パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ドイツへの憧れ

2014年10月10日 10時37分46秒 | 徒然なるままに
今日は休み
もっとも毎日が日曜日みたいなものだが、、

昨年ドイツを再訪して
一昨日パルジファルを新国立劇場で鑑賞して
益々ドイツへの憧れが強くなっていくのを感じる

ヘッセが言うような人生を振り返ってもいい世代に
なってきたので何故こんなにドイツに憧れてしまうのか
考えてみた

「YOUはなにしに日本へ」と言う番組がある
そこでは日本に来た外国人に何故日本に来たのかを
インタビューしているが、ほんと百人百様
仕事だけでなく、日本に憧れをもって飛び出した人も多くいる

昔の自分もそういった中の一人で
日本を飛び出した方
訳の分からない衝動に突き動かされて
無目的にただドイツに向かった

しかし何故ドイツか
音楽の存在が大きい
ベートーヴェン、バッハ、ヴァーグナー、ブルックナー、ブラームス
その人達がいたからは否定しないが、自分は音楽関係の人間でもなく
どうもそれよりはドイツから連想するイメージが大きい

ドイツは内省的で小説もなにか大きな出来事、社会との戦いと言うよりは
教養小説的な個人の内面を見つめたものが多い
(ヘッセ、ゲーテ)
音楽もそういったことを感じさせる
イタリアの光と影がはっきりした輪郭線のくっきりした音楽ではなく
またロシアのような感情に任せたり、本能の赴くままの大音量に身を任せたり
フランスのようにこじゃれたセンス、ニュアンスの違いを見つけて喜ぶのでもなく
ただ神秘的な音の中で瞑想するイメージ
そしてそれが構成的に理にかなっており、まるで学者と芸術家が共存するような感じ

ヘッセのガラス玉演戯は、まさにこの様な理の人と芸術家が共存する人を扱っている
(そしてそれが普通の社会に役立つのかも問われている)
この両者が共存するようなドイツの社会
むかしバイロイトで音楽祭の最中、公演のない日、あるいは午前中
トリスタンのアナリーゼと演出についての講演があった
そこに登場した人がメガネを掛けたいかにも学者風の人
しかし彼はピアノに向かって音楽に陶酔する素振りで講演を続ける
この時の学者と芸術家が共存しているようなイメージが
今も心に残っていてそれがドイツのイメージにつながっている

ドイツは極めて現実的な理に支配される面と
憧れとかロマンとか、なにか目に見えないものにも
本音のところで突き動かされているような気がしてならない
そしてそれこそが自分がドイツに惹かれる理由

ドイツでも列車の旅は本当に日本人にとっては幻想的でもある
日常の生活の中に、まるで夢の様な風景が当たり前のように存在する
彼らドイツ人は気づかずに毎日このような風景を目にする
だから知らず知らずその風景に馴染んだ発想をするようになる

若い感受性の強い時期にドイツに行った
というのは今もドイツに惹かれる理由の一つだが
その若い時期にドイツに行かせたものこそが
今もドイツに惹かれる理由の最たるもの

多分それは憧れといったようなもの
形ではなく、ただ本当にあるのか無いのかわからないようなもの
それが他の国ではなくドイツに向かったのは
単なる偶然かも知れないが、、、

もう一度ドイツへ
現在旅の計画を相談しているが(家族には内緒)
半分以上は行く気になっている
多分この衝動は抑えられないだろう

今度はもう少しドイツ語を勉強しておかなくては!

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新国立劇場のパルジファル

2014年10月09日 20時53分38秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)
地元の駅を昨日(10月8日)8時13分に出発
家に帰ったのは終電で24時近く
(だから今日は少し寝不足で眠い)

交通費もJR東海ツアーズを利用して安くなったものの
チケット代を含むと結構な出費

しかし、大きな満足感が得られたのが新国立劇場で行われた
ヴァーグナーの楽劇「パルジファル」の公演


生(ライブ)の良さというのだろうか
1幕の途中から演奏に熱を感じるようになった
そして3幕終了間近に頭をよぎったこととは
この非日常の体験が凄まじくて、明日から普通の生活に
戻れるのだろうか?と言う不安
それほどまでに久々のパルジファル体験は面白かった

演出はクプファー 
名前は聞いたことがある
くらいの知識しかない
そんなことよりまずは楽しめるか否か?

