湧いた
その後すぐお能のチケットをネットで探した
割合定期的に行われているようだ
また機会を見つけていくことにしよう
そんな理由で結局今まで行かなかったのが
新城富永神社の祭礼時の奉納能
もっとも自分は富永神社の氏子でなく
小学校の区割りも違っていたから
関心もなかったのかもしれない
しかし、新聞などでこの希少価値のある
素人の演ずるお能が紹介される度
一回は行かなくてはと思いつつ
延び延びになっていた
(文化会館で開催される薪能は
数回見に行ったことがあるが)
さて雨の心配のない金曜日のんびりと自転車で出かけた
つまらなかったらすぐ帰るつもりで
着いた時は狂言が終わるところ
それから長い休憩時間
神事が行われてその後でいよいよお能の始まり
最初は集中出来にくい
でもお能の音楽、笛・鼓の音は好きだな
決して音楽自体は説明的ではない
むしろ音階だけ、音を発しているだけ
静寂を切り裂くような笛
鼓も品の良い音色 叩く位置によって音色が随分変わる
そんなことを思いながら見ていると
徐々に耳も目も慣れてきて
何となく内容もわかり初めて来たような気さえする
演じれているのは「六浦」
お寺にある紅葉(もみじ)が一本だけ紅葉せずにいる
それを不思議に思った人がそのいわれを尋ねる
夜になるともみじの精が出てきて
ざっとそんな感じの内容を大雑把に理解した
ほんと最初は集中できずにいたが
終わる頃はライブの良さ
結構熱気も感じられて終わった時はホッとした感じ
正直なところ予想以上に面白かった
奉納するための舞台が神社に存在する
江戸時代から続いている
素人がずっと運営している
その一つ一つが凄いなと思いつつ
「能」そのものも非常に興味がわいた
能は説明過多ではなく
むしろ見る人の想像力を刺激するように
なっているようだ
こういった傾向は自分の好きなパターン
本が好きなのもこれと一緒
そこでまた思い出したのがバイロイト音楽祭
昔バイロイト詣でしたのはヴィーラント・ワーグナーの
真っ暗な動きのない演出による指輪を見ることができれば
と思ったのだが、その年はシェローの超現代的な解釈による
リアリズムに満ちた演出
(以後指輪は想像力を観客が駆使するというより
演出家の想像力に頼ることになったみたいで
興味が半減した)
それにしても能には興味は湧いた
その後すぐお能のチケットをネットで探した
割合定期的に行われているようだ
また機会を見つけていくことにしよう