前奏曲が始まると同時に幕があがると
まるで漫画の稲妻みたいな光の道みたいなものが
目に入る
奥の方には何故か仏教の僧侶と思しき人物が三人
これは何だ?
判断保留にして舞台を眺める
舞台にあるものはこのジグザグの光の道だけ
このジグザクが時々途中から切れて、短くなったパーツが
あるときは上にあるときは下にへと移動する

この上下の意味も判断保留
まずは音楽に集中
そうしていると特にその動きも違和感がない

自分はこのくらい抽象的な演出のほうが好き
昔上野でみたパルジファルは夢遊病者の頭の中の
出来事と言う設定で、部分部分が現実的で説明的だったのが
かえってつまらなかった
日本のお能の様に想像力を刺激される方が楽しい

しかし、グルネマンツ役のトムリンソンは素晴らしかった
風格ある佇まいと余裕のある声量と音色

パルジファルはちょっと太めで
若者ではなくておじさんだったのが、
歌のある劇だから仕方ないけど、少し残念
クンドリーは2幕の誘惑は迫力があった

2幕の花達の誘いはもう少し音楽に
ネットリ感があっても良かった
なんとなくあっさりしていた
そういえば3幕のお楽しみ聖金曜日の奇跡の音楽も
あれれ、というまに済んでしまった
クナッパーツブッシュならもっと聴かせるところなのに、、、

そういえば飯守泰次郎氏の指揮するオーケストラは
1幕途中から全開と言う感じになって頑張ったけど
ちょっと金管が生々しすぎる部分があった
バイロイトはオーケストラの上部に天井があって
音が抜け切らないために少しこもり気味な独特な音色になるが
自分は聞き慣れている(レコードで)ので
もう少しブレンドされた音が聴きたかった

あとは合唱の部分
徐々に音階があがって聖なる感覚を表現するところ
これもライブなのに思いの外あっさり

こんな風に続けると不満が多いみたいだが
そんなことはない
全体的にはオーケストラも楽しませてもらった
ヴァーグナーの毒、魔術にどっぷり浸かることが出来て
やはりバイロイトに行ってみたいと思うことしきり

さて多分多くの人が一番に問題にしたのは演出
奇妙な仏教の僧侶の存在と、傷を塞げるはず槍でアンフォルタスの傷口を
なぞったにも関わらずアンフォルタスは死という救済の形をとり
泣くことを覚えて死によって苦悩から逃れられるはずのクンドリーが
最後まで生き残って、パルジファルとグルネマンツとクンドリーは
この城に逗まると思いきや僧侶の衣装の一部を受け取りどこかに行くような結末

何かを暗示しているのだろうけど
そしてその暗示への解釈は人それぞれ違っていても良いのだろうが
自分としてはこの結末もありかな!
と大した違和感はなかった
(自分の想像したのもがクプファーの意図したものとは違ったとしても)

ただなるほどと感心した演出は3幕の前奏曲の部分
この部分はパルジファルがいろんな辛い経験をして
人間的に成長する様を表現できればいいのだが
パルジファルが僧侶に施しをして、次に僧侶から何かを得て
新しいパルジファルになる
つまり行為自体が成長の証を表現しており
少なくとも見ている最中は納得できた

本当は終演後あの演出の意味や音楽について
いっしょに鑑賞した人たちと歓談したかったが
帰りの新幹線の時間が気になって急いで会場を後にしたが
これがちょっと残念だった

昔見たバイロイトでは何を話したかは覚えていないが
終演後どこかのレストランであれこれ感想を話した気がする
音楽を楽しむということは、こうした感想の交換もあると思うが
仕方ない!といったところか

ヴァーグナー
その魔力はルードヴィッヒ2世を虜にしたが
なんとなく分かる気がする

新国立劇場では来年「さまよえるオランダ人」が
あるようだが、自分はタンホイザーかトリスタンなら
もう一度足を運ぼうかな

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明日はパルジファル

2014年10月07日 19時59分17秒 | 音楽
1976年 バイロイトでホルスト・シュタインの指揮が最初
2回目は上野の文化会館で
そして明日の10月8日、新国際劇場のオペラハウスで見る(聴く)事になるのが
ヴァーグナーの「パルジファル」

バイロイトでチケット無しの自分が実際に見ることができたのは
偶然に近いラッキーな出来事だったが
このパルジファルは、ヴァーグナーの作品の中では好きなもの
出来自体はトリスタンほど完成度は高くないかもしれないが
タンホイザーと同様チャンスがあったらみたい(聴きたい)演目
もちろんトリスタンも見逃すことはできない

パルジファルの何が好きかといえば、やっぱりあの響き
刺激的ではなく、演劇がかっているとかわざとらしい
と言われてもあの神聖っぽい音にはうっとりしてしまう

2回目の上野の上演は、その演出がパルジファルの出来事は
夢の中の出来事という設定で、最初にベッドで眠っていた男が
舞台に登場し、最後もやはりその男一人で終わるものだった
(演出家は誰か知らない)

その演出がどうのこうの言えるほど多くのオペラ演出を
見ているわけではないのでなんとも言えないが
ただがっかりしたのは聖金曜日のあの音楽のところ
時間が空間をうんぬんでパルジファルが森を抜けて
城まで行くときのシーン
森は映像(投影)で表現されたが、その森のスケール感のなさ
ドイツのあるいはヨーロッパの深い森ではなく
どこか日本の公演の木々の中みたいな感じで
とても貧弱だった
なにか違うなと感じたのを今も覚えている

バイロイトで経験したものは今みたいに
演出主導のものではなかった
つまりオーソドックスなヴァーグナーが指定したような舞台設定
この物語はもともと非現実なのだから指定通りにやっても
空想の話として捉えられるから、それでいいと思ったりするが
プロの演出家は一癖あるように何かしたいんだろうか

昔はバイロイトから門外不出と言われたパルジファル
とにかく明日は楽しみ
でもスタートが昼の2時から
眠くなってしまわないかが少し不安だ

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スペンドシフトは起こっているか?

2014年10月06日 20時23分58秒 | あれこれ考えること
名古屋市で経済産業省が中心となった
先進的なリフォームビジネス事業者表彰への
エントリーの紹介の集いがあった

国内の住宅は供給過剰
日本人に新築志向が存在するのは事実だが
より現実的には誰が考えても、今ある家を
上手くリフォームして住むようにしたほうが合理的

ところで今日のここで(ブログでの)のテーマは住宅のことではなく
経済産業省の方が説明した(紹介した)アンケート結果のこと

消費者ニーズの変化と言う項目での
「生活者1万人アンケート調査」の結果に
●とにかく安くて経済的なものを買う、が
2000年から徐々に下がってきて

●多少値段が高くても品質の良い物を買う
●出来るだけ長く使えるものを買うといった
気持ちの変化は年々増加していると発表された

なるほど、そうあって欲しいし
一見何の違和感もなかったが
待てよ!と思ってしまった

つまりこの調査は、そのように行動しているということではなくて
単に気持ちを聞いただけではないのかと疑ったわけだ
そして実際の購買活動にはこの気持は反映されていないのではないか
と想像した
アンケートは聞き方によって望む答えを引き出せそうだし
この結果もどことなくそんな気配がしないでもない

少し前の自分なら何の疑問もなくこの結果を鵜呑みにしていた
ところが最近は、そうあって欲しいが現実は
やはり低価格志向から抜け出せないのではないか
と考えるようになった

何故なら若い人たちは一部の恵まれた人たちを除いて
全体的に金銭に余裕が無い
そういう人たちは良い物とわかっていても絶対金額が高いものを
求めることは現実的ではない
そして何よりも社会の動向を表す広告などは
高くてもいいものを!よりは
とにかく安いものを訴求している

何度も繰り返すが、本当は高くても質のいいものを
長く使うことが良いことだと思うし
そうあってほしいと思う

しかし、生活する人々の心にまで浸透しないと実現されないだろう
高くても良い物を長く使うと言う発想は
ある程度教育をしないと根付かないのではないのか
と思ったりする

本当に消費に振り回される社会から
開放されることができればいいのだが

経済は社会の血液といって
消費社会こそが健全な姿といろんな理由をつけて
言いたい人がいるだろうが、その人達は多分手段が目的化している

実際のところ人間が経済から離れて暮らすことはできないが
せめて支配されないようにしなくては!



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みんながまじめに行う、とは限らないリスク

2014年10月05日 19時37分49秒 | あれこれ考えること
先月の9月から3ヶ月間 
総務省統計局の全国消費実態調査のアンケート対象世帯になって
毎日の家計、収入・支出を所定のノートに記入している

当初簡単に引き受けたもののこれが案外面倒くさい
まず最初に世帯調査 家が個人所有か借家か、そしてその面積は
働いている人間は何人か
家にはIH、床暖房、エコキュートはあるか、そしてそれはいつからか
といった基本的なものから
現在家にある現金の額
そして毎日の収入と支出の出入りの明細
給与や年金が振り込まれた場合は一旦現金収入として
銀行に預入と言う形で支出扱いにする

この辺りは慣れてくると、
なるほどこれでお金の流れは理解できるようになるかもしれない
と思うようになる

この調査の面倒なところは貰い物があった時のこと
何かのプレゼントを頂いた時、その品物の市況価格を
記入することになっている
これがつい忘れてしまいそう
お隣さんから野菜の差し入れなんかがあった時は
よほど気をつけないと忘れてしまう

と、ここまで書いて
この面倒な作業を対象となった家庭はみんな正確にやるだろうか?
こんな疑問が湧いてきた
とりあえず自分はまじめにやることにしているが
貰い物などは、ま、記入しなくてもいいか!
との誘惑に負けそうになる
そうでなくても、自分が完全に正確にできているかは
怪しいかもしれない

全国でどのくらいの人大が対象となっているかしらないが
すべての人がまじめに正確にできているとは考えにくい
そして同様に、この面相臭い調査を集計する人も
真面目な人ばかりとも考えにくくはないだろうか

つまり統計局の人たちもいろんな人がいて
横着な人間は大雑把な集計しかしないのではないか
と思ったりする
もちろん、その確率は少ないだろうけれど
人間の社会は正規分布に従って
まじめに行う人と同じ確率でいい加減な人々が出てくると
考えるほうが本当ではないかと思ってしまう

統計は最初からある確率の誤差を含んで
ある範囲内の数字を算出しているが
実際当事者としてこの調査を行うと
統計局の数字は目安にはなるかもしれないが
本当のものかは少し怪しい思いが抜けないのが本当のところ

そこで更に連想することは原発のこと
原発を安全に稼働するためにいくつかの過程がある
ところがその過程は全員がまじめにきちんと行うことが
前提になっているとしたら、それは少し怖いことではないか
もちろん何重にも危険回避が行われるようになっているに
違いないだろうけれど、最終的には人間が行うと言うリスクは
システムの良し悪しを越えてどこか怖いところがないか

飛行機の安全性も同じこと
そんな風な声も聞こえそうだが
原発は一度やったら取り返しがつかない
次に活かそうなどという余裕はない
それなのに、統計的にいい加減な人間の含まれる可能性のあることを
実行しようとするのは、とても怖いことのように思えてならない

つまり以前にもここで書いたことがあるが
「人間というリスク」をどこかで認めないと
取り返しの付かないことになってしまいそう
と思うのは杞憂だろうか
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メディアの報道について

2014年10月02日 19時18分23秒 | あれこれ考えること
3.11の原発事故の報道(特にテレビ)
あの時イライラを感じた人は少なくない
今どうなっているか、正しく伝えられているか
といった焦燥感ではなく
メディアのアナウンサーと原発の事故を説明する人の
噛み合っていない会話の様子は今でも記憶に残っている

簡潔に説明することが上手いアナウンサーやテレビ局も
原発のそもそもの知識が足りない
だから質問をしようにもどんな質問をしたらいいか分からない

一方説明する側の人間も素人に分かるように話す機会が少ないので
つい普段の仲間内に話すような難しい話をしてしまって
結局報道的にはちんぷんかんなことが多かった

もっと根本的には一般の人は原発のことは何も知らなかった
流石に原発のシステムの細かいことまで知ることは難しいとしても
想像される危ういことが起きた時にどうするのか?
といったことも、その説明を理解する能力も、そしてその教育も
何にもできていなかった
分かっていたと思っていたのは多分安全、確率0.00何%で安全だろうということ
それも大本営発表のものを丸呑みで信じていただけ

つまり、庶民は何も知らなかったということ

そこで話を経済に転じた場合
この原発の報道と同じことが起きていないだろうか

つまり経済は難しい 特にマクロ経済や国際情勢と金利との関係
為替の問題、そんなものは一般人は分からない
一般人に分かるのは生活者としての実感だけ
しかし、報道は統計の数字を基に今の経済状態を報道する

だがこの統計というものが曲者で
深くツッコミができない素人は、ある意図を持った数字や概念に概念に
つい騙されそうになる

ここで言いたいことは原発の時と同じで
報道側も実は経済の仕組みを理解して報道しているのではないということ
単にお上が発表することを無批判に垂れ流しているだけということ

わかりやすく説明することの得意なメディアは
しかし自分で責任をもつことは嫌うために
誰かに話を聴くという形をとる
(しかも、どの局も同じ人物だったりして)

原発も経済も実は何も分かっていなかった
人はただお上の言うことを信じていただけ
そのお上は信じるに値するかと言えば
これがまた怪しくて、規律委員会を設けなければならないような
あてにならない、いわば人間的な世界

こんな風に考えると絶望的になりそうだが
今できることといえば、やっぱり一歩づつ真実を知ろうとすることしかない

原発に必要な知識はなにか
どんな風に安全性を確保し、準備し、対応していくか
経済の実態が何故自分の実感と大きく異なるのか
お上の発表はほんとうに正しいのか
別の角度からの解釈ができるのではないのか

そして報道にもこうした姿勢を求めていくことが
何よりも必要と感じる
わかりやすく理解するのではなく
難しいよううでも本質をつかめるような理解の仕方
庶民がそういうものを求めない限り
報道は庶民なんてものはこんなものだ
と見下したような姿勢をしてしまわないか

報道の力は国のインテリジェンスを表すとしたら
この国、日本はいったい大丈夫なのだろうか?


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